511・2016、新年会

2月11日(木)、今年は連盟外で年賀状を交換している先生方との交流をいうことで声をかけて蒲田で例年通りの親睦会を行った。
私だけでなく他の先生方との交流団体にも声をかけていただき、防具空手界で和気あいあいとやりましょうということで例年にない集まりになったねぇ。
 最初の会合の会場がいすが足りなくなってあわて、親睦会でも2階を貸し切っても足りないくらいになるのではないかと心配をしたが、何とか事なきを得た。次回はもっと幅広く声をかける予定であるので考えなければならないねぇ。
 また今回は会の代表だけでなく一緒に来れる人はどうぞ、ということで師範代の人も参加したのでにぎわうと同時に話が弾んだねぇ。
毎回大会ドクターをお願いしている瀧澤先生も会合から参加していろんなお話を伺ったり、吉澤先生からは防具付空手の歴史を伺ったり、普段では見られない貴重な経験をしたことであった。

 懇親会会場は私どもがいつも利用している居酒屋で行ったのだが、、ここは何時間いても割増料金は取らないので最後までいた人は6時間近くもいたのだが十分満足したことだろう。





 私も各テーブルを回って話をしたりしたが、肩ひじを張ることもなくのんびりとやって行ければいいかと思っている。
私たちの下の世代の人が頑張ってきているので、サポートする方でいいかと思っているが必要とあらば出ていくぐらいが楽でいいねぇ。
 横浜に来て暮らしやすい生活は人の考えも変えるのかね。テーマを掲げて頑張ることなしにみんなで和気あいあいあとやっていくのがいいような気もする。
 今年は空手の雑誌も廃刊となって、空手界、特に防具空手界は新しい形態になっていくかとも思っているが移りゆく中で自然体のままがいいのかもしれない。
今年は空手を楽しみたいものである。
 

510・横浜田中屋

2月4日(木)、友人と横浜田中屋へきて昼食と会合ということでやってきた。ここは幕末に西郷隆盛が高杉晋作と倒幕について協議したとか、勝海舟をはじめ有名な人たちが訪れたことで有名な老舗の料亭である。
昼間の会席料理は夜に比べて安くなっているので昼食をとるために過去にも来たことがあり、雑記でも紹介したことがある。前回は昨年の春に来たような記憶があるが定かではない。
入り口に来ると仲居さんが向かいに出てきてくれて、友人がぜひとも一枚撮ります、と言われて恥ずかしながらお願いした。
 ランチコースがあって、次から次へと料理が運ばれてきて説明をしてくれるがうなづくばかりでよくわからないがおいしいのはさすがである。<img src="/usr/u/e/s/uesugikaikan/DSCN0719.JPG" alt="" title=

 その一端を紹介したのだが今回は結構な量だと思ったが、メニューは毎月変わるのだそうでこのようなところにも企業努力があるのだねぇ。
今回は明治時代であろう、当時のメニューを持ってきて見せてくれたのだが、外人を相手に繁盛していたということである。道路をはさんだ処にアメリカの領事館があり、ハリスさんなどがよく通ってくれて当時英語が喋れたおりょうさんが活躍したのだそうである。
 私も一端にこういうところで食事ができるようになった、生活に余裕はなくともこのようなところへ来れるようにはなった。床几などの肘をついていっぱしのポーズをとってみた、慣れていないゆえに様にはならないが真似事である。
 私を占うと、大器晩成型で将来は良い方向へと向かいます、などとよく言われたものだが、確かに若いころの生活に比べるとランクは上がってはいるが、これはほとんどの人にも言えることである。
 私は、実子がいない分自分に回せるからそう思うのだが、世の人々は家族を抱えて何倍も頑張っていることだろう。
単なる好き勝手に生きて来ただけなのである。
 高杉晋作のように、好き勝手に太く短く生きた人、西郷隆盛のように大きな功績を残しながらも、最後は若者に身をゆだねて散った人、勝海舟のように晩年を永らえた人、偉人にもいろいろな人生があり、またそれが現代の人にとっても立場立場で支持されるのだろう。
 平平凡凡に生きる我々の指標になったりすることもあるのだが、このような由緒あるところで食事をすることでいろいろと思いをはせるのである。
ここへ来てみると多くの有名人が訪れており、またその写真も飾ってある。それらを一枚一枚見ながら階段のきしむ音を聞くことがまた歴史を感じるのだねぇ。
 今日一緒に来た友人も歴史が好きとかで話も弾み、楽しい時間を過ごせた。
もちろんこれからの空手界も話し合ったがお互いに頑張っていこうということでお開きになった、有意義な一日であったねぇ。
 
今年は始まったばかり、力強く頑張っていくとするか。

509,2016・称名寺

一月に行こうかと予定をしていたが、細君の休みとうまくかみ合わず、この日2月2日に今年初めての称名寺となった。
 よい天候の元、車で初めて行ったが、金沢文庫までの道路がこんなに便利になっているとは知る由もなかった。
 私が引っ越会社に勤めているころは横浜市内を抜けて金沢文庫を通るときは幹線道路なのに一車線しかなく、ずいぶん混雑にあったものだったが、今は磯子から357号線が延びており高速道路を走っているかのように流れているのにはびっくりした。
 そうだよな、私の話は30年前の話で、浦島太郎状態である。
横浜に引っ越ししてきて車をそろえ、行動するようになると範囲も増えて、知らずと昔と比べるようになっている。
 道路のことを言うと、山下公園からは横浜駅を通過せずに赤レンガの地下トンネルで東神奈川まで一気に来れるのである。あのころは混雑覚悟で横浜駅前を通過していたものだった。
 横浜ベイブリッジも高速道路ではなくてその下の一般道路を走ることにより、無料で、今日はすべて無料通行というずいぶん得をしたような気持である。
 そのようにして称名寺へ着いたが、今度は駐車場を探してウロウロ、幸いにも近くにコインパーキングがあって安心してハイキングができた。
 冬の称名寺にはどこかさみしいようだが歴史を感じる。平日ということもあって人も少なく、クウも思い切り遊べてはしゃぎまわっている。
 私も山の起伏を歩くことでいい運動にもなり、気分転換にもなり、ここは好きだねぇ。
頂上の八角堂へ着くころは汗をかき用意したシャツに着替えるのだが、今日は風が冷たいのに気持ちがいいほどである。
 この近くの西柴町には詩吟会員の人が何人も住んでいるようで、詩吟の会でたまに会うときは話題にも上る。近くに海浜公園もあるが、そこで発声などをやっているそうで、健康づくりにもなっているんだねぇ。
 今日はコースの途中の稲荷山という休憩所や、北条実時の墓があるのだがそのあたりで休んだりしてきた。
こうやって歩きながら歴史に触れて思いをはせてみたり・・・気分もリフレッシュされて、戻ってさぁ今年も頑張るか、そういう気持ちになるのである。
今年は正月早々大ニュースが飛び込んできた。ひとつ気を引き締めて頑張っていきますかな。

508,根岸のレストラン

1月19日(火)、素晴らしい天気になった。空気が澄み渡って景色が素晴らしい。細君も休み、お昼に出かけようということで先日、出かけた根岸のレストラン「ドルフィン」へ出かけた。
ベイブリッジを渡るとき丹沢から富士山までくっきりと見えて素晴らしいドライブ日和である。今回はあらかじめ電話で確認をしていたので営業をしていた。12時前に着いたのでとりあえず私たちが最初であろう。そのあと2組ほど来たが・・松任谷由美さんが40数年前にここ、ドルフィンを舞台にした歌、「海を見ていた午後」を出したそうで、以前から一度来ようね、ということだった。
 歌の舞台とか、歴史の史跡などを訪ねるのは好きである。
ただ、当時は荒井由美であったか、正直興味もなく名前をかすかに知っている程であったので、ここの舞台の歌など知る由もない。
 そういうことなのであらかじめ下調べをしてきたが、ここのソーダ水の中を貨物船が見えたわけだね。
そうなれば、ここは定番であろう、今ではドルフィンソーダとメニューにはある。
ランチの注文の後に、ソーダ水を頼んだ。
 店の人も心得たものである。今までピアノの伴奏だったのが、急に変わって荒井由美さんの「海を見ていた午後」がさっそくかかってきた。
失恋の歌のようだが、私たちは二人で来て楽しく食事をしている。ちょっとそぐわないが、ここは静かに聞いてみる。当時を知っている人は青春がオーバーラップしてきてここはぐっとくるところであろう。
 
 私の青春はというと「あ~んな~女に未練はないが♪♪なぜか涙が流れてならぬ♪♪~」人生劇場、村田英雄である。
ここでは無粋なので、やめておこう。
閑話休題
ナプキンもあったがただのナプキンなので書くのもやめた。
 この店もその後立て直しをして当時のものではないのだという。
それはともかくとして、料理もおいしくいただいた。眺めも良く、今日は特別だろう、真冬の天気のいい時は素晴らしい眺めである。
 友人と来るのも素晴らしい思い出になるだろうねぇ。
又夜の眺めも素晴らしいそうで、ディナーという手もあるねぇ。
 坂を上ってくるようだが根岸駅からだと結構ありそうである。
年なのか、ここは車で来たのだがご勘弁願いたい。
 今日は冬でもめったにないであろうというくらいの素晴らしい天候であった。
改めて、素敵な一日であったと思う、「海を見ていた午後」であった。

507,目黒不動尊

友人と今年の初詣はどこにするかという相談になって、目黒不動はいかが、と言われ、私は行ったことがないので二つ返事で行くことになった。
 1月14日(木)、冬日となって朝夕は冷え込むが日中は暖かい。鶴見から蒲田へと向かい目黒線で多摩川で乗り換えて不動前駅に初めて降り立った。

 そうか、不動前駅という駅名はこの目黒不動にちなんでいるのか、蒲田に40年も住んでいたが別に気にも留めることはなかった。
駅前から人に聞きながらたどり着き境内に入ると立派な本堂があり正月は大変な参拝客であっただろうとおおわれる。ここは山手七福神めぐりのコースになっており、恵比寿様が祭られているそうである。商売繁盛と多幸をもたらすそうである。本堂の下には水かけ不動があっ足り甘藷先生こと青木昆陽の墓や記念碑もあったりして結構歩きまわった。そうそう、ここのトイレは、「湯放処」(ゆまりどころ)と表示してありめずらしいので一枚収めた。初めて見る表現だね。
童謡の父、本居長世もこの近くに住んでおいて有名な「十五夜お月さん」などを作曲したそうである。
 現代の人にそんな話をしても知らない人のほうが多いかとは思うが、私も小さいころに覚えがあるくらいである。
青木昆陽とて知っている人は少ないのではないだろうか、8代将軍吉宗公時代の大岡忠介に登用されてサツマイモを作って飢饉から庶民を救ったという話くらいしか知らないのである。

 そんなこんなで説明書を見ながら散策した。
その帰り蕎麦屋でも・・と探したが見つからず駅近くに来て店を探して一杯やって戻ってきた。
のどかな午後、のんびりと過ごした休日であった。
 その帰りJR鶴見駅で降りて戻る途中多くの僧侶が托鉢として歩いている。そうか、ここは曹洞宗の総本山があるのだ。いやぁ、こんな光景には初めて出会った。圧巻だったねぇ。

506,靖国神社と葉山

2016年い月5日(火)、細君の詩吟の会が靖国神社能楽堂において毎年奉納芸能として詩吟を行うので今年もそのカメラマンとして同行した。昨年は欠席者も多くて私も一吟頼まれたが今年は、正月の陽気もよくて私の出番はカメラマンだけだったな。
 それが終わったら次の予定に移ろうとしたら、代表者から本殿参拝のメンバーに入っていると言われ、予定を変更して参拝に加わった。
正月早々本殿参拝などそうあることではない、ましてや靖国神社である、ありがたく承った。
 昨年も参拝させていただいたが昨年は大変人が多くてずいぶん待たされた間もあったので今年は遠慮の気持ちがあったのだが、今年は昨年の半分以下だろう、待つことなく参拝で来た。
 昨年は戦後70年ということで昨年が異常だったらしいのである。
厳かに拝殿から本殿へと移りお参りをさせていただく。時々テレビなどで、政治家が参拝するときに映されるあの本殿である。
 靖国神社も毎年お参りをしているが、特別な思いもあるねぇ。
細君の先生が今年は「九段の桜」を吟じていたが、桜の季節もひとしおの感がある。その桜の光景には圧倒される。
 奉納殿の隣には、撮影場所が設けられており、多くの人が写真撮影をしており時には順番待ちにもなる。
おどけたたポーズで撮ったりしている人がいるが間違いなく中国人だね、中国の人はたいてい何がしらのポーズをとる。マナーを守れば別にいいとは思っているので構わないが、外国の人もお参りしてくれることはいいことである。
 昨年暮れには韓国人がトイレで爆破騒動を起こしたせいか、今年は警察官も多く見受けられた。
8月15日の終戦記念日とは違って、正月の靖国の顔はずいぶんと違う。
今年の正月は暖かくて3月下旬から4月の気候ということもあってずいぶん人出があったことだろう。
 穏やかに参拝できるのは改めて平和のおかげだねぇ。
今も、世界のどこかでは戦争が行われており、難民があふれている。日本も平和ボケではいけないがこの平和に感謝をしなければならない。
 おかげさまで私なんぞは幸せのひと時を送ることができて、この平和を享受させていただいている。
この日の夕方は葉山のすし店に出かけておいしい食事をしてきた。
 今年の正月はどこへも出かけずに寝正月であったが、幸せなスタートを切ったと思う。
ことし一年、幸せに過ごしていきたいものである。

505.根岸森林公園

1月3日(日)、細君の風邪が治りきっていないのでハイキングは止めて近場でリフレッシュをしようということで、久々に根岸の森林公園を訪ねた。
 横浜に来て大黒ふ頭からベイブリッジの下を通る一般道で通って行ったのだが市内を抜けるよりも格段に速くましてや無料ということになるとこれは便利な道路を覚えたものだねぇ。
 まだ正月休みということで一般道路も少なくて、思っていた以上に早く着けた。
今回は前回来た時よりも違う場所に着いたみたいでとにかく広いのである。ここは幕末の1866年横浜の外国人居留地における娯楽施設として建設され、翌年から競馬場に使用されたところだそうである。
 そういうところを横浜市民の公園にしたのだから相当広く以前に来た時もそのほんの一部分しか来ていなかった。
広場では多くの家族連れが凧揚げやボール遊びに興じている。
驚いたのはワンコウの散歩する人が多いことである。
 これだけ広いとリードを話して走らせたいところだが、そんな人もいるのだろう、至る所に放し飼い禁止やマナーを守ろうという書き込みがみられる。
 ただそれなりの人たちなんだろうね、フンなどは見られなかった。安心して寝転がれるかな。
今日は天気も3月から4月の陽気で大変に気持ちよく散策をした。
 大きな塔が三つ並んでなんだろうと思っていたら、競馬場時代のメーンスタンドの跡なんだそうで、本格的な修復は返還以来されておらず放置状態なんだそうである。

 帰り間際、細君曰く、この根岸には、ユーミンの歌に出てくる「ドルフィン」という喫茶店があるそうだがそれはもう少しはずれのほうでまたの機会に譲ることにした。
 ここは家族連れの人には最高の場所だねぇ、金もかからず自然に接して思い切り遊べるし、テントを張って休んでいる人も全然迷惑ではない。
 そういえば、ヨーデルをかなえるおじいさんもいて、どこか牧歌的で風情のあるところだねぇ。
ワンコウも疲れるほど歩いて今日はリード付きだったのでそれなりに疲れたのだろう、帰りは後ろの座席でぐっすりだった。
 今年は遠くに行かずに安くてリフレッシュできた正月だったかな。

504.2016年、謹賀新年

2016年、新年おめでとうございます。
40年以上も住み慣れた東京を離れて、横浜で初めての正月を迎えました。一言で言って静かです。横浜でも鶴見区の駅からそう遠くはないのだが、通りを一本入ったところにあるので静かな朝を迎えていますねぇ。
元旦は地域の氏神様鶴見神社へ行ってまいりました。朝早くと午前中に行ったときには人など並んでいなかったのだが、天気もいいせいもあるのかねぇ、ずっと100メートルは並んでいたかね、蒲田での並びよりかは多かった。
 お参りは済ませているので、お札を買って、NHKの連ドラに出たという、ラプラスという鶴見では有名なケーキ屋さんでコーヒーを飲んでくつろいで戻った。正月ならではの光景だろうねぇ。
 新年になって何が変わったかというと、引っ越しのせいもあろうかと思うが気持ちも新たになったと思う。
さっそく1月の終わりには神奈川地区の審判講習会と練習試合が行われ活動するが、地域の団体の活動が目につくようになるのではないだろうか。
 連盟も関西、中国四国、九州と各連盟ができて各地区でそれぞれ大会を開催しているがこれを西日本大会にしてさらに大きくなろうと活動している。
 関東では相変わらずではあるが、連盟も新しい団体との交流も広がって輪が広がりつつありさらに活動を重ねていくでしょう。
マイぺースながらもしっかりとやって行ければいいのではないか、幸いしっかりした先生方が増えて頼もしい限りです。
昨年は、夏のジュニア大会を大田区の太田体育館で開催して一段と飛躍したようで、今年もすでに7月3日(日)、と決定しています。
 暮れの台東リバーサイドスポーツセンターとの2本立てで回転していくと皆さんの予定とともに発展していくでしょうねぇ。
 
今年もますます頑張ってまいりましょう。

503/12月14日

蒲田にいるときは朝6時に家を出て7時開始の泉岳寺に着いて、御朱印を一番先に並んで書いてもらっていた。
そのころは警備の警官たちも着始めたころでまだ準備にも取り掛かっていなく、出店の人たちもようやく到着するというような時間であった。
 当然墓参りもほとんど人がいなくて、10分もあれば一回りして、8時には蒲田に戻り連続テレビ小説を見ていたものだった。
鶴見に引っ越ししてきて、蒲田で快特に乗り換えるなどの時間を考慮すると30分はかかる。
それに今年はいいかな、と思っていたら細君が休みで昼に時間が取れるようなことを言っていたので、そのころに行くか、ということで行ってきた。
 ある程度の予測はしていたが案の定、というところか人が混んでいたねぇ、線香を買って並んだのはいいがこの分だと一時間は優にかかる。お参りをしたということで手を合わせ本堂に参り、それでよし、とした。

 この日ばかりはこの泉岳寺は正月以上の混雑ではないだろうか。夜はこんなものではないのである。
もう、40年も前になるだろうが、夜に友人と来て線香の煙がむせぶ中を並び、一張羅のジャンバーを誰だかわからないが線香で焦がされていた。それ以来夜はいかないことにしていたのだが、昼間は何年か前に行ったことがあったね。
 しかし昼間の混雑はまぁまぁというところかな。出店も並んでいるので甘酒を飲んだり、イカを食べてみたり縁日を楽しんだねぇ。
今年は二人なので写真も十分にとった。
 御朱印も朝一番はまだ若手の人が書くのだろう、昨年のと比べれば一目瞭然である。
今年はしっかりと書いてあってありがたい感じがなおさらしようというものである。

 12月の定番である忠臣蔵も視点を変えてみると、必ずしもいいものだとは思えないくなったねぇ、確かにその功績は立派なのだが家族にとっては、平凡で幸せに過ごしたのが一番だっただろうと思うのである。
 以前にも書いたが浅野の殿様がもう少し分別のある人であったならば、歴史には残らなくともその家中は平凡に幸せに終わったのではないかねぇ。
 私の生活を顧みると平凡な毎日であるが、これが大変ありがたくこれで十分幸せなのである。
若いころは、忠臣蔵など大好きであったしこれぞ武士の本懐、などと思ってもいたが、年のせいなのかもしれない。血気盛んなころとはずいぶん変わってきた。
 しかし、今日は、時代にほんろうされながらも意志を貫いた義士の方たちの冥福を祈ろう。