仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けてゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。
そこで、阿弥陀如来は私達のような者を救おうと誓い、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが真宗の教えです。阿弥陀如来は私達のような者こそを、救いの対象にしているのだと説いてるのです。
また、真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が真宗の念仏なのです。
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成田山新勝寺参詣
今日は成田山の縁日です。
初詣して、護摩焚きと方位除けをしてきました。
般若心経に学ぶ
般若心経に学ぶ
◆漢訳
(玄奘三蔵訳を元にした流布本)
ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
かんじざいぼさつ ぎょう じんはんにゃはらみったじ しょう けんごうんかいくう
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
むしきむじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう
無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
いむしょとくこ ぼだいさつた えはんにゃはらみったこ
以無所得故 菩提薩 依般若波羅蜜多故
しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう
心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
くう ぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
ぼじそわか はんにゃしんぎょう
菩提薩婆訶 般若心経
◆和訳
私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、連想、思考という一連の知覚を構成する5つの要素(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。
しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」 それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。
「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体のないものを本当にある物のように思っているのです。体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、実体がないというあり方が体の真実の姿なのです。これは体だけでなく感覚やイメージ、連想や思考も同じです。(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません。
シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません。
(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。)迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。
同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。)苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。
(つまりお釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。)知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。
“智慧の完成”は大いなる真言(呪文)、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除くものであり、偽りがないので確実に効果のあるものなのです。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りをもたらしたま)
シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。