千葉ロッテマリーンズ 事業本部 営業部 チーフ 丸山一仁 さん

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千葉で活躍するスポーツ選手にインタビューする「The★アスリート」。
今回は、千葉ロッテマリーンズの元選手で現在は事業本部営業部チーフの丸山一仁さんにインタビューをさせていただきました。

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丸山 一仁(まるやま かずひと、1960年10月30日)/愛媛県出身/元プロ野球選手/右投左打

【来歴・人物】
上浮穴高校から近畿大学を経て1982年のドラフト5位でロッテ入団。
1989年現役引退後も球団に留まり、球界初の金田監督付き専属広報担当に就任。その後、3年間、二軍コーチとして若手の指導に。1995年広岡GM・バレンタイン監督就任の際は、チーム/フロント広報、以降は、フロント業務(法人営業/連盟担当/浦和球場施設管理担当)を経て2007年振興部地域振興課シニアマネジャーに就任。
2014年は中国・台湾担当として中国江蘇省無錫市にある江蘇ホープスターズで選手育成及びコーチ指導。 その他、無錫市内の大学・高校・少年野球指導など野球振興に携わる。

 

 

■ボビー・バレンタイン監督が新風を送りこんでくれた


 Q.丸山さんが考える千葉ロッテマリーンズの魅力はなんでしょうか?

私たち球団は外野応援団でも分かるように、すごくマリーンズを愛してくれるファンの皆さまのお陰で成り立っています。それに選手を含めて球団が応える、熱い心をもった人が集う球団というか、そういったチームカラーが魅力だと思います。

 

-なるほど。では、なぜそうなったと考えますか。

 

球団が千葉に移転して25年目になりますですが、はじめの頃は「弱いからこそ団結してきた」と言うのはあったと思います。弱さが強みと言ったら言い方が悪いかもしれないですけれども、「弱いけど諦めずに応援していこう」という雰囲気がありました。球団としてもどうしたらお客さまを沢山呼ぶことが出来るか一生懸命アイデアを出しながらやっていて、最初の頃は失敗続きだったこともありましたが、1995年にボビー・バレンタイン監督が来た頃から少し明るさが出てきました。あの頃は日本の球界にとっても転換期だったのかなとも思います。

それまではどちらかと言うと野球は男のスポーツで、女性やファミリーはあまり観戦しに行かないという状況だったのですが、1995年の頃からアメリカナイズされた形に少しずつ変わっていきました。そして2004年、2回目のバレンタイン監督就任の頃からその機運は高まりました。

 

-時代的な流れもありつつ、球団のこうなりたいというような願望が合わさったというような感じでしょうか。

 

そうですね。監督も魅力的で、応援団も「俺達のマリーンズ」という気持ちがあって。その監督のもと、西岡、今江、清水直、里崎、福浦、サブローといった魅力ある選手が生まれて来たというのがその時期に集約されていたように思います。そして球団も「新生マリーンズ」として12球団に先駆けて様々な改革を独自で行いました。

 

-先駆けた改革というのはどういったものだったのでしょうか。

 

簡単に言えば「球場での楽しみ方を変えた」というところです。今では当たり前ですが、パーティールームやボックスシート、スタンドデッキにはビアガーデン風の席も作りました。

また、球場内での告知をスマートにするために「リボンビジョン(※オーロラビジョンを細長くした形状の映像装置)」を設置したり、ピンストライプユニフォームや挑発ポスターもそうですが、メディアが飛びつきそうな話題を多く提供しました。

あとはバレンタイン監督もよくやっていましたが、サインを必ずしましょうとか、なるべくファンとの距離感を縮める様な作業をチームと同時に行っていました。

ユニフォームを変えたというのもそうです。「強いマリーンズ」というイメージをユニフォームを通して打ち出すと同時に、ファンの方々もユニフォームを着て「26番目の選手」という強い気持ちで戦っていこうという試みをおこないました。要は「ベンチ入りは25人までだけれども、ファンの皆さんは26番目の選手なんだよ」ということで26番を永久欠番にしました。

 

-ボビー・バレンタイン監督の影響は大きかったということでしょうか。

 

IMG_6823新風を送りこんでくれた方だと思います。それに加えて瀬戸山隆三球団社長(当時)や、今はNPB(日本野球機構)にいる荒木本部長(当時)もいたので、色んな意味でアメリカンチックなんだけれどもマリーンズらしさを作ろうという意識はかなり高かったです。やっぱり人材がそろっていましたし、改革しようという機運がありました。どちらかというと僕は意見を言う方でしたので、今までは聞き入れてくれなかった事が、「逆にもっとお前色んな意見を出して来い」というような形で吸い上げられていったので、様々な改革案や組織案もその時に作られました。中国に行ったほうが良いですよとか、アカデミーを作りましょうよとか、そういうような話はその頃にしていました。

 

-なるほど。ファンから見るとマリーンズはプロスポーツのチームですけれど、やっぱり球団もひとつの会社ではありますし、そういった雰囲気や組織のメンバーというのもチームを盛り上げていくには重要な要素なんですね。

 

その気にさせてくれたというのが有るかもしれないですね。「いいよやって」みたいな空気感や「何でもあり」的なところがあって、携わる人間が面白いと思ったことは、まずおこなってみることだということ。ボツネタもいっぱいありましたけれども、結局行動しないことにはお客さんの評価も受けられないじゃないですか。ですので最初の2004年、2005年辺りはいろんな経費が掛かった部分もありましたが、そのお蔭で色々と削ぎ落とされていき、「この時期には何をする」という軸がその頃に出来たので、それが財産として残ったと思います。

そしてその2005年に31年ぶりにチームが優勝して日本一になり、その後に開催された第1回WBCにマリーンズのメンバーが沢山選ばれて世界一になりました。その1年間で球団のイメージがグンと上がって、それにファンの方々も融合し現在のマリーンズが出来たように思います。やはり我々にとって世界一になったメンバーが目の前に居ると誇りに思いますし、営業もしやすかったです。良いタイミングだったというか、運がありましたね。

 

 

■商談が決まるときというのは何か導かれているような気がします。


 Q.丸山さんは現在「事業本部 営業部 チーフ」ということですが、普段されているお仕事の内容を教えて下さい。

年間席シートの営業と看板の営業。広告ですよね。この2つを主におこなっています。

 

-それは法人が対象ということでしょうか。

 

そうですね。ほとんど法人です。

あとは先方が商品に魅力を持っているのであれば、それを宣伝するための「1日協賛デー」という形式も広告媒体に入りますから、そういったことが大きな仕事の分類にはなりますね。

 

 

Q.試合の日にはどんな役割がありますか?

基本的にはお客様回りです。あとは魅力ある球団づくりの一環として「おもてなし作業」というのを去年から会社の方針でやっていますので「いらっしゃいませ!こんにちは!」という球場での接客も、時間が空いている限りは我々営業マンが率先してやっています。

 

 

Q.丸山さん自身が力を入れていること、これから力を入れていきたいことはありますか?


IMG_6855ひとつは新規開拓です。様々な異業種交流会があるので、その中でお仲間になった方とさらに個人交流会を行い、そこでコラボレーション出来るようなことがあれば「こういうPRをしませんか」とか「商品を選手がPRする企画をやりませんか」といったことを更に進めていきたいです。
あとは展示商談会にも少し通ってたりしています。

 

-それは野球に関係のある展示会に関わらずということでしょうか?

 

そうですね。「こういう展示会があるから今度来てくださいよ」と交流会の中で言っていただけるので、実際に足を運んでいます。
しかし、ただ単に広告を売りに行くだけですと「お金がないんだよね」とか「時期じゃないよね」という風に言われてしまうので、「共同で何か作り上げましょう」という図式でやりたいと思っています。
これはほとんど大企業ではないんです。大企業を狙いたいとは思いますが、僕はそこまでのプレゼンテーション出来る技量を持っていないですし、逆に新しいことをやりたいという若手の起業家さんや、会社を興したばかりの人たちの方がバイタリティがあるし、色んなお客さまを横のつながりで持っている場合も有るんです。また、中小企業は社長が即決即断出来る場合がありますから、そういった所とコラボレーションをしたほうが魅力ある企画がすぐに出来ると思っています。

 

 

Q.丸山さんがやりがいを感じるときはどんな時ですか?

やっぱり商談が決まった時ですかね!(笑)

最近思いますが、商談が決まる時というのは何かに導かれているような気がします。パッと見た時の社長の目線というか、野球でもよくありますが「この人は相性がいいな」とか、僕の夢を少し語った時にすごく頷いてくれる人と、ペーパーを見ながら考えこんでしまう人だと全く反応が違うじゃないですか。やっぱり私が投げたボールをうまくキャッチしてくれる方というのは最終的にゴールに辿り着く確率が高い気がします。こちらとしてもやはり困っていることをきっちり聞きたいんです。そしてある程度相手の気持ちが分かれば「こんなのどうですか?」とか「次はこうしましょう」とこちらが提案しやすい。というのは相手が受ける体勢をしていただいているからこそ出来ることだと思っています。

 

 

 

■とにかく夢は甲子園に出ることでした


 Q.丸山さんが現役だった頃のプロ野球と今のプロ野球を比べて、ここが大きく変わったなと思うところはありますか?

IMG_6828お客さまの数は明らかに増えてますよね。僕は川崎球場で育った人間ですから、観客よりも警備員の方が多かったとか色々とありましたけれども…(笑)
今やもう男の世界というよりも「カープ女子」とか、楽しみが色々あって女性が来やすい雰囲気がありますよね。我々も「子ども」をターゲットに25年前からずっと幼稚園訪問などをおこなっているので、その方達が自分の子どもを抱えて球場に来てくれていると「子ども=ファミリー」をターゲットにしたことがプラスだったのかなと思いますね。

 

 

Q.丸山さんの子ども時代の夢はなんでしょうか?

何になりたいというのはあまりなかったですが、野球をするきっかけは小学校4年生の頃の夏の甲子園です。松山商業と三沢高校が決勝戦で延長再試合になるのを見ていたんです。おじいちゃんの影響や愛媛県の出身ということもあって、僕は松山商業を応援していたんですけれども、相手の三沢高校のエースが太田幸司さんという「元祖高校野球のアイドル」的な方だったので、全国の皆さんにはすごい人気でした。その試合を観た時に、僕は子どもながらになんでかわからないですけど粘土に「必勝 松山商業」と書いて、それを持ってテレビの前でお祈りしていたという想い出がありまして。それから野球に興味が沸いて、「甲子園に行きたい」というのが夢になりました。
どういう職業に就きたいと言うよりかは、田舎の高校だったのでとにかく夢は甲子園に出ることでした。甲子園のあの舞台で松山商業と同じユニフォームを来て、甲子園に立ちたいと思っていました。

 

 

Q.憧れ、尊敬する選手はいらっしゃいますか?

やっぱり憧れたのは王さん長嶋さん、特に王さんですね。
尊敬する人は大学の先輩で有籐さんです。有籐さんにはやっぱり公私に渡りすごく大切にしていただきました。

後は当たり前のことかもしれないですけれども、両親には感謝しています。野球を好きなようにやらせてくれて。「勉強せい」とは子供の頃に言われましたけれども(笑)プロに入った時は「東大入るよりも凄いことをやってのけたね」と親父に言われました。その時に少しは親孝行が出来たかなと思いました。

 

 

Q.今でも交流のある選手はいらっしゃいますか?

有名ではないですが、同期でプロに入った人は今でも仲良くしています。あと交流があるのは、大学時代に日米野球のメンバーに呼ばれてアメリカ遠征に行ったんですが、その時のメンバーとは今でも親しくしています。

 

-球場で会ったりすることもあるんでしょうか。

 

ありますよ。木戸(元阪神)、西田(元広島)、小早川(元広島)、広瀬哲朗(元日本ハム)、白井(現日本ハムコーチ)、田中富生(元日本ハム)、あと仁村(現・楽天コーチ)ですかね。それぞれ社会人に入ったメンバーもいましたけれども、親交があるというか、懐かしがってます。当時海外に行く前に合宿があって丸々一ヶ月間くらい行動を共にしていたので、すごく青春の最後の思い出的なところがありました。アメリカに行ったのもその時が初めてだったので、当時はほとんどのメンバーがアメリカは初めてだったと思うんですけれども(笑)異国の地で日本人意識というか仲間意識みたいなものがあって、それが印象的です。

 

 

■「地球人」という意識を持って欲しい


 Q.選手時代の印象深い想い出はなんでしょうか。

うーん、これはプロですか?

 

-どちらでも大丈夫です。

 

IMG_6781一番大変だったのは、大学1年生の時ですかね。先輩の言うことは絶対服従で一人がミスすると連帯責任ということがあったので(笑)

ただそんな中でも、底辺の人同士が人を蹴落とすと言うのはなかったです。これは今の社会にも通じると思うんですね。格差社会と言われていますけれども、平等に同じく辛いことというのはあまり無いじゃないですか。

昔の社会は貧乏でも貧乏なりの物々交換があったりだとか、子どもの面倒をみたりとか、当たり前のように「子どもは宝だよ」みたいな考えがあったと思うんです。でも今はちょっと熱っぽくなったら「あの人のところに預けたらこうなって~…」とか言われ兼ねないですよね。
昔の時代の方がもっと格差はあったと思うんです。それでも国民を中流に押し上げていこうという国の政策によって段々格差がなくなってきた。でも今度は時代が変わって景気が良くなくて、一部の人だけが上がって行ったらそれは不公平だと言う人たちが多くなる。
だから地域で底上げをするためには上の立場の人がもっと横のつながりを持って投資をしていくことが重要で、それが連鎖していくことで平均化に繋がるのではないかと僕は考えています。

もっと大きく言えば、日本だけでなく、アジアや世界にも目を向けることを子どもたちには勉強させた方が良いと思っています。グローバルに「地球人」という意識が欲しいんです。日本人とか中国人とかイスラム国とか、そういう人たちを一緒くたに取りまとめたほうが良いんじゃないかと。例えばこのコーヒーみたいに、ミルクと砂糖を入れて混ぜてこれが私たちの精神です、それを皆で飲みましょうよ。足りなかったら、日本で水は持ってくるから、砂糖はアメリカから持ってきてよ。じゃあイスラムでミルクは調達するからさ。という意識を今後持ってもらったら面白いのかな思います。

全然話変わっちゃいましたけれども(笑)大学時代は一番辛かったですね。でもそのお陰があるからこそ社会に出てもそんなにへこたれなかったです。

 

 

Q.丸山さんにとって幕張はどんな街だと思いますか?

私も幕張本郷在住10年くらいになりますが、どちらかと言うと中国にいる生活の方が多かったので、地域でのイベントなどにはあんまり参加出来ていなかったんです。ただひとつ言えるのは、地元に元々住んでる方と、新しく入ってきた方が融合できるイベントが今後出来るんじゃないかという風に思います。何もないからこそ仕掛ければ面白いものが出来るかなと。

あと駅をもっと使ったら面白いかもしれないですね。幕張本郷には魅力的な車庫・操作場がありますよね。例えばそこが巡回出来るようなエリアを作ったり、架橋のところに写真スポットエリアを作ったりだとか。そうすると幕張本郷・幕張エリアのところが鉄道マニアで溢れてくると思うんです。

さつま芋や青木昆陽にまつわる歴史や、子守神社や七年祭りもそうですし、ものすごい宝が眠っている。そういうものを融合出来るこれからの街だと思います。

 

 

 


 

最後に地域の皆さまとファンの皆さまに向けて、動画メッセージいただきました。
ぜひご覧ください。
丸山さん、ありがとうございました!

 

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