2010年11月パリーグ優勝報告会
アーカイブ | 4月 2016
<ロッテ>逆転3ラン井口 左腕1本で3連敗阻止
ロッテ・清田、激走滑り込み!本塁クロスプレーがビデオ検証で判定覆る
清田(左)が炭谷のタッチをかわして左手を伸ばす。ビデオ判定で生還が認められた
(パ・リーグ、ロッテ3-5西武、1回戦、西武1勝、8日、QVC)8日のロッテ-西武1回戦(QVCマリン)で、今季から導入された本塁上のクロスプレーによるリプレー映像の検証により、公式戦で初めて判定が覆った。
ロッテの一回の攻撃で、二死一塁からデスパイネの左翼線への打球で本塁に突入した一走・清田は「アウト」の判定。ロッテ側のアピールと審判団の協議で映像検証を行い、捕手・炭谷がタッチしていなかったことが確認されて「セーフ」に“逆転”。デスパイネは二塁打となった。
成田山新勝寺の歴史
成田山新勝寺の歴史(1960年から参詣している) 成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別公開」)が行われた。1703年(元禄16年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、民衆の戦争に深く関わった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。 18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて地域の民衆に対する「皇国伝統の健全なる思想」の教化に積極的に努めた。1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど新勝寺は積極的に戦争推進に加担し、同時にそれを布教活動に利用していた。
ロッテ打線爆発17得点 2戦連続「アジャパイネ弾」でノリノリ
- ◇パ・リーグ ロッテ17―8ソフトバンク(2016年4月7日 ヤフオクドーム)ロッテが今季両リーグ最多となる17得点で大勝し、単独首位に立った。2試合連続でデスパイネと「アジャ」こと井上のアベック弾「アジャパイネ弾」が飛び出すなど、打線が18安打と大爆発した。6回に右中間のホームランテラスに2号2ランを運んだデスパイネは「いまの気持ち?もちろん、デスパ、いいね!」とノリノリ。「あしたも勝って連勝したいね」と話した。
井上は一塁の守備でも魅せた。13―6と追い上げられた8回無死一、二塁で二遊間の当たりを114キロの巨体を揺らしてダイビングキャッチ。反撃ムードを沈めた。伊東監督も「アジャの守備は大きかった」と振り返っていた。