チヨ婆ぁちゃんに昔の幕張の祭りについて聞きました。
『祭りの時期になると思い出すものは?』
とまず聞いてみると、この近辺で行われていた海苔の養殖で使った竹棒立ての作業で忙しい時期だったとの事。
年に一度のお祭りだからといって、仕事を休める程、幕張の生活は甘くなかったようです。
しかし、祭りはみんなの楽しみで、出店や神輿で華やいだそうです。
出店でチヨ婆ぁちゃんが懐かしく思い出すものは、
べっこう飴の型抜き:ひょうたん型などに飴をきれいに型抜きできると、さらに一本もらえる遊び。
ぼったら:キャベツの入ってない薄いお好み焼きみたいなもので、桜えびが入っていたそうです。
おもちゃ屋:女の子用に厚紙の着せ替え人形、男の子用の木剣。
金魚すくい:出目金なんてしゃれたもんはいなかった!そうです。
その他:焼きそばやヨーヨーは昔もお祭りの定番だったそうです。
最後に神輿。
今も昔も祭りの華ですが、幕張の神輿は重くて有名だったとか。
そして、チヨ婆ぁちゃんの目にいたずらっ気のある輝きが・・・
『昔は、祭りの寄付の少ない家には神輿をブツけタダよ。』
もちろんコレは噂です・・・村の伝説です。
でも、なぜか祭りで神輿が家に突っ込み塀を壊されることが後を絶たなかったとか・・・
あなんじゃこ
<アナジャコ>
昔、今頃の季節に幕張の辺りでは、蝦蛄(シャコ)や穴蝦蛄(アナジャコ)がとれたと
チヨ婆ぁちゃんが教えてくれました。
地元の人は、潮の引いた浜で穴からか顔を出す穴蝦蛄を『あなんじゃこ』と呼んでたそうです。
海での仕事の帰り、運がいい日はあなんじゃこを何匹か捕まえて、塩茹でにして夕食の足しにしたそうです。
ちなみに、検見川では貝船(けえぶね)と言われる漁船があり、
沖の方で本格的に蝦蛄漁をやっていたそうです。
<シャコ>
チヨ婆ぁちゃんが若いとき、もちろん冷蔵庫は無く、とれたての蝦蛄や蟹は、
ザルにいれ井戸の中に吊るしておいたそうです。
〜おまけ〜
もっと運がいい日には、幕張の浜に出来た潮溜まりに何匹もカレイが閉じ込められていたそうです。
そんなとき、女達は競って潮溜まりのカレイを手掴かみで捕まえたそうです。
『カレイはな、暴れっから、尾っぽじゃ無くて頭掴むダヨ』
チヨ婆ぁちゃんが、とってもうれしそうに教えてくれました。
幕張と飛行機
チヨ婆ぁちゃんの畑で話をしていると、ポロッと意外な話が出て来た。
『昔、この辺で飛行機が落っこちただぇ』
どこに飛行機が落ちたか聞いてみると、チヨ婆ぁちゃんは近くの畑の中に立つ塔を指差した。
近くに行って見ると飛行士殉空之地と書かれた塔が立っていました。
チヨ婆ぁちゃんによれば、昔、国道14号線の焼肉屋安楽亭とラーメン屋幸楽苑の間に飛行機工場が有ったと言う。
国道14号線近くは埋め立てられる前は海岸線に近く、
潮の引いたとき、その長く平らな砂浜を飛行機の滑走路として利用していたそうです。
慰霊塔に刻まれた文章によると、墜落した飛行機のパイロットはとても腕がよく有名な方だったそうです。
飛行機は現在の鷺沼の畑の上空で空中分解して墜落したそうです。
幕張近くで飛行機が離着陸していたなんて・・・
幕張近郊にはまだまだ私たちの知らないストーリーが眠っていそうです。
幕張の醤油
チヨ婆ぁちゃんが子供の頃、幕張には2軒の醤油屋さんがあったそうです。
2軒ともこの幕張で醤油造りをしていたそうです。
かなり昔のことなので、チヨ婆ぁちゃんも名前をはっきり覚えていないそうなんですが・・・
天長醤油 と 丸重醤油
と言う名前だったそうです。
その2軒は、幕張一丁目のみどり学園附属保育園の近くで、
斜向いの近さでご商売をされていたそうです
近隣の村には醤油屋さんがなく、
花見川を少し上ったところの花島町に住む、チヨ婆ぁちゃんの親戚も、
幕張まで馬車に乗って来て、一斗缶入りの醤油を買って帰ったそうです。
いや〜幕張で醤油を造っていたなんて驚きました。
※写真はイメージです。
草餅
昔から幕張ではお彼岸に草餅を作る風習があるそうです。
チヨ婆ぁちゃんに幕張産草餅の作り方を教えてもらいました。
1. 幕張の田んぼ(パサール近く)近くの山から幕張産よもぎを採取してきます。
2. それを茹でて小さく刻みます。
3. 次にそのよもぎを臼の中ですりつぶします。
4. お米(餅米ではない)を石臼で挽き、米粉にしたものにお湯を混ぜ、適当なサイズにまとめます。
5. まとめた米粉を蒸し器で蒸します。
6. 蒸した米粉と先程のすりつぶしたよもぎを臼の中で混ぜ合わせます。
7. 杵で餅つきをします。(忙しさと、重労働で、写真撮るの忘れました)
8. つき上がった草餅を適当なサイズにまとめ、あんこをのせて食べます。
よもぎの色の美しさと、香りのよさに感動しました。
守ってゆきたい素敵な幕張の文化ですね〜
干し芋の食べ方と芋の密売
チヨ婆ぁちゃんの若い頃、サツマイモの産地の幕張では保存食として干し芋を作っていたそうです。
今でも全国的に出回っている干し芋とは違い、ふかさずに生のままの芋を干して作ったそうです。
まずは、日中畑仕事で収穫したサツマイモを夜に皮むきし輪切りにしておく。
そして翌日、よしずの上に並べ、天日で乾燥させるのだとか。
食べるときは、ペースト状になるまで煮込むそうです。
砂糖は、その頃貴重だったので煮込む時に入れようとも思わず、
また周りに甘いものが少なかったせいか、そのままで十分甘く感じたそうです。
その干し芋ペーストは、お腹を膨らます為にあえて食事の前にスターター?として食べたそうです。
また、まんじゅうの餡としても使ったそうです。
戦争中、配給制のため個人的なサツマイモの売買は禁止されていたそうです。
それでも、幕張のサツマイモを目当てに、夜な夜な東京から電車でやってくる人がいたそうです。
物がない時代、お金は意味を持たず、東京から来た人達は配給の缶詰や着物と芋を密かに交換して行ったとか。
そうした行為は見つかると罰せられ、駅で警察に取り押さえられる人も居たとか。
またその人が白状し、交換した幕張の農家も逮捕されたりした事が実際にあったそうです。
今の幕張は平和ですね〜。
イソギンチャクの味噌煮
チヨ婆ぁちゃんが若い頃、幕張の大人たちはイソギンチャクを食用にしていたそうです
チヨ婆ぁちゃん曰く『オンらぁ気持ち悪くて食わなかったぁ』そうです。
その頃、幕張ではイソギンチャクのことを、『尻こ玉』(その見た目がお尻の穴みたいだから)と言いい、主に味噌煮にして食べられていたようです。
<イソギンチャクの味噌煮の作り方>
1. 火箸に何個も串刺しにして灰をまぶし水洗いし、ぬめりをとる
2. 油でイソギンチャクをよく炒める
3. 味噌で味付けする
今でも幕張の浜で見かけるイソギンチャク、どんな味がするのでしょう?
シオフキガイ
チヨ婆ぁちゃんが幕張の潮干狩りについておしえてくれました。
約40年程前まで、幕張は潮干狩りの町でした。
幕張でよくとれる貝は、上の写真の左上から時計回りに、
バカガイ(青柳)
カガミガイ(この辺りではドウショウと言ったそう)
アサリ
シオフキガイ
その他にも、マテガイやハマグリ、赤貝もとれたそうです。
幕張には、潮干狩りの他にすだて遊びを楽しめるところもあり、
首都圏をはじめ、群馬、栃木などから観光客が訪れたそうです。
その観光客が少なく、畑仕事も少ない冬の時期に、たくさん獲れたのがシオフキガイ。
幕張の人は、冬になるとこのシオフキガイを獲って茨城や埼玉で売ったそうです。
まず、販売を担当する人(男性)は自転車で1人茨城、埼玉へ向かい宿に泊まります。
幕張に残った人達でシオフキガイを獲り、剥き身にして浜田川で洗うそうです。
そのむき身を鉄道の宅配便をつかい、現地入りしている男たちに送ります。
男たちはシオフキガイを自転車にのせて売り歩いたそうです。
シオフキガイは生で食べたり、みそ汁に入れたり、切干し大根と一緒に煮て食べたそうです。
そのむき身をござの上で天日干しにしたものをべったら干しと言い、
炒めて、砂糖醤油につけて食べたそうです。
とってもシンプル。
チヨ婆ぁちゃんいわく、この辺は新鮮な海産物が獲れたから、
恵まれていて、調理方法は煮るくらいしか知らなかったそうです。
食材がそろわない地域の方が、知恵を絞って料理をするのかもしれませんね。
幕張の大麦小麦
チヨ婆ぁちゃんの若い頃、幕張の代表的な農作物はサツマイモと麦だったそうです。
おおまかに・・・
4月〜10月の半年は、サツマイモ
10月〜4月の半年は、大麦と小麦
麦の収穫前に、麦と麦の間にサツマイモの苗を植えると、
直射日光を避け芋の根がよく張ったそうです。
そして、芋の苗が根付いた頃に、麦の収穫。
とっても効率的です。
大麦(写真上)は収穫後、近所のでんぷん屋に持ち込まれ『もみすり』されます。
もみすり後、天日干しをするのですが、その場所取りが肝心だったそうです。
チヨ婆ぁちゃんの家は毎年、朝2時にでんぷん屋に行きポールポジションをとっていたそうです☆
( The early bird catches the worm! 早起きは三文の得! )
干した麦は、雑穀米に入っている押し麦のようには押さずに、そのままお米に混ぜて炊いたそうです。
お米50:大麦50が基本。
通常は、この麦飯におしんこと芋類のみそ汁が基本セットだったそう。
お祭りや祝い事の時にだけ、白米100%とカツオが食卓に上がったとか。
その時は、嬉しくて、たくさん食べたそうです。
次に小麦(写真上)・・・
小麦は、でんぷん屋でもみすりした後、小麦粉にして使ったそうです。
もみすりで出たもみ殻は『ふすま』と呼ばれ、農作業用の牛の餌にしたそうです。
その牛(朝鮮牛)の餌はこんな感じ:
約5cmに刻んだわら(稲のわら、少し湿らせておくと喉通りが良い)
米ぬか
ふすま
人間が食べたみそ汁の残り
以上をミックス。
何だか栄養がありそうですね〜。
そして肝心の小麦粉は、
やはりうどんを打ったり、まんじゅうを作ったりするのに使ったそうです。
エコで持続可能で健康的な暮らしです。
PCの前に一日中座ってるよりずっと面白そう・・・。
そう思ってチヨ婆ぁちゃんに『昔の方が生活が楽しかったのでは?』と質問してみると。
海の仕事、畑仕事、家事、子育てで忙しくて、
『楽しんでる暇なんかねぇよ』
・・・との事。
金比羅さま
チヨ婆ぁちゃんが子供の頃、幕張は漁師町でした。
幕張一丁目にある金比羅さまは、漁の安全を守る神様として、
地域の人々の生活の大切な一部だったそうです。
毎月9日の日の晩には縁日が行われ、この参道に出店が並んだそうです。
チヨ婆ぁちゃんが若い頃好きだったのは、金平糖と豆の煎餅の出店!
月に一度、地域の人々はここにお参りに来るのでした。
12月31日には特別に『裸参り』が行われ、
地元の男衆はふんどし一丁で参道を駆け上がり
一年間の漁の安全に感謝したそうです。
参道の入り口にある石、
これは『力石』と呼ばれ、男衆が力比べに使ったそうです。
マクスタッフも試してみましたが、大きいのはびくともしません!
漁や畑仕事で鍛えた人達とPCの前に一日中座ってるスタッフの力の差は歴然!?
昔、境内だった場所は今はこの通り寂れてしまっています。
戦争中はここで神楽を組み地域の人々による『素人演芸』が行われ、
チヨ婆ぁちゃんもそれを楽しんだそうです。
戦争後、この境内には幕張小学校の校長先生の家族も
住んでいらっしゃったそうです。
チヨ婆ぁちゃんの若い頃のように、
金比羅さまを幕張のみんなが集まれる場所として
復活させたいものですね☆