「私たちは定型発達という障害を抱えている」

今回はこの記事をご紹介します。長文ですがぜひ読んでいただきたいと思います。

自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」

相模原障害者殺人事件から考える
光岡 英稔,福森 伸
2016年7月、相模原の障害者施設が襲われ、入所者19人が殺害された。
容疑者は犯行予告の手紙の冒頭に殺害理由として「世界経済の活性化」を挙げた。続けて「重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」を望むとしたうえで、「障害者は不幸を作ることしかできない」と結んだ。
容疑者のしたことは断固として拒絶する。だが、彼の考えを突き詰めていったとき、私たちが日々の暮らしで馴染んでいる経済性や効率といった価値観を極端な形であれ、体現しているにすぎないのではないか。そう思えてくる。
踏み込んで言えば、彼はある意味で、現状の世のあり方によく適応し、「健常に」育ったのかもしれない。培った健常さが障害者の抹殺に行き着いたとすれば、その凶暴性は人間の本能に根をもっているはずだ。
本能のままの振る舞いと凶暴性に境界はあるのか。人間にとってのノーマルさ、障害とは何か。
こういったことを専門家はどう考えているのか。そこで武術界で注目されている光岡英稔氏と福祉業界で独自の活動を展開している福森伸氏に対談をお願いした。
光岡氏については過日、「現代ビジネス」に掲載されたインタビュー「教育すると、人間は『弱く』なる!」を読んでいただきたい(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45934)。
しょうぶ学園について説明すると、鹿児島にある知的障害者支援施設であり、ドキュメンタリー映画「幸福は日々の中に。」が全国で公開されるなど、メディアの注目は近年高まっている。
その発想のユニークさは、たとえば俳優の広末涼子が出演したCM曲にも使われた、園の利用者の障害者と職員からなるパーカッショングループ「otto&orabu」の演奏にも現れている。メンバーのうち施設利用者は音階がわからず、専門的な訓練も受けていない。

otto&orabu〔写真提供〕しょうぶ学園

だが、いついかなる時もブレることなく、目前の楽器に向かい、行為することに没頭する。そんな彼らだからこそ坂田明をはじめ名だたるミュージャントとセッションしようとも物怖じせず、いつも通り大胆に演奏する。
その姿を見るとき、多数派の健常者は向上、発展することを疑いもしない自らをいぶかしく感じるだろう。
しょうぶ学園の試みは、私たちが現実と信じている以外の現実のあり方を示唆している。ふたりの対談は、現実と幻想の境界線を走るように進んだ。
(企画・構成/尹雄大)

普通って何だろう?
光岡 鹿児島に足を運び、しょうぶ学園を見学したとき、改めて「普通って何だろう」と考えさせられました。
私は武術をやっていますから、その観点から話します。

光岡英稔(みつおか ひでとし)1972年岡山県生まれ。日本韓氏意拳学会代表。

武術を稽古して行くと「自由自在に動くこと」と「自然に動くこと」の絶対矛盾に行き着きます。相手は自分を殺そうとする。だから相手を阻止します。そのためこちらも自在に動きたい、相手を自由に操りたい。ようは私の思い通りにしたいわけです。
自由に振る舞うことは、必ずしも自然な行いではなく、「相手をコントロールしたい」といった作為の要素が入ります。そうでありながら武術の境地においては「何もしない」という無為自然であることをよしとします。
つまり作為的な稽古の果てに無為に向かいます。
ところがです。
しょうぶ学園の利用者の皆さんは何の練習もせずに、ただ「普通」に作為なく振る舞っていました。「これはかなわないなぁ」と感じました。果たして無為を求めて練習することに意味はあるのかと深く考えさせられました。
福森 武術は相手から身を守り、守り切れなければ攻撃に転じる。自分のエリアが侵されない限りは攻撃しない。そういう考えがベースにありますよね。

福森伸(ふくもり・しん)1959年鹿児島県生まれ。しょうぶ学園施設長。

それで言えば、私には彼らがとても無防備だと感じるんです。そういう相手にはどう対応しますか?
光岡 ちょっと唐突かもしれませんが、ある種の「部族」として接する必要があると思います。たとえば、アマゾンに住むピダハンやイゾラドと呼ばれる少数部族は、自分たちで食べ物をとって日々暮らしています。その暮らしが侵されなければ問題ない。
福森 防備する必要もありません。
光岡 けれどもテリトリーを侵されたら争いが起きます。フィリピンのカリンガ族、イフガオ族だと首を刈るところまで徹底してやったりします。
ただ、わざわざテリトリーを越えてむやみに襲いはしない。境界線ギリギリでの争いや、狩りの最中にたまたま遭遇した他の部族との争いなどはあるようです。
しょうぶ学園の利用者の互いの距離のとり方を見ると、そうした部族の振る舞いを思い起こしました。
福森 利用者を部族に喩えるならば、僕らは平気で彼らのテリトリーに介入します。知的に障害があるからなのか、それに対してほとんどの場合、抵抗しません。
彼らの動きはプリミティブで非常に人間らしい。特に障害の重い人は最低限の動き以上の「発達」はしない。そういう無防備な人たちに対し、教育や支援という語を使って福祉は介入し、彼らの世界を変えようとします。「時間を守れるようになった」とか「ご飯を残さず食べられるようになった」といったことを評価するのです。
でも、それは彼らのしきたりを変えているんじゃないか。ノーマルという言葉を使って、彼らを僕らの国の法律に従わせているだけのことではないか。それを「ノーマライゼーション」「共生社会」と言うけれど、彼ら部族のしきたりはどこへ行ったんだろうと思うのです。
光岡 無防備ではあっても争いが起きる例もありますか?
福森 はい。誰しも圧力がかかれば防衛の反応が起き、それでも防げなかったら攻撃します。それで言えば、自閉症スペクトラムの人は圧力の感じ方が独特です。
たとえばデパートの試食コーナーで、蓋の開いている惣菜があると全部閉めて回ります。「蓋を開けっ放してはいけない」と習っているからそうしてしまう。
でも、そういうことをしたら怒られますよね。どうすればいいかわからなくなることが恐怖なのです。戸惑っているとさらに圧力がかかるから攻撃的になる。それは粗暴行為と言われます。圧力の感じ方が特殊ゆえに僕らに理解しにくい。でも、なぜそうするのかがわかれば対処できます。
施設内で急に大声出したりする人もいます。以前はそれを止めていたけれど、最近は「ここはちょっとまずいのでこちらでお願いします」くらいになってきました。

彼らのしきたりに従えばいい
福森 彼らのしきたりに従ったらいいんじゃないかと思うんです。彼らは僕らのところに侵入して暮らしを壊そうとしないのだから、僕らも侵入しないほうがいい。
でも、アマゾンにいるわけではないから、多数派である僕らのシステムを知らないとうまく生きていけない。だからこそ彼らの考えを尊重したシステムを社会に加えればいいのですが…。
マズローの自己実現の欲求論があります。食欲、性欲を満たして自己実現に至るというものです。それを言うなら、彼らの自己実現の達成を手伝うのが福祉のはずです。この場で服を脱ぎたい人、大きな声を出したい人がいたら、それが実現できるアフォーダンス的環境を作ればいい。
他害や自傷行為を容認するのは難しいけれど、他害や自傷があるから問題ではなく、それらが起きるようになった環境が問題なのです。
彼らのほとんどのしきたりは、僕らがオッケーさえすれば問題ない。それが実現できるのが福祉施設のはず。施設の外の社会に出ると健常者の掟が強いから、彼らのしきたりはまるで通用しない。
光岡 こちらのしきたりを教えることによって彼らの身体性や文化を否定し変えようとするわけですね。
何かを教え伝える身でありながらも、私は教えること自体がおこがましい行為だと思っています。教師、指導者の目的がその人の個性を変えようとする教えを中心とするなら、その教育は必ず失敗します。人の個性や身心を育むことが前提に何かを教えるならまだマシですが。
福森 人の本質は変わりません。変わらないものを変えようとして教えるとギクシャクします。圧力をかけることになりはしても、それぞれの人が自分の本質に気付けないままになってしまう。
光岡 しょうぶ学園では、人の本質をめぐってのせめぎ合いが見えます。

しょうぶ学園の園庭
自然と自由と楽は共存できない
福森 障害があって屈折したり、愛情かけられず養護施設でずっと暮らしてきたある人が、18歳でしょうぶ学園に来ました。どうやったら穏やかになっていくだろうかと考えるわけです。
簡単なケーススタディ、つまり支援方針と考察だけではダメなことはわかります。その人が生きてきた18年間かけてやるくらいのパッションがないと愛情の回復はできないのです。
光岡 その場合は、相手のテリトリーに入らないとできませんよね。
福森 懸命に入ろうと思っても「早く帰れ」とか「バカ」と言われます。
こちらのアプローチを圧力だと感じるから、「俺の世界に入ってくるな」というわけです。不適応行動や問題行動と言われます。通常だと「それらを直すにはどうしたらいいか」と考えます。
そうではなくて、この場合は問題行動自体が正しい行動なんです。こちらが圧力をかけているんだから彼が抵抗するのは当たり前です。
その構図がわかると相手に対して優しくなれます。「そうなって当然だよな」と。でも、「すまないけれど、また行かせてもらうぜ」と思ってます。そういう根性がいるわけです。
光岡 圧力のない状態が必ずしも自然とは言えません。夏にクーラーがあると楽に過ごせます。楽だから自然かというと、そうではない。しかし、楽を求めるところに人間としての自由はあります。木を切って土を掘り返し建物を建て、クーラーをつけて快適に過ごす。それが自由や楽の象徴であり文明の証でもあります。
私たちはコンクリートの建物よりも野山や小川を見ることに自然を感じます。そちらの方が自然なことは皆わかっています。けれども自然の中で自然のルールと共に過ごすことは人にとって不便さや不自由を意味します。
自由を求めると「山があれば削って、川を掘って快適な環境にすればいい」という振る舞いにしかなりません。そういう発想のもとで最終的には原発までつくりました。
人には自我や本能と、それらが求めるものを実現できる知能やテクノロジーがあります。それゆえ戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません。でも、本来なら知能を用いて戦争しないで済むための手立てを考えないといけない。そのために知性があるわけですから。

本当に自由であるとは?
福森 若い頃は人を殺すことは許せない。戦争は絶対に許せないと思い、そういう考えをする人自体を否定していました。
今はこう思うようになっています。生まれてきて、いまここに生きている人間がしている以上、全てが“アリ”かもしれないと。戦争を肯定しているのではありません。戦争はNOだし、“ナシ”ですよ。
「君は戦争したいかもしれないけれど、僕は全然したくない」という考えには変わりない。けれども「君も生まれて来てしまったんだね。僕もそうだし、お互いしょうがない」というふうになれば、たとえその人の考えには理解は示せなくても、その人が存在することはアリだと受容できます。
光岡 相模原の事件に対しても容疑者の存在はアリと考えますか?
福森 やったことは絶対にナシです。でも、彼という存在がいた事実をいくら否定しようとも消すことはできない。その人の存在はアリなのです。
光岡 無論、彼の行為はナシです。むしろ問題は、彼のような存在をアリだと言えないような個々の自信のなさが人の内面にある気がします。
先ほど、私は本能があるから「戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません」とした上で「戦争しないで済むための手立てを考えないといけない」と言いました。
なぜかといえば、私が最もされたくないことを相手にする。ここに良知や良心は抵抗を感じるからです。自分の中にある良知や良心が相手を通じて「それはおかしい」と私に教えてくれるからです。
他者から自分を省みられる。そこに人という種の意味があります。ここでいう「他者性」は社会の価値観や常識といった、私たちがつい気にかけてしまう「他人の目」のことではありません。
翻って、しょうぶ学園の利用者のみんなには他者性があります。でも客観性はないようです。私の存在はわかっても、私が「どう思うか」といった客観的な視点は持っていないように思います。
福森 親が亡くなって葬式から帰ってきた人がいて、僕らは心配して「大変だったね。どういうことがあった?」と聞きました。すると「ご飯をいっぱい食べてきた」と言う。僕らにとっては涙を誘う言葉だけど、彼にとってはリアルだし、葬式だからどうこうという考えに囚われていない。自由なんです。
その人はご飯を食べられてよかったというんだから、「よかったね」と言えばいいのに、僕らは「なんてことだ」と涙が出る。「それは悲しいことなんだよ」と教えようとしたりするわけです。
光岡 それではその人を尊重していないことになりますね。

福森 パソコンを使えない。字が読めない。お金の計算もできない。意思表明ができないから熱が39度あってもそれを言えない。世の中生きていく上では不自由なはずなのに、彼らはどうしてあんなハッピーな顔をしているのか。
僕らは便利だし色んなことをすぐに調べられ、情報は手に入れられる。なのになぜか自信が持てないし、全然自由ではない。
僕らは自由になればなろうとするほど、自由のもたらす障害を抱えるようになっています。約束してもすぐに連絡できるから遅刻しても構わないと思っている。絶対に遅れないようにしようとする方が大事なのではないですか。
自分の欲求を満たすことにかまけ、ますます不自由になる僕らが彼らのしきたりを無視すれば、それが圧力をかけることになって彼らの自由をなくしてしまうことにしかならない。
光岡 彼らを見ていると、やはり武術の究極とも言える自由と自然の絶対矛盾が、矛盾なく成立しているように思えます。彼らから学ぶことが多々あるように感じたのと同時に、人間という種に対して少しだけ希望が持てる気がして来ました。

私たちは定型発達という障害を抱えている
福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。ちょっと資料を読みますね。
・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。
・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。
・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。
・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。
・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。
・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。
光岡 実におもしろい。
福森 協会では、自閉症スペクトラムをニューロティピカルの対義語に当たる「エイティピカル」と呼んでいます。非定型発達を意味します。
エイティピカルは社会的コミュニケーションの障害があるといわれていて、どういう特徴があるかというと、

・自分が必要な時だけコミュニケーションをする。
・反復的で一方的、形式的で回りくどい。さらに些細なことでも柔軟に交渉できずこだわる。
・率直に本当のことを言いすぎる。嫌いな人に「お前は嫌いだ」という。
・自分だけが長々と話し続ける。断りなしに話題を変える。
・相手を不愉快にさせる言葉遣いをする(自分ではそう思っていない)。
・視線や表情、対人距離などの問題がある。近すぎたり離れたり。
・相手の言葉の意味を推論できない。言われた通りに解釈する。
・冗談や比喩、反対語の理解が困難。

光岡 「エイティピカル族」を包括して“アリ”にすれば世の中は今よりもノーマルになるかもしれませんよ。
福森 エイティピカル族は「お茶でもどうですか」と勧めて、相手に「結構です」と言われたら本当に出さない。僕らは「結構です」と言われても「まあまあ」といって出すわけです。
僕らは誰かが時計を見たら「そろそろ帰りましょうか」とか直接的ではないニュアンスの中でコミュニケーションをとる。それを侘び寂びと言ったら文化になるでしょうけれど。とどのつまりは何が正しいかわからない。両方あっていいはず。
光岡 個人の中を見ると、ニューロティピカルとエイティピカルのどちらもありますよね。
福森 そうです。しかしながら福祉業界はニューロティピカルに寄せたことを自立と呼んでいます。でも、よほど彼らの方が自立しているのです。人の賞賛を求めて自分のやることを変えたりしない。そもそも賞賛の意味がわからない。
僕らは人の賛同を求め、ブレまくっている。しかし、彼らはブレない。態度を変えない。彼らはすでに自立しているのなら、「自立支援」はいったい誰のためなんでしょう。
光岡 福森さんは境界のギリギリのところにいるのが好きそうですよね。
福森 そこから見える風景が好きなんです。色即是空という語がありますよね。これを独自に解釈しています。色は僕らの世界です。空は見ることはできないけれど、たぶん存在している世界。宇宙に広がるような、永遠に非定型で見えない。でも、あると信じています。色は現実主義と言われる世界で、その最先端にいるのは安倍総理かもしれない。
おそらく想像もつかない展開、ミラクルは色と空のせめぎ合いのところにあるんだろうと思います。武術の狙っているところは、その辺ではないですか?
光岡 そうだと思います。死生や勝負のギリギリの境界線がどこにあるのかを知りたい。それが武術家の本性です。それも安全パイでない方からその境界線を求めたい。
本当に武術が好きな人は境目のギリギリを楽しむのが好きですね。だからこそいまだかつてない何かが生じます。
福森 僕はそこをエッジと呼んでいます。そこには病気や健常を問わず、「思うようにいかない」と思う人たちがいる。そういう人は「現実的に生きないといけない」と言われているから、無理をしてしまう。
そうではなくて、右も左も見える真ん中あたりまで戻ってもいいんじゃないか。現実と夢、秩序と非常識の真ん中に時々いると、妄想を話す人にすごく興味が湧いてきます。
「僕はフェンダーのギターを持っているけれど、明日リンゴを食べるんだ」なんて言われる。なんでそういうことを考えるのか。必死についていこうとする。気づいたらエッジに立っている。そこで人間に関するミラクルが見られるじゃないかと思っています。
(了)

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50640