「夫のちんぽが入らない」こだま 著

 

久しぶりに紙の本を読んだので、今日はその感想文です。

単行本の頃からあちこちで話題になって、今更の感はありますが、文庫版が出たので購入。

なかなか衝撃的なタイトルで、拒否反応を示す方も多いでしょう。そりゃそうです。今までタブーとされてきたワードです。少なくとも男性の間で話し言葉として使われてきたものが、女性の手で書き言葉になったんですから。でもこれだけでも私はあっぱれと言いたい。

男性が女性器を呼ぶときのいやらしさは微塵もない、女性が男性器をこう呼ぶ時、むしろとても愛おしい、可愛らしいものとして呼ばれるのです。(もちろんこう呼ばない人もいらっしゃるので、その自由は尊重します。)

夫婦の間で、恋人同士の間で普通に交わされるであろう会話、ワードを表に引っ張り出した功績は大きいと思うのです。

普通なら入るはずの夫のちんぽが入らない。想像するだけで悲しい。そのくせ夫以外のちんぽなら入る不思議とおかしさ。

エッセイとして書かれているので、もっと生々しいはずが、この文章はとても綺麗です。細かな描写が優しい。そして切ない。

物語のもう一つの柱が、「言えない」というキーワードだと、私は読みました。この時に思ったことをそのまま口に出して言えばいいのに、言えない、言わない。自分の中にぐっと溜め込む。あ〜また我慢しちゃった。。がいくつも出てくる。

彼女がどう育てられたか、その生育歴が私のそれと重なって、切ないような懐かしいような感覚を何度も持ったのです。

あ〜、そう育っちゃったから言えないよねー。と共感してしまう。

振り返れば私もACだった頃、最初の結婚も燃えるようなときめくような感動はなかった。離婚するのも淡々としていた。二度目もそうだった。それは理性的とか冷静などというものではなく、単純に脳が動いていなかった、思考はしていたが感情は動かなかった。感情が何者かも知らなかった。動かし方を知らなかった。感情を言葉にすることができなかった。

彼女の文章を読みながら、そんな自分の過去を重ね合わせていました。本を読んで自分の過去を重ねるなど、カウンセリング関連の本を読んで以来のことです。

読み終わって著者に感謝のメッセージを送りました。

『どうもありがとうございます。「入らない」以外の出来事も同じくらい重くのしかかっていたことなので、そこも読んでいただけて嬉しいです。』

と返事が来ました。話し言葉でコミュニケーションをとることが苦手でも、彼女のように書き言葉できちんとコミュニケーションをとることができれば、それでいいのです。自分を表現する手段が一つでもあればそれでいい。それが一方通行ではなく、相互通行できていればいいのです。

そしてこの本のおそらく最大のテーマであろう「普通」を求める、求められることの理不尽を思うのです。みんなと同じでいなければならない窮屈さ、それをお互いに求めている不自由さ。

実はね、一緒に買ってきたこの本『ヒトは「いじめ」をやめられない』に、奇しくもそのヒントがあったのですよ。

セロトニン。

この読後感想文も書きますので。

秋の夜長は読書です。

他人には期待しない

こんなツイートがタイムラインに流れてきました。
なるほど。私にもこの体験はあった。この欲求、この感情があった。そしてこれにケリをつけるのが一番厄介だった記憶があります。
人をどうしよう=他人を支配し、操作(コントロール)しようとする欲求。
人にどうしてもらおう=他人に依存し、無意識に他人の下に入り込み、他人に結論を委ね自立、自律を放棄する。

ACの特徴に「過剰」という嗜癖があります。100か0か、All or nothing な感覚。中庸がないのです。これを他者に求める。

他者とほどよい距離をとる、ほどよい関係を保つ、ができない。幼児期からの見捨てられ不安が今も続いているのでしょう。

幼児期、親とべったりくっついて過ごす安心感を得られていないままなので、成長と共に離れていく体験もないまま大人になったのです。これを親以外の他者に求めてしまう。

ACの対人関係の過剰さはここからくるようです。

All or nothing ですから「他人に期待しない」と書かれると、相手を拒否する、関係を遮断する、嫌いになることと勘違いしてしまう。

他人には期待しない、とは具体的にはどういうことでしょうか。どうすることなのでしょうか。

❶ まず「他人は他人」「自分は自分」と自他の境界をはっきりさせる。

❷ 自分の欲求や感情で他人を支配・操作しようと思ってはいけないし、できるものではないと知る。原家族では行われていたかもしれないが、赤の他人には通用しない、通用させてはいけない。

❸ 「期待」という言葉を「支配」「操作」に置き換えてはいけない。期待はあくまでも期待。それが叶わないと相手を恨む、憎むのは相手の問題ではなく、自分の側の欲求や感情に問題がある。

❹ 他人に期待しないと同様に、自分にも過剰な期待しないこと。自分に期待して、それが叶わなかった時の打撃の方が大きいと想定できる時は、自分に負荷をかけないこと。できそうな目標を立てることはOK。1か100か、ではなく50でいい、20でもいい。どちらでもない中庸の心地よさを知る。

❺ あなたを受け入れるから、あなたも私を受け入れて!など交換条件を出さない。あくまであなたはあなた、私は私。それぞれ別の人格。お互いに自由であること。

やってみてください。
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自分の親からも同じように育てられた

痛ましい事件が続いています。

私は加害者がどんな育ちをしたのかをいつも考えてしまいます。

例えば我が子を虐待死させた親は、自分の親からも同じように育てられたのではないか。

例えばその場に居合わせた無関係の人を殺傷した青年は、自分の親からも同じように育てられたのではないか。

私の育ちの歴史にも、似たようなことがあるからです。

機能不全家族に生まれ育ち、普通の愛をもらえない幼児期、少年少女期を過ごし、死ぬことはなくても実際の死に等しい、もしくはそれ以上の親からの暴力を受け、自分の身体ではなく心を殺しました。

親からの言葉、視線、仕草、無言などの親からの攻撃。

ACにとっての死は、心の死も身体の死もそう変わらないのかもしれません。振り返ればACは何度か死を体験しています。自分で自分を殺すのです。

見たくないことは「なかったこと」にする。記憶から消し去る。強い恐怖と遭遇すると乖離(かいり)する。必要があれば嘘をつく。小さい頃から自分を守るためにしてきたことです。自分を拒否されたら死んだことにする。そうしながら生き残ってきた「人生のサバイバー」がACだといえます。

親に褒められたいために、親の愛を受けたいがために自分の人生を差し出してきたのですが、それが報われることはなく、子の大きな失望はいつか恨み憎しみの感情に変わります。最愛の人との関係が上手くいかないということは、子にとって最大の悲しみ、汚点です。他者との良好な関係が築けない原因がここにあるようです。親への愛着は簡単に拒否されたため、他者とはそれ以上の関係が作れないのです。

その恨み憎しみの感情は他者にも同じように、親へ向けるよりも簡単に向けられます。

誰にもあるであろう心の傷

健全に育った子と機能不全家族に育った子では、見た目の大きさが同じでも深さが違うような気がします。

これを治すにはとても時間がかかります。根気も自我の強さも必要でしょう。恨み憎しみ怒りの感情をコントロールする方法を身につけることも、そもそもそんなネガティブな感情をできるだけ呼び起こさなくても済むようにならなければ。親に差し出した自分の人生の時間を取り戻さなければ。恐怖に震えているインナーチャイルドを癒してあげなければ。他者とのコミュニケーションには暴力や支配ではなく言語だけが必須だということを学ばねば。

親から受けた傷は簡単には癒えません。

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私がカウンセリングで得たもの ②

カウンセリングがすすみます

ここで私は 初めて言葉でのコミュニケーションを体験します

それまでは非言語のコミュニケーションでした 表情 仕草 ため息 舌打ち 言語以外のすべての方法で

これは原家族で当たり前にやられていたこと この方法がどこにでも通用すると思っていました

他の世界を知らないとは恐ろしいことです 親からもらうコミュニケーション方法がこれでした

それはおよそコミュニケーションとはいえません 家族以外の他人には通じないことも知りませんでした

ですから言葉の使い方がとても偏っていました

事柄や情報を伝えることはできる でも気分や感情を伝えることができない

当時は自分の気分や感情を抑え込んで生きていたので それはほとんど自覚されず 不全感は感じませんでした

実はACには こんな状態の人が多いのです 感情のやり取りをしない機能不全家族

原家族の中で無意識に本能的に感情の発露を抑えて生き延びてきた自分の不全になかなか気づけないのです

私自身も「私は健全な人間よ!」とカウンセラーに言っていたぐらいです

ずっと後になって「他の人たちはお互いに気分や感情を言葉にできて それを共感しあえるのに なぜ自分にはそれができないんだろう?」と感じたのです

カウンセリングはまるで幼児が言葉を学ぶ過程に似ていました

カウンセラー「今どんな感じ?どんな気分?」

私「…したいと思う』

カウンセラー「それは思う。思考。思うことと感じることは違うよ」

私「!!」感情を言葉にできないこと 感情そのものが働いていなかったことがようやく分かるのです

自分の感情を探す 表現する やり直す 言葉の使い方を真似る 学ぶ

相手の言葉の受け止め方の癖を直すことには相当な時間がかかりました

相手の言葉を「自分への攻撃」と受け止めていました 温かい言葉もアドバイスも全て自分への攻撃 と

認知の歪み 分かりやすい言葉にすれば ひねくれ者 真っ直ぐなコミュニケーションが取れなかったのです

相手の言葉に自分の余分な感情を上乗せしない これがキーワードです

何も足さない 何も引かない そのままを受け止める

こんな具合に 何もかも学び直し 生き直しです

 

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私がカウンセリングで得たもの ①

今まで私のカウンセリング体験を書いていなかったので それを少し

私のカウンセリング体験は ブログを始めたことがきっかけでした

ブログの中で友達もできて そのやり取りをカウンセラーが眺めていました やがて声をかけてくれるようになり やり取りが始まりました

私の書く文章の表現 起きた事柄に対する反応 その中にAC独特のものを見たのでしょう

友達とのやり取りの表現には 自分のものの受け止め方 感じ方=認知の特徴 ACの場合なら認知の歪み が現れます

「相手は普通にコメントを発したのに過剰な受け止め方 違う反応をする」「書き言葉での相手とのコミュニケーションができない」=もちろん話し言葉でも

当時の私は「言葉を武器に」する特徴がありました 「共感とコミュニケーションのためのツール」としてではなく 相手を攻撃するため 自分を守るために言葉を使っていました

何が目的で? 自分のプライドや根拠のない自信を守るために

若い頃はギターを弾いて人前で歌っていました

この時の言葉(歌詞)は自己主張 他者とのコミュニケーションのためではありませんでした 自己主張は出来ても他者とのコミュニケーションができない=言葉とともに感情のやり取りができないことが カウンセリングで分かりました

コミュニケーションは相互通行 一方通行ではない とここで初めて教えられました

これは私にとってかなりショックでした 今まで自分にこんなに大切なものが欠落していたとは全く思ってませんでしたから

そもそも自分を客観視する などしてもいなかった 自分の内側の一つひとつに注意を向けることなどなかったのですから

言葉と感情のやり取り=感情を言葉にして相手に伝える 相手から受け取る

原家族(げんかぞく・自分が生まれ育った家族)では全くその体験がなかったのがAC

私もその一人でした

長い間感じていた不全感 みんなは普通に楽しくお喋りができるのに 自分は出来ないのはなぜ? の謎が解けました

私は言葉を武器にすることをやめました 他者を攻撃することをやめました

自分のプライドや根拠のない自信はもういらない

そんなものはなくてもいい ありのままの自分でいることを選びました

カウンセラーは真摯に対等に丁寧に 私に向き合ってくれました

メールでのやり取りはお互いの文章を引用して 私の問いかけの一つひとつに 私はカウンセラーの言葉を一つひとつ確かめながら カウンセリングは進みました

私は「このままでは自分の人生はダメになる」ほど自分の不全感に危機感を持っていました

もうカウンセラー以外に頼る相手がいなかったので必死にすがりつきました

強い愛着を感じた他者にすがりつくのはACの得意技です それがいい結果につながるとは意外でしたが

カウンセラーとのこのメールのやり取りは それから1年以上続きます

幼児期のトラウマ 認知の歪み 嫉妬 恨み憎しみの負の感情 親への感情 共依存の実態

自分の心の中がどうなっているのか ようやく理解しました

親からもらったものを捨てる それは少なからず恐怖を覚えるものでしたが 親からもらったものは何とも厄介な 不要なものばかりでした それが分かった時のショックも大きかったのです

新しく学び直す 生き直す その師となったのはまずカウンセラーでした

こうして約1年半の間 カウンセラーとのメールのやり取りは続きます

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健全ってどんなこと?

前回からの続きです

親からもらったものがまさにそうだった と言えます

まだ言葉も出ない幼児期 子は親の言動を見て学びます

機能不全家族の親からすべてを学ぶのですから いいものを得ることはまずありません

愛ではなく哀をもらったのです 自分に向けられる怒りも憎しみも貰いました 恨まれました疎ましくされました 虐待も 育児放棄も

健全に育った子との違いは とてつもなく大きいようです

ここで健全ということについて

健全って いったいどんなこと?ACには未知の領域ですね

幼児期 親からの言葉かけ 生まれてきてくれてありがとう 愛してるよ

明るい笑顔 優しい愛撫 たっぷりのスキンシップ

そんなの体験したこともない そう あなたの親も同様にそんな体験がないのですから

子に同様の体験はありません これが家族の輪廻 家庭内連鎖です

機能不全家族

機能不全という言葉自体はよく聞きます 内臓の機能不全 心不全 腎不全など

本来はその機能を果たして 健全な機能を保つ

これができない状態が機能不全ということになります

機能不全な状態になった家族

家族の健全な機能 って何でしょうか

ACが育ってきた環境と真逆の状態です

・家族の中に不安 恐怖がない 安心してそこに存在できる

・家族に生まれた子は祝福され歓迎されている

・普通に愛情がある 家族の中に怒り 恨み 憎しみの感情がない ネガティヴな感情に支配されていない

・感情を表現することを抑えない 喜怒哀楽の気分や感情を言葉にして普通のテンションで相手に伝えることができる

・愛情と支配 操作を取り違えていない 相手を支配 操作しない 裏の感情がない(裏面交流をしない) 依存し依存される関係がない

・家族のメンバーそれぞれの人生を 誰も邪魔しない など

ACがいかに辛く悲しい環境で育ったか 想像できるでしょう

過去は変えられない事実です これは受け入れるしかない

でも現在は 今という時間とこの状況は変えられます そして未来は変えられます

機能不全家族に育って年を重ねてきた親は この先変わることは難しいかもしれませんが 少なくともあなた自身は変わることができるかもしれない

人は変わることができます とても大変なことですが

諦めなければ変わることができます

親からもらったもの -それはすべて不要なものでした-を捨てることになります

家族の輪廻 家庭内連鎖の鎖を断つには 生まれ変わる 生き直す覚悟が必要です

親の支配と操作は 自分で思うより根深いものです

無意識にやっていることが実は親と同じことだったり それは仕草や口調だけでなく ものの受け止め方 感じ方にまで及びます これを全部捨てて リセットするのです

自分の人生をどうきるか それはあなたの自由

生きたいように生きられるのです

その自由を縛っているのは 意外にも自分自身だったりします

自分はどう生きていきたいのか ここで自問自答したくなりますね
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新しい年に

新しい年が始まりました

ACを手放そうと 日々癒しと新しい認知のトレーニングをしている方に

そして自分をどうしていいのか悶々としている方にも

今年はもっと丁寧なアドバイスができればと思います

今までに書いたことを繰り返しながら お話を進めていきます

ACを手放すプロセスは次のようになるでしょう 順番は不同です

・自分の不全感 生き辛さがどんなもので それはどこから来るのか どこに原因があるのかに気づく

・生き辛さはどうしたらなくなるのか なりたい自分のイメージを掴む

・親をきちんと恨み きちんと憎む 親を拒否し 自分の内側にある親への執着を終わらせる 親から離れる

・親との関係が今は険悪でも 離れることで関係は修復できることを知る

・親からもらった認知の癖ー嗜癖ーとコミュニケーションの癖に気づく その嗜癖が自分にとって今後マイナスになることに気づく

・ACにとって親からもらったものはほとんどすべて捨てて 生き直しをしなければならないことに気づく

・認知の歪みを正すトレーニングに向かう

・親以外の 他者とのコミュニケーションの仕方を学ぶ

・自分の内側のインナーチャイルドを探す 見つける 状態を知る

・インナーチャイルドの癒しが必要なことが多いので 癒しのセッションを受ける

・自分の中の依存を明らかにする それを受け入れる 依存は誰にもあるもので それ自体は悪いことではないと知る コントロールする方法を見つける

まだありますが 書き出しただけでもこんなに課題はあります

もちろんACを捨てない という選択もありです これは嫌味ではなく ACのままで共依存のままで生きていく人もいるのです そうしなければ生きられないのです

私の姉がそうです 長い間誰かに依存して生きてきたので依存の相手は変わっても依存そのものをやめることができない でもそれは自分の選択です

さて あなたの生き辛さはどんなことでしょう 振り返って または今を感じましょう

どんな自分ならOKと言えるでしょうか

ACの自己嫌悪の大きなものは 嫉妬 恨み憎しみの感情が強いことでしょうか

こんなにも他者を嫉妬し恨み憎しむものなのか 自分でも嫌になることが 私にもたくさんありました

それはなぜなのか 自分の内側を探ってみましょう

ACの感情にはポジティブな感情がとても少ないようです

喜怒哀楽でいうと喜と楽が極端に少ない

怒と哀でほとんどが占められています

これはなぜなのか さらに奥へ

親からもらったものがまさにそうだった と言えます

まだ言葉も出ない幼児期 子は親の言動を見て学びます

機能不全家族の親からすべてを学ぶのですから いいものを得ることはまずありません

愛ではなく哀をもらったのです 自分に向けられる怒りも憎しみも貰いました 恨まれました疎ましくされました 虐待も 育児放棄も

健全に育った子との違いは とてつもなく大きいようです

さあ ここから挽回するにはどうしたらいいでしょう

今年もこれから 少し長い旅が続きます

 

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自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!【転載】

最近 転載が続きますが この記事もなかなか興味深いのでぜひご一読を

自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!

最新研究が明かした驚きの真相正高 信男

京都大学霊長類研究所教授
認知神経科学

プロフィール

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

自閉症スペクトラムと呼ばれているような障害は、実は障害でない。生物としての人類のバリエーション(変異)のひとつである。

自閉症スペクトラムは、本来は人類の、生息環境に対する適応の一つのあり方だというのが、本稿で紹介するニューロダイバーシテイ(脳多様性)という考え方にほかならない。

なぜ自閉症はこれほど多いのか

自閉症スペクトラムというものの実態は、(1)対人関係とりわけコミュニケーションが不得手で、(2)興味・関心の幅が著しく限られていたり、こだわりが激しいという二点を特徴とする。つまり、いわゆるオタク的傾向が顕著な発達「障害」として、一般にもよく知られるようになってきた。

この「障害」はおおよそ、遺伝的要因によって生ずると考えるのが定説となっている。発症率はどんなに少なく見積もっても1~2%。25人に1人と主張する研究者もいる。この値は、ほかのたいていの遺伝的障害に比べて極端に大きい(通常は1万分の1とか、2万分の1とかが普通である)。

ではどうして自閉症スペクトラムの人間だけがこれほど多いのか?

もしもこの「障害」が本当に生きていくうえで障害となるのなら、その人が子孫を残す確率は小さくなり、ダーウィン流の淘汰が働くはずである。しかしそうはならなかった。

自閉症スペクトラムには他の多くの遺伝的障害のようには、淘汰圧がかからなかったのだ。つまり存在意義があったと考える方が、自然ということになってくる。

それでは、どんな意義があるのかということを私は、ここのところ実証的な立場で研究してきた。

そこで明らかになったのは、自閉症者はそうでない人と認識世界が何がしか異なる、しかも後者が仲間とのこころの交流に重心をすえた行動をとるのに対し、前者は人間を取り巻く物理的環境に自らのこころを向けるという事実であった。

だが一般に言われているように、自閉症者は他人のこころがわからないとか、共感能力に欠けるというのは誤解であると私は考えている。むしろ自閉症者は「自然」に、そうでない人は「社会」にウエイトを置くという点で決定的に両者は異なるのだ。

実験からわかったこと

具体例を紹介しよう。

小学生に『ウオーリーをさがせ』のような課題をしてもらうことにする。無数の人物像のなかに、ひとりだけ他と異なる人が描かれていて、それをできるだけ早く見つけるという作業である。

すると、自閉症児の課題遂行の成績は、そうでない子どもより著しく劣るのが普通だ。

ところが、全く同じ自閉症児に人以外のイメージを使って同じ形式の実験をしてみる。たとえば動物。トンボがいっぱい描かれている中に一匹のクモを見つけるような課題を行うという段になると、ダントツのスピードで発見してしまう。

他人の表情の微妙な相違を見きわめるなどが、もっとも苦手。その代わり、チョウをたくさん採集してきて、羽の紋様のわずかな違いによって分類をするとなると、どこに秘められていたのかといぶかしく感ずるほどの情熱をみせる。

しかも結局、両者の子どもの違いはこれに尽きると言っても誇張ではないのである。要は生活のスタンスが異なるのである。

人類繁栄の車の両輪

社会がこれほど産業化する以前の人類の生活を考えた場合、今日なお数理的な思考や生物に非常な関心を示し、学校でもすぐれた成績をのこすことからもうかがえる自閉症者のスタンスと、そうでない人のスタンスのいずれが欠けたとしても、人類の今日の繁栄はなかったのかもしれないのだ。

ニホンザルの近縁であるアカゲザルの群れでも、集団外の脅威にもっぱら注意を払うサルと、仲間同士の社会的交流の調整にエネルギーを注ぐサルがいて、しかもサルがどちらの役割をはたすかは遺伝的にきまっている(専門的には遺伝的多型があるという)ことが報告されているが、人間にもこうした特徴はうけつがれているらしい。

社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いをめぐらす人物がいる——前者こそが自閉症者であることは改めて指摘するまでもないだろう。

先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた存在と、社交にたけた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献をはたしたと考えられる。

生物が同一の空間・場所にあって同じ景観に接したところで、その認識する世界は種によって多様である。

たとえばチョウは人間には不可視の紫外線を見ることができるし、ニホンザルのわれわれの可聴域(上限がおよそ18000ヘルツ)をはるかに超える超音波を聞いている。

生物の世界がそういう多種による多様性、つまりバイオダイバーシテイ(生物多様性)によって成立しているように、人間の世界も遺伝的に異なる多様な存在がそれぞれ微妙に異なる脳神経システムを発達させることを介して、多様性を構成しているのである。

これがニューロダイバーシテイという発想である。

多数派による「迫害」

ただし量的には社会的周縁で生活するのに適応したような存在は、全体のなかで相対的に少数でこと足りる。おのずと全体のなかでマイノリテイとなる。

他方、いわゆる「健常者」が多数派を占めることとなる(ニューロダイバーシテイの考え方では、彼らのことを指して「定型脳を保持している(ニューロティピカル neurotypical)、略してNT」と表記する)。

そして有史以降、時代を経るにつれてNTの人たちがマイノリテイを駆逐し、自分たちにのみ都合の良い状態へ生活環境を変えてきたというのが,今日の先進国社会の状況にほかならない。

たとえば聴覚ひとつとっても、自閉症者は非常に音に敏感である。それはかつては外界のほんのちょっとした不穏な動きにも反応するためにきわめて有用な感性であったと推測される。

だが人工音が巨大な音量で氾濫する現在の日本の都会のような所では、ただただイライラさせられるばかりで、ついついキレやすくなる始末である。

自閉症者には音楽への美意識が生まれながらに発達している人が多いのも、これと関係している。

そして世の東西を問わず、封建制が崩れ土地との結びつきから解放されだした際、まず生活を移動しはじめたのが音楽的パフォーマンスをなりわいとする人々であったのは、決して偶然ではない。

遊芸人(英語のwondering minstrel、ドイツ語のSpielmann、アフリカ圏のgriot)は定住民とつきあうことを好まず、彼らに蔑まれつつコミュニテイから排除される形で、放浪をくりかえしたが、この時代からNTによる自閉症者への迫害は激化しだしたのだった。

独特の色彩感覚

色彩感覚を調べてみても自閉症児のそれは、NTの子どもとはかなり異なることが明らかとなった。いちばん明るい色である黄が嫌われ,代わりに自然環境を彩る地味な緑と茶が好まれる。

自閉症児とコントロール(NTの子ども)における6つの色の好感度の比較

ところが昨今の人工環境の景観では華美な原色が多用されるのは周知のとおりである。それはマイノリテイの人間にとって自覚するしないにかかわらず、相当量のストレスとして働いているだろうと想像される。

自閉症研究は現在、過去に例のなかった規模で活発におこなわれるようになっている。だがややもするとその多くには、自閉症者を実験動物のように扱ったNTの立場に立ったものに終始しているきらいがあることは否定できない。

地球環境を守るためには、人類がバイオダイバーシテイを保全する努力が不可欠となっているように、ニューロダイバーシテイの破壊阻止という観点からの障害者支援が、もとめられているのである。

そのためにはマイノリテイの人々が過剰なストレスを体験することなく生活できる居場所作り(ニッチェコンストラクション)も急務だろう。

牛丼チェーン店の外装。左が京都市内(百万遍付近)の店舗。右は京都市以外の通常の店舗のもの。

たとえば、上の2枚の写真を見ていただきたい。全国展開している牛丼店の写真である。右側が、通常の店の看板であるのに対し、左は京都市内でのみ使われているものだ。左では黄色の部分が「白抜き」になっていることが、見て取れるだろう。

京都市は古都という事情から、独自の景観条例をつくり、華美すぎると判断される店舗の外装を規制しており、その一環として黄色の使用も極力ひかえるように指導しているのであるが、結果としてそれは自閉症者の色彩感覚に適した環境作りにもつながっている可能性が高いのである。

やる気さえあれば工夫次第で、環境改善はいくらでも可能であることの実例ではないかと私は考えている。

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688 gendai.ismedia.jp

「私たちは定型発達という障害を抱えている」

今回はこの記事をご紹介します。長文ですがぜひ読んでいただきたいと思います。

自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」

相模原障害者殺人事件から考える
光岡 英稔,福森 伸
2016年7月、相模原の障害者施設が襲われ、入所者19人が殺害された。
容疑者は犯行予告の手紙の冒頭に殺害理由として「世界経済の活性化」を挙げた。続けて「重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」を望むとしたうえで、「障害者は不幸を作ることしかできない」と結んだ。
容疑者のしたことは断固として拒絶する。だが、彼の考えを突き詰めていったとき、私たちが日々の暮らしで馴染んでいる経済性や効率といった価値観を極端な形であれ、体現しているにすぎないのではないか。そう思えてくる。
踏み込んで言えば、彼はある意味で、現状の世のあり方によく適応し、「健常に」育ったのかもしれない。培った健常さが障害者の抹殺に行き着いたとすれば、その凶暴性は人間の本能に根をもっているはずだ。
本能のままの振る舞いと凶暴性に境界はあるのか。人間にとってのノーマルさ、障害とは何か。
こういったことを専門家はどう考えているのか。そこで武術界で注目されている光岡英稔氏と福祉業界で独自の活動を展開している福森伸氏に対談をお願いした。
光岡氏については過日、「現代ビジネス」に掲載されたインタビュー「教育すると、人間は『弱く』なる!」を読んでいただきたい(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45934)。
しょうぶ学園について説明すると、鹿児島にある知的障害者支援施設であり、ドキュメンタリー映画「幸福は日々の中に。」が全国で公開されるなど、メディアの注目は近年高まっている。
その発想のユニークさは、たとえば俳優の広末涼子が出演したCM曲にも使われた、園の利用者の障害者と職員からなるパーカッショングループ「otto&orabu」の演奏にも現れている。メンバーのうち施設利用者は音階がわからず、専門的な訓練も受けていない。

otto&orabu〔写真提供〕しょうぶ学園

だが、いついかなる時もブレることなく、目前の楽器に向かい、行為することに没頭する。そんな彼らだからこそ坂田明をはじめ名だたるミュージャントとセッションしようとも物怖じせず、いつも通り大胆に演奏する。
その姿を見るとき、多数派の健常者は向上、発展することを疑いもしない自らをいぶかしく感じるだろう。
しょうぶ学園の試みは、私たちが現実と信じている以外の現実のあり方を示唆している。ふたりの対談は、現実と幻想の境界線を走るように進んだ。
(企画・構成/尹雄大)

普通って何だろう?
光岡 鹿児島に足を運び、しょうぶ学園を見学したとき、改めて「普通って何だろう」と考えさせられました。
私は武術をやっていますから、その観点から話します。

光岡英稔(みつおか ひでとし)1972年岡山県生まれ。日本韓氏意拳学会代表。

武術を稽古して行くと「自由自在に動くこと」と「自然に動くこと」の絶対矛盾に行き着きます。相手は自分を殺そうとする。だから相手を阻止します。そのためこちらも自在に動きたい、相手を自由に操りたい。ようは私の思い通りにしたいわけです。
自由に振る舞うことは、必ずしも自然な行いではなく、「相手をコントロールしたい」といった作為の要素が入ります。そうでありながら武術の境地においては「何もしない」という無為自然であることをよしとします。
つまり作為的な稽古の果てに無為に向かいます。
ところがです。
しょうぶ学園の利用者の皆さんは何の練習もせずに、ただ「普通」に作為なく振る舞っていました。「これはかなわないなぁ」と感じました。果たして無為を求めて練習することに意味はあるのかと深く考えさせられました。
福森 武術は相手から身を守り、守り切れなければ攻撃に転じる。自分のエリアが侵されない限りは攻撃しない。そういう考えがベースにありますよね。

福森伸(ふくもり・しん)1959年鹿児島県生まれ。しょうぶ学園施設長。

それで言えば、私には彼らがとても無防備だと感じるんです。そういう相手にはどう対応しますか?
光岡 ちょっと唐突かもしれませんが、ある種の「部族」として接する必要があると思います。たとえば、アマゾンに住むピダハンやイゾラドと呼ばれる少数部族は、自分たちで食べ物をとって日々暮らしています。その暮らしが侵されなければ問題ない。
福森 防備する必要もありません。
光岡 けれどもテリトリーを侵されたら争いが起きます。フィリピンのカリンガ族、イフガオ族だと首を刈るところまで徹底してやったりします。
ただ、わざわざテリトリーを越えてむやみに襲いはしない。境界線ギリギリでの争いや、狩りの最中にたまたま遭遇した他の部族との争いなどはあるようです。
しょうぶ学園の利用者の互いの距離のとり方を見ると、そうした部族の振る舞いを思い起こしました。
福森 利用者を部族に喩えるならば、僕らは平気で彼らのテリトリーに介入します。知的に障害があるからなのか、それに対してほとんどの場合、抵抗しません。
彼らの動きはプリミティブで非常に人間らしい。特に障害の重い人は最低限の動き以上の「発達」はしない。そういう無防備な人たちに対し、教育や支援という語を使って福祉は介入し、彼らの世界を変えようとします。「時間を守れるようになった」とか「ご飯を残さず食べられるようになった」といったことを評価するのです。
でも、それは彼らのしきたりを変えているんじゃないか。ノーマルという言葉を使って、彼らを僕らの国の法律に従わせているだけのことではないか。それを「ノーマライゼーション」「共生社会」と言うけれど、彼ら部族のしきたりはどこへ行ったんだろうと思うのです。
光岡 無防備ではあっても争いが起きる例もありますか?
福森 はい。誰しも圧力がかかれば防衛の反応が起き、それでも防げなかったら攻撃します。それで言えば、自閉症スペクトラムの人は圧力の感じ方が独特です。
たとえばデパートの試食コーナーで、蓋の開いている惣菜があると全部閉めて回ります。「蓋を開けっ放してはいけない」と習っているからそうしてしまう。
でも、そういうことをしたら怒られますよね。どうすればいいかわからなくなることが恐怖なのです。戸惑っているとさらに圧力がかかるから攻撃的になる。それは粗暴行為と言われます。圧力の感じ方が特殊ゆえに僕らに理解しにくい。でも、なぜそうするのかがわかれば対処できます。
施設内で急に大声出したりする人もいます。以前はそれを止めていたけれど、最近は「ここはちょっとまずいのでこちらでお願いします」くらいになってきました。

彼らのしきたりに従えばいい
福森 彼らのしきたりに従ったらいいんじゃないかと思うんです。彼らは僕らのところに侵入して暮らしを壊そうとしないのだから、僕らも侵入しないほうがいい。
でも、アマゾンにいるわけではないから、多数派である僕らのシステムを知らないとうまく生きていけない。だからこそ彼らの考えを尊重したシステムを社会に加えればいいのですが…。
マズローの自己実現の欲求論があります。食欲、性欲を満たして自己実現に至るというものです。それを言うなら、彼らの自己実現の達成を手伝うのが福祉のはずです。この場で服を脱ぎたい人、大きな声を出したい人がいたら、それが実現できるアフォーダンス的環境を作ればいい。
他害や自傷行為を容認するのは難しいけれど、他害や自傷があるから問題ではなく、それらが起きるようになった環境が問題なのです。
彼らのほとんどのしきたりは、僕らがオッケーさえすれば問題ない。それが実現できるのが福祉施設のはず。施設の外の社会に出ると健常者の掟が強いから、彼らのしきたりはまるで通用しない。
光岡 こちらのしきたりを教えることによって彼らの身体性や文化を否定し変えようとするわけですね。
何かを教え伝える身でありながらも、私は教えること自体がおこがましい行為だと思っています。教師、指導者の目的がその人の個性を変えようとする教えを中心とするなら、その教育は必ず失敗します。人の個性や身心を育むことが前提に何かを教えるならまだマシですが。
福森 人の本質は変わりません。変わらないものを変えようとして教えるとギクシャクします。圧力をかけることになりはしても、それぞれの人が自分の本質に気付けないままになってしまう。
光岡 しょうぶ学園では、人の本質をめぐってのせめぎ合いが見えます。

しょうぶ学園の園庭
自然と自由と楽は共存できない
福森 障害があって屈折したり、愛情かけられず養護施設でずっと暮らしてきたある人が、18歳でしょうぶ学園に来ました。どうやったら穏やかになっていくだろうかと考えるわけです。
簡単なケーススタディ、つまり支援方針と考察だけではダメなことはわかります。その人が生きてきた18年間かけてやるくらいのパッションがないと愛情の回復はできないのです。
光岡 その場合は、相手のテリトリーに入らないとできませんよね。
福森 懸命に入ろうと思っても「早く帰れ」とか「バカ」と言われます。
こちらのアプローチを圧力だと感じるから、「俺の世界に入ってくるな」というわけです。不適応行動や問題行動と言われます。通常だと「それらを直すにはどうしたらいいか」と考えます。
そうではなくて、この場合は問題行動自体が正しい行動なんです。こちらが圧力をかけているんだから彼が抵抗するのは当たり前です。
その構図がわかると相手に対して優しくなれます。「そうなって当然だよな」と。でも、「すまないけれど、また行かせてもらうぜ」と思ってます。そういう根性がいるわけです。
光岡 圧力のない状態が必ずしも自然とは言えません。夏にクーラーがあると楽に過ごせます。楽だから自然かというと、そうではない。しかし、楽を求めるところに人間としての自由はあります。木を切って土を掘り返し建物を建て、クーラーをつけて快適に過ごす。それが自由や楽の象徴であり文明の証でもあります。
私たちはコンクリートの建物よりも野山や小川を見ることに自然を感じます。そちらの方が自然なことは皆わかっています。けれども自然の中で自然のルールと共に過ごすことは人にとって不便さや不自由を意味します。
自由を求めると「山があれば削って、川を掘って快適な環境にすればいい」という振る舞いにしかなりません。そういう発想のもとで最終的には原発までつくりました。
人には自我や本能と、それらが求めるものを実現できる知能やテクノロジーがあります。それゆえ戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません。でも、本来なら知能を用いて戦争しないで済むための手立てを考えないといけない。そのために知性があるわけですから。

本当に自由であるとは?
福森 若い頃は人を殺すことは許せない。戦争は絶対に許せないと思い、そういう考えをする人自体を否定していました。
今はこう思うようになっています。生まれてきて、いまここに生きている人間がしている以上、全てが“アリ”かもしれないと。戦争を肯定しているのではありません。戦争はNOだし、“ナシ”ですよ。
「君は戦争したいかもしれないけれど、僕は全然したくない」という考えには変わりない。けれども「君も生まれて来てしまったんだね。僕もそうだし、お互いしょうがない」というふうになれば、たとえその人の考えには理解は示せなくても、その人が存在することはアリだと受容できます。
光岡 相模原の事件に対しても容疑者の存在はアリと考えますか?
福森 やったことは絶対にナシです。でも、彼という存在がいた事実をいくら否定しようとも消すことはできない。その人の存在はアリなのです。
光岡 無論、彼の行為はナシです。むしろ問題は、彼のような存在をアリだと言えないような個々の自信のなさが人の内面にある気がします。
先ほど、私は本能があるから「戦争も人間にとっての自然と自由なのかもしれません」とした上で「戦争しないで済むための手立てを考えないといけない」と言いました。
なぜかといえば、私が最もされたくないことを相手にする。ここに良知や良心は抵抗を感じるからです。自分の中にある良知や良心が相手を通じて「それはおかしい」と私に教えてくれるからです。
他者から自分を省みられる。そこに人という種の意味があります。ここでいう「他者性」は社会の価値観や常識といった、私たちがつい気にかけてしまう「他人の目」のことではありません。
翻って、しょうぶ学園の利用者のみんなには他者性があります。でも客観性はないようです。私の存在はわかっても、私が「どう思うか」といった客観的な視点は持っていないように思います。
福森 親が亡くなって葬式から帰ってきた人がいて、僕らは心配して「大変だったね。どういうことがあった?」と聞きました。すると「ご飯をいっぱい食べてきた」と言う。僕らにとっては涙を誘う言葉だけど、彼にとってはリアルだし、葬式だからどうこうという考えに囚われていない。自由なんです。
その人はご飯を食べられてよかったというんだから、「よかったね」と言えばいいのに、僕らは「なんてことだ」と涙が出る。「それは悲しいことなんだよ」と教えようとしたりするわけです。
光岡 それではその人を尊重していないことになりますね。

福森 パソコンを使えない。字が読めない。お金の計算もできない。意思表明ができないから熱が39度あってもそれを言えない。世の中生きていく上では不自由なはずなのに、彼らはどうしてあんなハッピーな顔をしているのか。
僕らは便利だし色んなことをすぐに調べられ、情報は手に入れられる。なのになぜか自信が持てないし、全然自由ではない。
僕らは自由になればなろうとするほど、自由のもたらす障害を抱えるようになっています。約束してもすぐに連絡できるから遅刻しても構わないと思っている。絶対に遅れないようにしようとする方が大事なのではないですか。
自分の欲求を満たすことにかまけ、ますます不自由になる僕らが彼らのしきたりを無視すれば、それが圧力をかけることになって彼らの自由をなくしてしまうことにしかならない。
光岡 彼らを見ていると、やはり武術の究極とも言える自由と自然の絶対矛盾が、矛盾なく成立しているように思えます。彼らから学ぶことが多々あるように感じたのと同時に、人間という種に対して少しだけ希望が持てる気がして来ました。

私たちは定型発達という障害を抱えている
福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。ちょっと資料を読みますね。
・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。
・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。
・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。
・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。
・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。
・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。
光岡 実におもしろい。
福森 協会では、自閉症スペクトラムをニューロティピカルの対義語に当たる「エイティピカル」と呼んでいます。非定型発達を意味します。
エイティピカルは社会的コミュニケーションの障害があるといわれていて、どういう特徴があるかというと、

・自分が必要な時だけコミュニケーションをする。
・反復的で一方的、形式的で回りくどい。さらに些細なことでも柔軟に交渉できずこだわる。
・率直に本当のことを言いすぎる。嫌いな人に「お前は嫌いだ」という。
・自分だけが長々と話し続ける。断りなしに話題を変える。
・相手を不愉快にさせる言葉遣いをする(自分ではそう思っていない)。
・視線や表情、対人距離などの問題がある。近すぎたり離れたり。
・相手の言葉の意味を推論できない。言われた通りに解釈する。
・冗談や比喩、反対語の理解が困難。

光岡 「エイティピカル族」を包括して“アリ”にすれば世の中は今よりもノーマルになるかもしれませんよ。
福森 エイティピカル族は「お茶でもどうですか」と勧めて、相手に「結構です」と言われたら本当に出さない。僕らは「結構です」と言われても「まあまあ」といって出すわけです。
僕らは誰かが時計を見たら「そろそろ帰りましょうか」とか直接的ではないニュアンスの中でコミュニケーションをとる。それを侘び寂びと言ったら文化になるでしょうけれど。とどのつまりは何が正しいかわからない。両方あっていいはず。
光岡 個人の中を見ると、ニューロティピカルとエイティピカルのどちらもありますよね。
福森 そうです。しかしながら福祉業界はニューロティピカルに寄せたことを自立と呼んでいます。でも、よほど彼らの方が自立しているのです。人の賞賛を求めて自分のやることを変えたりしない。そもそも賞賛の意味がわからない。
僕らは人の賛同を求め、ブレまくっている。しかし、彼らはブレない。態度を変えない。彼らはすでに自立しているのなら、「自立支援」はいったい誰のためなんでしょう。
光岡 福森さんは境界のギリギリのところにいるのが好きそうですよね。
福森 そこから見える風景が好きなんです。色即是空という語がありますよね。これを独自に解釈しています。色は僕らの世界です。空は見ることはできないけれど、たぶん存在している世界。宇宙に広がるような、永遠に非定型で見えない。でも、あると信じています。色は現実主義と言われる世界で、その最先端にいるのは安倍総理かもしれない。
おそらく想像もつかない展開、ミラクルは色と空のせめぎ合いのところにあるんだろうと思います。武術の狙っているところは、その辺ではないですか?
光岡 そうだと思います。死生や勝負のギリギリの境界線がどこにあるのかを知りたい。それが武術家の本性です。それも安全パイでない方からその境界線を求めたい。
本当に武術が好きな人は境目のギリギリを楽しむのが好きですね。だからこそいまだかつてない何かが生じます。
福森 僕はそこをエッジと呼んでいます。そこには病気や健常を問わず、「思うようにいかない」と思う人たちがいる。そういう人は「現実的に生きないといけない」と言われているから、無理をしてしまう。
そうではなくて、右も左も見える真ん中あたりまで戻ってもいいんじゃないか。現実と夢、秩序と非常識の真ん中に時々いると、妄想を話す人にすごく興味が湧いてきます。
「僕はフェンダーのギターを持っているけれど、明日リンゴを食べるんだ」なんて言われる。なんでそういうことを考えるのか。必死についていこうとする。気づいたらエッジに立っている。そこで人間に関するミラクルが見られるじゃないかと思っています。
(了)

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50640