自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!【転載】

最近 転載が続きますが この記事もなかなか興味深いのでぜひご一読を

自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!

最新研究が明かした驚きの真相正高 信男

京都大学霊長類研究所教授
認知神経科学

プロフィール

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

自閉症スペクトラムと呼ばれているような障害は、実は障害でない。生物としての人類のバリエーション(変異)のひとつである。

自閉症スペクトラムは、本来は人類の、生息環境に対する適応の一つのあり方だというのが、本稿で紹介するニューロダイバーシテイ(脳多様性)という考え方にほかならない。

なぜ自閉症はこれほど多いのか

自閉症スペクトラムというものの実態は、(1)対人関係とりわけコミュニケーションが不得手で、(2)興味・関心の幅が著しく限られていたり、こだわりが激しいという二点を特徴とする。つまり、いわゆるオタク的傾向が顕著な発達「障害」として、一般にもよく知られるようになってきた。

この「障害」はおおよそ、遺伝的要因によって生ずると考えるのが定説となっている。発症率はどんなに少なく見積もっても1~2%。25人に1人と主張する研究者もいる。この値は、ほかのたいていの遺伝的障害に比べて極端に大きい(通常は1万分の1とか、2万分の1とかが普通である)。

ではどうして自閉症スペクトラムの人間だけがこれほど多いのか?

もしもこの「障害」が本当に生きていくうえで障害となるのなら、その人が子孫を残す確率は小さくなり、ダーウィン流の淘汰が働くはずである。しかしそうはならなかった。

自閉症スペクトラムには他の多くの遺伝的障害のようには、淘汰圧がかからなかったのだ。つまり存在意義があったと考える方が、自然ということになってくる。

それでは、どんな意義があるのかということを私は、ここのところ実証的な立場で研究してきた。

そこで明らかになったのは、自閉症者はそうでない人と認識世界が何がしか異なる、しかも後者が仲間とのこころの交流に重心をすえた行動をとるのに対し、前者は人間を取り巻く物理的環境に自らのこころを向けるという事実であった。

だが一般に言われているように、自閉症者は他人のこころがわからないとか、共感能力に欠けるというのは誤解であると私は考えている。むしろ自閉症者は「自然」に、そうでない人は「社会」にウエイトを置くという点で決定的に両者は異なるのだ。

実験からわかったこと

具体例を紹介しよう。

小学生に『ウオーリーをさがせ』のような課題をしてもらうことにする。無数の人物像のなかに、ひとりだけ他と異なる人が描かれていて、それをできるだけ早く見つけるという作業である。

すると、自閉症児の課題遂行の成績は、そうでない子どもより著しく劣るのが普通だ。

ところが、全く同じ自閉症児に人以外のイメージを使って同じ形式の実験をしてみる。たとえば動物。トンボがいっぱい描かれている中に一匹のクモを見つけるような課題を行うという段になると、ダントツのスピードで発見してしまう。

他人の表情の微妙な相違を見きわめるなどが、もっとも苦手。その代わり、チョウをたくさん採集してきて、羽の紋様のわずかな違いによって分類をするとなると、どこに秘められていたのかといぶかしく感ずるほどの情熱をみせる。

しかも結局、両者の子どもの違いはこれに尽きると言っても誇張ではないのである。要は生活のスタンスが異なるのである。

人類繁栄の車の両輪

社会がこれほど産業化する以前の人類の生活を考えた場合、今日なお数理的な思考や生物に非常な関心を示し、学校でもすぐれた成績をのこすことからもうかがえる自閉症者のスタンスと、そうでない人のスタンスのいずれが欠けたとしても、人類の今日の繁栄はなかったのかもしれないのだ。

ニホンザルの近縁であるアカゲザルの群れでも、集団外の脅威にもっぱら注意を払うサルと、仲間同士の社会的交流の調整にエネルギーを注ぐサルがいて、しかもサルがどちらの役割をはたすかは遺伝的にきまっている(専門的には遺伝的多型があるという)ことが報告されているが、人間にもこうした特徴はうけつがれているらしい。

社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いをめぐらす人物がいる——前者こそが自閉症者であることは改めて指摘するまでもないだろう。

先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた存在と、社交にたけた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献をはたしたと考えられる。

生物が同一の空間・場所にあって同じ景観に接したところで、その認識する世界は種によって多様である。

たとえばチョウは人間には不可視の紫外線を見ることができるし、ニホンザルのわれわれの可聴域(上限がおよそ18000ヘルツ)をはるかに超える超音波を聞いている。

生物の世界がそういう多種による多様性、つまりバイオダイバーシテイ(生物多様性)によって成立しているように、人間の世界も遺伝的に異なる多様な存在がそれぞれ微妙に異なる脳神経システムを発達させることを介して、多様性を構成しているのである。

これがニューロダイバーシテイという発想である。

多数派による「迫害」

ただし量的には社会的周縁で生活するのに適応したような存在は、全体のなかで相対的に少数でこと足りる。おのずと全体のなかでマイノリテイとなる。

他方、いわゆる「健常者」が多数派を占めることとなる(ニューロダイバーシテイの考え方では、彼らのことを指して「定型脳を保持している(ニューロティピカル neurotypical)、略してNT」と表記する)。

そして有史以降、時代を経るにつれてNTの人たちがマイノリテイを駆逐し、自分たちにのみ都合の良い状態へ生活環境を変えてきたというのが,今日の先進国社会の状況にほかならない。

たとえば聴覚ひとつとっても、自閉症者は非常に音に敏感である。それはかつては外界のほんのちょっとした不穏な動きにも反応するためにきわめて有用な感性であったと推測される。

だが人工音が巨大な音量で氾濫する現在の日本の都会のような所では、ただただイライラさせられるばかりで、ついついキレやすくなる始末である。

自閉症者には音楽への美意識が生まれながらに発達している人が多いのも、これと関係している。

そして世の東西を問わず、封建制が崩れ土地との結びつきから解放されだした際、まず生活を移動しはじめたのが音楽的パフォーマンスをなりわいとする人々であったのは、決して偶然ではない。

遊芸人(英語のwondering minstrel、ドイツ語のSpielmann、アフリカ圏のgriot)は定住民とつきあうことを好まず、彼らに蔑まれつつコミュニテイから排除される形で、放浪をくりかえしたが、この時代からNTによる自閉症者への迫害は激化しだしたのだった。

独特の色彩感覚

色彩感覚を調べてみても自閉症児のそれは、NTの子どもとはかなり異なることが明らかとなった。いちばん明るい色である黄が嫌われ,代わりに自然環境を彩る地味な緑と茶が好まれる。

自閉症児とコントロール(NTの子ども)における6つの色の好感度の比較

ところが昨今の人工環境の景観では華美な原色が多用されるのは周知のとおりである。それはマイノリテイの人間にとって自覚するしないにかかわらず、相当量のストレスとして働いているだろうと想像される。

自閉症研究は現在、過去に例のなかった規模で活発におこなわれるようになっている。だがややもするとその多くには、自閉症者を実験動物のように扱ったNTの立場に立ったものに終始しているきらいがあることは否定できない。

地球環境を守るためには、人類がバイオダイバーシテイを保全する努力が不可欠となっているように、ニューロダイバーシテイの破壊阻止という観点からの障害者支援が、もとめられているのである。

そのためにはマイノリテイの人々が過剰なストレスを体験することなく生活できる居場所作り(ニッチェコンストラクション)も急務だろう。

牛丼チェーン店の外装。左が京都市内(百万遍付近)の店舗。右は京都市以外の通常の店舗のもの。

たとえば、上の2枚の写真を見ていただきたい。全国展開している牛丼店の写真である。右側が、通常の店の看板であるのに対し、左は京都市内でのみ使われているものだ。左では黄色の部分が「白抜き」になっていることが、見て取れるだろう。

京都市は古都という事情から、独自の景観条例をつくり、華美すぎると判断される店舗の外装を規制しており、その一環として黄色の使用も極力ひかえるように指導しているのであるが、結果としてそれは自閉症者の色彩感覚に適した環境作りにもつながっている可能性が高いのである。

やる気さえあれば工夫次第で、環境改善はいくらでも可能であることの実例ではないかと私は考えている。

転載元 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688 gendai.ismedia.jp