ACには愛する愛されるという体験がありません
幸せな体験もありません
愛って何? 幸せって何?という問いは当然なのです
幼児期の充分な愛情体験がありません
抱きしめられる 撫でられる 生まれてきたことを歓迎される 笑顔を向けられる
愛してると言われる たくさんの言葉かけをもらう
こんな一連の 言わば愛のシャワーを浴びたことがないのです
誰でもそうですが 体験しなかったことは分かりません 認識も理解もできないのです
人にしてもらったことは体験や感覚の記憶として残り 今度は自分が人にしてあげる ができます
機能不全家族とは この体験や記憶の受け渡しの機能が壊れているということです
愛するという感情が分からない 表現できない その代わりを例えば過干渉や過剰な世話焼きで表現しようとします
愛する(感情)→過干渉(行動)に替えて表現しようとします そうするしかないのです
幸せという感情が分からない 表現できない その代わりを例えばお金を得ること 使うことで表現しようとします
幸せ(感情)→お金(モノ)に替えて表現しようとします そうするしかないのです
感情はそのまま言葉にして口に出せばそれでいいのですが それが分かりません
行動やモノに替えてしまうので 健全なグループからは理解できない「普通」じゃない人に映ります
これが対人関係につまずく第一の理由だと ワタシは見ています
月別: 2013年6月
自分の人生は自分の自由に生きられる
長い間 親からの依存と親への依存を続けているACには 自分の人生が見えません
巧みな支配とコントロールで そして無言のコミュニケーションで 過剰な干渉と世話焼きで
自分の人生を奪われているのです
本来なら自分の自由な人生を生きられるのですが
自分の感情と欲求で 自分の思う通りの人生を生きられるのですが
いつの間にか一卵性の親と子になってしまっています
もちろんその方が居心地がいいと 共依存の関係を続けていく親子もいます
当事者どうしがそれでよければ 周りが口を挟む筋合いもありませんが
それに親子の共依存の場合でさえ 親が亡くなれば子は自立します せざるを得ません
あるいは新しく依存の相手を見つけ出す場合もあります
でもそれを非難することはできません
彼らはそれを選んでいるからです 無意識であろうと意識的であろうと 自分で選びます
自分の嗜癖に気づき そこから抜け出そうとする人のサポートをする
周りの人間(カウンセラー)にはそれぐらいしかできません
結局は当事者本人の覚悟〜不全感から解放されたいと強く思うこと〜が唯一の頼りです
さまざまなパーソナリティ障害の根っこはAC・共依存
パーソナリティ障害(かつては人格障害と言われていましたが 呼び方が変わりました)という診断名があります
いわゆる医学分野ではこのような分類に分かれています
パーソナリティ障害の区分 (DSM/Wikkipediaより)
妄想性パーソナリティ障害 Paranoid personality disorder
スキゾイドパーソナリティ障害 Schizoid personality disorder
統合失調型パーソナリティ障害 Schizotypal personality disorder
反社会性パーソナリティ障害 Antisocial personality disorder
境界性パーソナリティ障害 Borderline personality disorder
演技性パーソナリティ障害 Histrionic personality disorder
自己愛性パーソナリティ障害 Narcissistic personality disorder
回避性パーソナリティ障害 Avoidant personality disorder
依存性パーソナリティ障害 Dependent personality disorder
強迫性パーソナリティ障害 Obsessive-compulsive personality disorder
特定不能のパーソナリティ障害
これらの診断名がついている訳です 診断できるのはもちろん医師だけです
医師は病気として診断し 薬を処方します
カウンセラーなどコ・メディカルの分野の人たちは医師ではありませんからもちろん診断できません
そもそも診断自体があまり意味がないと考えるのです
人によって症状の現れ方はそれぞれで、それを診断名で括るのは意味がないのです
カウンセラーはこれらを病気ではなく嗜癖として捉え そこからの解放をサポートする立場です
カウンセラーにとってもクライアントにとっても大切なのは分類ではなく 不全感からの解放です
その嗜癖を逆にたどって行くと 根本にはAC・共依存があると考えるのです
AC共依存こそが さまざまな嗜癖の根っこだと ワタシは捉えています
言葉にならないSOS
SOSについて触れましょう
いじめ・いじめられ 不登校 引きこもり 暴力行為
リストカット 拒食・過食の摂食障害なども含めた自傷行為
OD薬の大量服用 アルコール 覚せい剤 ギャンブルなどへの依存症
そして自死未遂
これらの一連の行為・行動を 彼らからのSOSだと受け止めています
言葉でひとこと「助けて」と言えばいいのですが それが言えません
他者を頼る 甘える 助けを求める ができないのです
自分の弱さを認めたくないのでしょうか
すべてを一人で抱え込み 飲み込んで生きています
これで苦しくないはずはありません
ちょっとしたきっかけがあれば その固まりは爆発します
キレる のです
キレてしまうと思考停止 頭の中は真っ白になります
体が勝手に動くだけです
気がつくと 自分が起こしてしまったことに呆然とするのです
言葉にならないSOS
他者に 親に 助けを求めてもいいんだよ というメッセージをもらえなかった不安
不安や恐怖を言葉にできなかった悲しみ
ACアダルトチルドレンの心の中には 明るい色などありません
殺伐とした暗く冷たい 灰色の風景の中に 一人で立っています
分かって欲しい 構って欲しい
幼児期に満たされなかった欲求
分かって欲しい 構って欲しい は大人になってからも続きます
幼児期に分かって欲しかったのは欲求 そしてその奥にある感情 でした
自らもACである親は 残念ながらそんな我が子を分かってはくれませんでした
その名残は続きますが 肝心の「感情を言語化する」ことができません
原家族では通じる表情やしぐさ ため息などを 他人に向けて分かってもらおうとするのですが 当然ながら通じません
感情を言葉にする 欲求を言葉にすることができない不全感
分かってもらえない悲しみ 怒り 憎しみが渦巻きます
同様に 他人の気持ちを分かる ということができません
健全な相手は感情を言葉にして伝えているのですが 残念ながらそれは分かりません
ことがらは理解できても 相手の感情に共感するということができないのです
共感が生まれないまま コミュニケーションは失敗します
相互通行でなく一方通行のコミュニケーションです
「分かって欲しい」とともに「構って欲しい」が強いACです
幼児期に充分構ってもらえなかった その名残です
構ってもらうためにいろいろなことをして周りの気を引こうとします
これも残念ながら 相手には受け止めてもらえません
自分の側に問題があるのだとは気づくこともありません
いつも分かってくれない相手に責任があると 相手を責めるのです
家族の輪廻〜世代間連鎖〜
自分が育ったように子どもを育てる と書きました
病気なら伝染したり遺伝病であったり 家族から家族へ伝わります
AC共依存の嗜癖は病気ではありません でも家族から家族へ伝わります
世代間連鎖 〜家族の輪廻〜と呼んでいます
親は自分が育ったように子どもを育て
その子どもはまた同じように 自分が育ったように自分の子どもを育てます
自分がどう育てられたかをなぞるように育てます
暴力を受けて育った子は同じように
口のきき方 表情 怒り方 までそっくりになってしまいます
これも幼児期の学びです
幼児期の子どもは口がきけませんが 見る 聴くはできます
言語化するというのは かなり高等な能力です
子どもは家族のメンバー〜父と母の〜夫婦の「関係」を見て育ちます
そこからコミュニケーションのパターンを学び 人間関係を学びます
親は幼児期の子どもに 話しかけ 語りかけ 言葉かけをします
この言葉を聞いて 子どもは気分や感情 感覚を言葉と結びつけます
泣いていたら「寂しいのね」「悲しいの?」 笑っていたら「楽しいね」「嬉しいの?」など
感情や感覚と言葉が結びつきます
機能不全の家族のメンバーには このような言葉かけがほとんどありません
その代わりに 非言語のコミュニケーションを多用します
表情 しぐさ ため息
それをお互いが「察して」それぞれの対応を決めます
このコミュニケーションパターンが 次の家族に伝染っていくのです
自分を愛する 他者を愛するということ
ACアダルトチルドレンは自分を愛することが下手です
健全な自己愛がない あってもとても低いのです
自分を愛するにも条件付きです 〜できたなら OKなら好き 〜できないなら NGなら嫌い
好きも嫌いも含めて 丸ごとのありのままの自分を愛する ということができません
条件付きの愛で親から育てられたからです
健全な親なら 子どもを無条件で愛するでしょう
でもこれも条件付き 親からの支配とコントロールで育ちます
自分を愛することができないので 他人を愛することもできません
そもそも愛するって何? が分からないようです
幼児期を条件付きの愛で育っていますから 無償の愛が分からないのです
愛する ってどんなことでしょう
私がいて あなたがいる 私はあなたが好き 言葉にすればこんなにシンプルなことです
行動にするなら手を握ったりハグしたりキスしたりと 安心と幸せを感じる瞬間です
これが分からないのです
愛=好きという感情 ではなく
愛=欲求 相手を求め束縛・支配すること と思い違いしているのかもしれません
好きも嫌いも含めて 丸ごとのありのままの自分を愛することができたら
好きも嫌いも含めて 丸ごとのありのままの他者を愛することができたら
どんなに素晴らしいことでしょう