今回はワタシの体験を
カウンセリングが集結に向かう頃
変化が起きていました
今までは性善説で生きてきたことが自覚できたのです
それは何の根拠もない性善説でした
自分だけの思い込み 盲目的にそう信じていたのです
何かあったら自分を助けてくれるに違いない 愛してくれるに違いない
人は助け合うべきだ 人は善人であるはずだ
ただの願望でした
幼児期に満たされなかった欲求は 根深くその実現を求めていたのでしょう
他者への過剰な期待 支配やコントロールが どれほど自分を苦しめるかが分かってきました
これをやめてみようと思ったのです
するとあら不思議 他者との距離感が適度に取れるのです
他者への余分な感情も欲求も小さくなったのです
人間嫌いというのではなく 冷静に客観視できるのです
〜あるべき 〜ありたい などの思いは 自分の側に向けてはあってもいいでしょう
他者に対してはそれを当てはめることはないのです
人はそれほど自分にとって都合のいいことはしてくれないのです
それは当然のことだと 普通に分かったのでした
今までの思い込みを捨ててみると
意外にいいこともあるようです
投稿者: accodependcy
他者を信じる をやめてみる?
信じる について再び
自分を信じる と 他人を信じる
ACは分けて考えることが苦手なので 自分と他人を一緒くたにしてしまいますが
分けて考えます
自分を愛することと同じように 自分を信じることは必要です
無条件に自分を信じる部分があります 自分の存在そのもの 自分そのものです
自分に課した課題や目標にたとえ届かなくても 自分を信じる
自分で自分を裏切らないこと
自分で決めたことを行動に移す 成功失敗は問いません
成功したからOK 失敗したからNG ではなく
行動したことに対して その事実を信じる
こうやって自分に自信をつける 文字通り自分を信じる を重ねるのです
では他者を信じる はどうでしょうか こちらは問題
ACの「他人を信じる」は ほとんどすがりつき のめり込み と言っていい状態になりがちです
信じる だから〜して欲しい 〜したい と欲求がついてくるのです 意思と欲求は別です
これも分けて考えます
他者との距離が取れない上に その相手を信じることをしようとしたとたん 距離がなくなります
その相手の中に入り込んでしまうようです 自分から相手に巻き込まれて自分をなくすのです
もっと離れて相手を信じる ことをしなくてはいけません
信じてもいいから求めない 相手にはその人の人生があるのであり 自分のためにいるのではないのですから
信じるだけ 求めない 愛するだけ 求めないと同じように
むしろ安易に他者を信じない方がいいのかとも思います
まずは自分を信じることから です
信じる って何?
信じる
健全な人の 信じる という意思は
(思考や感情ではなく 自分の意志で信じるという心の動きが表れる と仮定しています)
自分や他者の言動を一つひとつ確かめながら積み上げていくと想像します
余分な感情を差し挟まず 淡々と自分を そして相手を見ることをします
信じる は 愛する と同様
相手に求めることのない自分の意志であり感情と言えるかもしれません
ACの信じる はちょっと違うかもしれません
相手への期待 願望 盲信に近い 思い込みです
〜のはずだ 〜に違いない 〜に決まっている など
実際の相手の言動はどうでもよく 自分のために 自分の都合で他者を見るようです
信じるという意味を どうやらACは はき違えているようです
育ちの中にこの体験がないのです
自分が相手を信じる 相手に自分を信じてもらう という体験
自分の親との関係で 「愛する」がなかったと同様に「信じる」体験がありませんでした
自分以外の人間に そもそも興味がないようです というより 自分のことが信じられていないようです
自分を信じることができないので 当然ながら他者を信じることもできません
信じる という意思の働きは ACにとってはかなり高度なものかもしれません
健全な家族で普通に行われている「信じる」は 愛と安心があって初めて成立するのでしょう
ACが育った環境にはそれがなかったのです
自分を愛する 自分を信じる から始めなくてはいけません
「思考」「感情」「意思」
ACは基本的に頭がいい人が多いようです
知識が豊富 思考が優れている 「考える」能力が高いのです
学校でも成績は良く(教科によって大きな差があるのが特徴ですが) そのためにクラス委員などを任されるのです
残念ながら協調性に欠けるので長続きはしませんが
一方 感情は弱いようです
「感じる」ことを抑え込んで生きてきたのです
感情の表現が下手なので 普通のテンションで感情を言葉にして他者に伝えることができません
感情的になって怒り悲しみはできるのですが コントロールができないのです
そして 意思 これもとても弱いようです
自分の内側から立ち現れるもの 意思が極端に弱いのです
意思の力 などと言われます 力を持っている自我 といえばいいでしょうか
自己を確立し 自我を確立し それを育てる という作業ができなかったようです
親の支配下で育って来た最大の弊害でしょう
意思の弱さ
ここに焦点を当てると ACからの解放も見えてくるのかもしれません
例えば自分を信じるという意思の力
ACは自分を信じることができません
もちろん親から教えられていません
親はお金の力だけを信じていたりします
自分のことはもちろん 周りの他人も信じません
ACにとって信じる とは 欲したもの 期待したものが得られる という程度のことでしかありません
それができなければ裏切られた と相手を恨むのです
無条件で他者を信じる は 無償の愛と同じほど遠いものです
機能不全家族〜「親」になりきれない親たち〜 西尾和美
表紙を開く前に 帯の文字が目に入ります
「なんと日本の家族の80%が機能不全‼︎ 何が原因なのか」…
1999年第1刷です 14年前 それで80%?…では今は?と聞きたくなります
もともと日本人は依存性が強い国民性だと言われています
DMS国際診断基準では依存性パーソナリティ障害の項目には
日本人を除く とされているとかいないとか
それほど強い依存性を持っているということです
日本から逃げ帰ったアメリカ人の話から始まります
筆者「子どもの育て方がおかしいのは、日本だけじゃないと思いますけど」
米国人「…ただ大きな違いは、アメリカでは問題があったとき、私たちでなんとかしようと働きかけができることです…同じような意見を持った人たちと協力して、問題に正面から対処しようとします。
でも、日本では『くさいものにはフタをしろ』で、事実を見ようとしない、あるいは見て見ぬふりをする。しかも、それをまわりの人にも要求するんです。
そして、子どもにも、個性をつぶして、他人の顔色をうかがいながら生きるよう教えて育てます…
こんな社会で自分の子どもを育てたら、自分本位のナルシストか、他人のことばかり気にして自分を見失う共依存の人間をつくりあげてしまいそうです…」
こうして物語は始まります
愛情溢れる中にも ACからの解放を強く願う 毅然とした著者の態度が読み取れる好著
体験を重ねる 免疫をつける
免疫をつける これもACにとっては難しいこと
人は行き詰まった時 失敗した時に 自分をコントロールし 解決法を探します
気分や感情のコントロールだけでなく 行動のコントロールもします
何が悪かったのかを分析し 今度はそうならないようにします
ACは失敗の体験から学ぶことが苦手なようです
失敗したことそのものに打ち拉がれ 解決策を探すこともなくその場からいなくなる
今までのことをすべてなかったことにして終わらせようとします
スタート地点で いくつものルートを想定することをしないまま スタートしてしまいます
行き詰まりそうな時 失敗しそうな時に軌道修正できるよう
できるだけたくさんのルートを考えておくことが必要です
こうしてみて これがダメだったら この方法で それがダメだったら次の方法で
これをできるだけたくさん用意しておくのです
それでも行き詰まり 失敗してしまうことはあります
失敗から学ぶことが ACに免疫をつける最良の方法かもしれません
そこで終わりにしないで 諦めないで 何度でも違う方法でやってみればいいのです
一度きりの人生です 自分だけの人生です
ダメ元でやってみればいいのです
後悔を残すより 最後までやってみて 本当にダメなら諦めればいいのです
大切なのは失敗を恐れないこと
失敗しただけで自分を嫌悪しないこと です
自分への愛だけは失わないで
新しいテンプレートにビックリ!!
ちょっと時間をおいて 今日の記事アップ後
ブログを確認してビックリ
何かの間違いで違うブログを開いたのかとやり直し
いいえ間違いではない タイトルには見覚えがある
でもこれは。。
テンプレートが変わっているではありませんか!
いったい何があったのか?
テンプレートの変更で一時的にこうなったのか
開いては閉じ 閉じては開き
このテンプレートは便利で見やすいです
過去記事も画像もひと目で分かるので
どこからでも読めます
デザインもオサレ 高級感があります
マクスタッフのみなさま ありがとうございますm(_ _)m
未来予想図を作る
ACは自分の未来を予想することがなかなかできません
人生設計 短期から中長期まで 予定する 計画する というのが苦手
自分の人生の時間の多くを 親に奪われていたからでしょう
自分の足で歩く訓練が足りなかったのでしょう
自分の内側に問いかけ 何をしたいのか どうなりたいのかイメージすることができません
時間の感覚も希薄です
自分はいつまでも子どものままでいられる 若いままでいられると思っています
無意識に代わりたくない自分がいるので このこと自体には不満はないのですが
気がつけば時間だけが過ぎ去り 自分はあの頃のまま 何も変わらないことに慌てます
周りの人たちはどんどん自己実現を果たしているように見えて
それができていない自分を嫌悪してしまうのです
これが一番の問題
人と自分を比べない 人は人 自分は自分 を唱えましょう
自分の未来予想図を作るトレーニングをします
「なりたい自分」をっかりイメージします
紙に書いて貼り出しておくのもいいでしょう
この年齢(年代)になったら こんな場所に住んでこんなものを食べて・・・と
できるだけ細かく詳しく できるだけ具体的にイメージします
そのために今日は何をしよう 明日は何を 組み立てていきます
漠然としたイメージではなく リアルなイメージで
千里の道も一歩から です
愛する って何? 再び
愛するって何? とカウンセラーに聞いたことがあります
それまでは愛するという言葉も分からなかったのです
言ったことも言われたこともなかったのですから
私がいる 貴方がいる 私は貴方が好き
と教えてくれました 驚きでした こんなにシンプルだったのですから
私は貴方が好き の中には それ以上の意味はありません ただ 好き という感情だけ
ACの育ちの中では 愛という言葉にはもっとたくさんの意味があると
しかもそれは言葉にならないものだと 言葉にする必要もないと思い込んでいました
それは間違いでした
ACの「好き」「愛してる」は どうやら感情ではないようなのです
独占 支配 嫉妬 性欲 といった欲求のようなのです
一緒にいたい 自分だけのものにしたい セックスしたい などの欲求が とても強いのです
「好き」という感情を自覚できないのです 自覚するのは最初の一瞬で あとは欲求の塊です
感情を自覚することができずに 欲求を満たそうとします
それが愛することだと勘違いしているのです
感情と欲求を分けて考えることがとても難しいのです
感情という形のないものを信じることが不安なのです 体験がないのです
愛されている安心感 という体験がない悲しさです
欲求を満たすことが優先され そのために行動します 即物的です
そういう育ちをしたのです
感情を感じる そして言語化することができない結末です
喜怒哀楽の感情をしっかり感じること それを言葉にすること それを相手に伝え 相手からもそれをもらう
が 何よりのトレーニングです
疾病利得 甘えること
疾病利得 という言葉があります
実はこの言葉をカウンセリング(というより相談の)場で口にして
相手に激しく拒否されたことがあります
この言葉自体は普通に使われるもので
この言葉に問題がある訳でもありません
激しく拒否する本人に問題があるのですが
病気をすることで看病してもらえる 構ってもらえる 甘えられる
この甘い快感を得たくて ことあるごとに病気を繰り返す熱を出す おなかが痛くなる 頭が痛くなる
具体的にはこんな状態です
幼児期の子どもにはよく見られます
ACもこの傾向があります
十分な愛情をもらっていないのですから 当たり前の話です
このこと自体が悪いことなのではありません
ただこれが過剰だと 普段の生活や他者とのコミュニケーションに支障をきたしてしまいます
誰かに甘えたい これは誰にでもあること
そんな時は甘えたい相手にそれを言葉にして伝えればいいのです そして甘える
もちろん相手は家族でも親戚でもない赤の他人ですから 甘え方というのはわきまえる必要があります
これが少しずつでもできるようになると 他者への「自分の見せ方」が実感できるでしょう
飾らない ありのままの自分でいる そのままで相手に甘える
人としての成熟です