世代間連鎖という「絆」

「絆(きずな)」 の由来 (由来メモ)より抜粋
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絆とは、断つことの出来ないヒトとヒトとの結びつき。ほだしとのこと。(略)
「ほだし」
人の心や行動の自由を縛るもの。自由をさまたげるもの。馬の足をつなぎとめるための縄。手かせや足かせ(略)
■「絆」の由来
絆は昔、犬や馬など動物を繋ぎとめておく綱のことをいいました。古くは平安中期の辞書「和名抄」に、そういった意味で用いられています。絆はそういった離れないように繋ぎ止める綱から、人と人を離れがたくしている結びつきのことを言うようになったのだそうです。語源は「頸綱 くびつな」「騎綱 きづな」「繋綱 つなぎつな」といったようにいくつかありますが、「動物を繋ぎとめる綱」という点で一致しています。(略)
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3.11以来 使われるようになったこの「絆」という言葉ですが 由来を調べるとこんなものでした
人の心や行動の自由を縛る、妨げる…手かせ足かせ などの意味を知ると しかも古くから使われていたことを思うと 日本人の認知や行動パターンの歴史を感じるようで 何だか空恐ろしくなりました まるで機能不全家族の関係そのもの
日本人の家族は 古くから「人の心や行動の自由を」縛り 妨げてきたのでしょうか
日本人の依存性の強さ 思考停止の癖の多さは こんなところにルーツがあったのでしょうか
AC家族の絆はまさに家族のメンバーそれぞれの心や行動の自由を縛ります
夫は妻の 妻は夫の そして親は子の 子は親の心や行動の自由を縛り 奪い 支配しコントロールします
この関係が家族内だけの当事者だけのことなら それほど問題は起きません
この嗜癖が外に向かう時 家族以外の他者と関わる時 誤解や問題が生じます
家族内では当たり前に交わされていた非言語のコミュニケーションは それ以外の他者との間では通じません
家族内では普通だった「感情を言葉にしない」は それ以外の他者には「気持ちが通じない」になるのです
これがACの生きづらさの最も根本でしょう
他者とのコミュニケーションがうまく取れない理由が分からないのです
結果 自分にはコミュニケーション能力がないと 自分を責めてしまうのです
自分が悪い訳ではないのに 家族の歴史がそうさせているのに 自分を悪者にしてしまいます
AC家族の歴史に 言語でのコミュニケーションや感情の言語化などの体験や学習がないのです
それは祖父母から親へ 親から子へ 子から孫へ 綿々と続きます
こんな絆なら 断ち切ってしまった方がいいのです

感情の奥の欲求?

感情を言葉にする
さて あなたならその言葉に裏はありませんか?
私 自分の言葉に裏があるのに気づきました 今回の恋愛で
「愛しています」=だから私のことも愛して
「信じています」=だから私を裏切らないでね
例えばこんな風に
感情をそのまま言葉にしているのに その奥に違う欲求がある
前回 言葉だけが登場した裏面交流 がこれです
感情をそのまま言葉にしているのに 一体どうしたことでしょう?
意識の構造として欲求がまず先にあり その奥に感情がある というのが一般的だと思っていましたが
どうやらそうでもない 感情の奥に深い欲求が潜んでいることもあったり
感情と欲求が混沌としていたり どうやらそれはお互いに影響し合っているようなのです
感情が上で 欲求は下でもない 感情が先で 欲求が後 でもない 隣り合って蠢いているようです
ですから 欲求が感情を支配することもあるようなのです
これがいい悪いではなく 実際に人の心に立ち現れる
私の場合はこれが瞬時に判断できなくて 区別がつかなくて戸惑ったのです
裏面交流をやめるには 自分の感情と欲求への相当の注意が必要だということでしょうか
健全な人はそうではないのかしら?
理性的な感情 とでもいうものがあって(この言い方が適切なのか?)
もっと冷静に 自分の感情を眺め コントロールできているのでしょうか?
まぁ それもこれも生身の人間 生きている証なのでしょうが
厄介なものです 人の心は。。
でもね こうして自分自身とコミュニケーションを取る機会ができてのは 嬉しいことです

コミュニケーションって 大切だけど大変だ。。

カウンセリングの世界でも コミュニケーション能力をつける 高めることの大切さを言っています
確かにそれは必要 間違いのないこと
ただ それだけに終始してしまうと 思わぬ落とし穴が待っているかもしれません
コミュニケーションの片方の車輪は 自己主張
どれだけ正確に的確に 自分の言いたいことを あるいは感情を言語化できるか
これは訓練すればそこそこ能力は上がるでしょう
ボキャブラリーを増やすことが目的ではなく 相手に分かりやすく自分の感情を 意思を伝えるのです
文学的な表現が優れてはいても わかりにくければ相手には伝わりません 自己満足の言葉は相手には伝わりません
誰にでも普通に理解できる言葉こそが 最良のツールです
車輪のもう片方は相手の話を聴く力
相手の情報ではなく 感情を聴く力です
この人は一体何をどのように感じ どんな言葉で表現しようとしているのか
相手の言葉をそのままの大きさで 形で色で 自分は受け止められるのか
相手の言葉の意味を 自分で勝手に解釈して受け取っていないか
この人は二つを お互いの会話の中で瞬時にやり取りするのです
考えてみるとこれは並大抵のことではない もはや神業
そうやって眺めてみると 周りには見事なコミュニケーションを取っている人は・・・?
果たして存在するのでしょうか?
どうでもいいお喋りならば 何時間でも続きますが
これを完璧にやろうと思ったら 疲労困ぱいです
エネルギーを消耗してしまいます
自分の感情を言葉にする アサーティブ トレーニングなどと言われるものでも せいぜい5分から10分
相手の話を聴く 感情の言葉を聴く 傾聴の訓練でも 同じく5分から10分が限界でしょう
普段の何気ない会話
リラックスした状態で交わされる ごく普通の言葉
その中に織り込まれた自分の気分や感情
相手の気分 感情
それを掬い取って お互いが共感の言葉をかける
そんな会話が理想なのかもしれません そんな自分が そんな相手が理想なのかもしれません
自分の言葉 独り善がりの言葉 ではなく 相手に分かる言葉で伝える
相手の気分 感情を受け止める力を磨く
これができるためには まずは他者と向き合う前に 自分と向き合うこと
自分の本当の感情を捕まえているか 言語化できているか
そう 捕まえて言語化しようとしているものが 自分の本当の感情ではなかったりしますからね
裏面交流が得意な人は この傾向があるようです
くれぐれも 気をつけて

白か黒か All or nothing の子どもの思考

恋バナその3
大好きです 愛していますと言ったものの
お酒に誘っても応じてはもらえずランチも用事があるとNG 寂しいけど今度を楽しみにしていますと返事
上手く距離を取られた気がして 半分は諦め 半分は相手の自由を認めようと 自分の気持ちを仕向けていました
なかなか縮まらない二人の距離を諦めようとしていました
自分の中の愛したい愛されたい欲求を自分で認め 受け入れつつも
相手にはそれをどうするのか決める自由があるのだから どう求めてもどうにもならないと受け入れては打ち消して
自分の気持ちを整理して 距離を置かないと苦しくて押し潰されそうだったのです
メールが来ました
立ち上げたばかりの便利屋のチラシポスティングを手伝ってくれるという話をつけてくれたのです
前のバイトでお世話になった女性たちに話を通して 自宅の周り1000世帯以上のポスティングを引き受けてもらったと言うのです
そして 自分にもチラシを渡してくれれば配りますよ と
何という大人の対応でしょう
まさかこんなことをしてくれるとは 本当に驚きました
好きとか嫌いとかそれだけで判断しない その基準だけで行動しない 大人の対応
例えばこれがワタシならですよ そんなに好きでもない相手のために
今までモノで攻めてきた どっちかというとウザい相手のために
あぁ こいつも新しい仕事を立ち上げて一生懸命やってるんだから 助けてやるか
なんて思いませんよ あ そう 勝手にすれば 頑張ってね で終わりですよ
同時に ワタシの思考が子どもだったことに気づかされたのです
愕然 呆然 大ショック
1か0か 白か黒か 好きか嫌いか という子どもの思考
間がない 色に例えれば白か黒か しかない 間にある筈の 微妙な濃淡のグレーがない
ACの悪い癖 他者を一面的にしか見ない
自分のモノサシで他者を測る 好きか嫌いかだけで 自分にとってどうなのかだけでは相手を測る
子どもの思考のもう一つは 欲しいものはどうしても手に入れたくて駄々をこねること
オモチャが欲しくて お店の前に寝転んで手足をバタバタさせて泣きわめく
こんな子どもは今どき珍しいでしょうが 心の中はまさにそんな感じです
自分の大人気なさを恥じました
そして愛する人に 感謝と愛を伝えたのでした
あぁ この無力感。。。
でもマジメな話 こうして実体験を積みながらたくさんの気づきができるのは
本当にありがたいことです

自分の中の愛したい愛されたい

前回に引き続き自分のネタ 恋バナの続きをお楽しみください
思いをモノで表そうとするこの行動
まさかこんな場面で 顔を出すとは思ってもみなかったのですが
軽〜く自己嫌悪を感じながらここ数日を過ごしていました
何気なく自分のブログのアクセス状況を眺めると
愛したい 愛されたい
な〜んだ やっぱり
この言動の奥には 愛したい 愛されたい 欲求があったのでした
とても強い欲求 幼い頃に求めても得られなかったものでした ずいぶん時間が経った今でも それを求めているのでした
そしてさらに欲求のその奥には 家族が欲しい があったのです しかも夢に描いていた理想の健全な家族
いくら何でもそれは無理というもの 求めても叶えられないものはあるのです
行動 欲求 そして感情 この三点セットは いつでもチェックできるようにしておくと 自分を客観視するのに役立ちます
行動の奥にはどんな欲求が さらにその奥にはどんな感情があるのかが分かると うろたえずに済むようです
ACの恋愛って忙しい 相手への思いを伝える だけではすまない それだけでは片手落ち
肝心の自分の行動を眺め 欲求に気づき 感情を知ることをしないと 終わったはずのACの悪い癖が顔を出すのです
相手を支配し コントロールしようとする 自分の思いを分かって欲しい 構って欲しいが強くなる
相手は健全な他人です 少なくとも自分よりは健全 愛のある家族に育ち 普通のコミュニケーションができる
ワタシは真逆 機能不全な家族に育ち 愛を知らない コミュニケーションが取れずに育った
両者のギャップは思っていたほど小さくはない むしろ大きい 果てしなく大きい
思い出しました ワタシのカウンセリングの終結時もそうだった
自分を変えていくのか 変わらないままで生きるのか それを決めるのは自分
相手に何を求めて 相手をどう変えるかではない と気づいた
で 無償の愛
見返りを求めない愛 支配も操作(コントロール)もない愛
ワタシがいてあなたがいる ワタシはあなたが好き これだけのシンプルな愛
余分な欲求も感情もない愛 です これで行こうと決めました そして相手に伝えました
これでようやく自分が自分の欲求に巻き込まれて苦しくなることもなくなる
ACをやめる とは 自分の中のAC体験が消えることではありません
幼児期の悲しい記憶が消えてなくなることでもありません
今ここを生きている間にも それは立ち現れ過去の記憶を呼び戻そうとします これとの闘いです
いつでも どんな時でも自分を見失わないこと 自分をチェックする能力を持ち 磨くことなのでしょう
ACって 大変。。。現役さんもOBさんも

健全って どんなこと?

機能不全といわれる家族に産まれ育ったAC
では何が不全で 何が健全なのか 見ていきましょう
健全な人って どんななの?を並べていけば 自分の不全な部分に気づくでしょう
そしてこれらの不全な認知は 親からもらったもの
自分の人生にどんな影を落としているのか 感じてみましょう
そしてこの親からもらったものを手放しましょう
⚫︎ 健全な人は 他者に過剰に近づきません 他人との距離を上手に保ちます
自他の境界を分かっていて 相手の領域に踏み込まないことができます
⚫︎ 健全な人は ものごとを「これはこれ それはそれ」と分けて考えることができます
何もかもを一緒くたにして混乱させ 挙げ句の果てに放り出したりしません
⚫︎ 健全な人は 自分の思い通りにならないからといって 人間関係を遮断したりしません
他者との関係を大切に育てようとします
⚫︎ 健全な人は 他者に向けてキレたり爆発したり激昂したりしません
自分の感情を自分でコントロールできます
⚫︎ 健全な人は自分の感情や気分 そして欲求を 全て言葉にして相手に伝えることができます
自分の感情が自分で分かります ですから他者の感情を思いやったりわかろうとすることができます
仕草や表情 ため息など 非言語のメッセージは出しません
⚫︎ 健全な人は 自分以外の人に自分を分かってもらおうと 過剰な期待や努力はしません
お互いに分かり合えることはそんなには多くないことを知っています
だからこそ分かり合うための言葉の交流を大切にします
⚫︎ 健全な人は相手と対等な横並びの関係を作り コミュニケーションを取ります
相手の上に立って威圧的であったり 反対に相手の下に入り込んで卑屈な言動は取りません
⚫︎ 健全な人は自分の人生を自分の思う通りに生きようとします
決していい加減にではなく 真面目に自分の人生に向き合います
妄想や夢想ではなく 現実と真摯に向き合います
⚫︎ 健全な人は周囲の人や状況に対して 過剰な期待や欲求を持ちません
あの人は~してくれる筈だ とか ~できなかったのは◯◯のせいだ などと思いません
自分のことは全て自分で引き受けます
が 自他の境界がしっかりできていますから 他者のことを自分のこととして引き受けることはありません
⚫︎ 健全な人は自分の人生を大切にします
自分を大切にするのと同じように 相手の人生を尊重し大切にします
⚫︎ 健全な人は 他者を自分の人生の中に置こうとしたり 支配やコントロールをしたりしません
また 他者を自分のために利用したりしません
⚫︎ 健全な人は 無償の愛で生きています 条件付きの愛ではありません
〜だから好き 〜だから嫌い はありません 相手のありのままを愛します
⚫︎健全な人は 他人と争っても仲直りができます
恨みや憎しみの感情を長く引きずることはありません
⚫︎健全な人は「ありがとう」「ごめんなさい」を言葉に出して言えます
まだまだたくさんありますが どうでしょう?
あなたの周りにこんな健全な人はいるでしょうか
もしもいたら その人はあなたが生き直すための 人生の師となるでしょう
その人の認知や言動を真似る=学ぶのです
大切につき合っていきましょう

思いをモノで表わそうとする

今回はワタシ自身をネタに書きます どうぞ楽にお読みください
久しぶりに好きな人ができました
バイト先で知り合い 辞める時に連絡先を交換して
それをきっかけに お昼を食べたりお酒を飲んだり
他愛ない会話が嬉しくて ちょっとした気遣いが嬉しくて
すっかり好きになってしまいました
仕事を手伝ってもらったり バイトをお願いしたり
少しずつ距離が縮まります
ワタシ自身 カウンセリング終結後お初の体験です
コミュニケーションを取るのは大丈夫と自信たっぷりだったのに
いつでも繋がっていたくて ブリペイドケイタイを買って渡します
毎日メールができる幸せ 距離がもっと縮まる感覚が嬉しくて
藍色が好き の言葉に 似合いそうな服を選んでプレゼントし
チーズが好き と聞くとチーズケーキ ビザ用チーズを贈る
部屋を整理して出てきた革のバッグを贈る プレゼント攻勢です
メールでは ありがとう 感謝してます あなたのおかげです は言えるのです
肝心の 大好きです 愛してます が文字にならないのです
相手からのメールが一日おきになり 三日おきに 一週間おきになると もう気になって心配で仕方がない
嫌われたんじゃないか フラれたんじゃないか 居てもたってもいられなくなる
さすがに相手も重く感じたのでしょう いろいろもらってるから バッグいらない と
毎日メールしなくても大丈夫です と返事が
ここで自分の不全感に気づくのです
相手への思いが強く大きくなるほど それをモノで表わそうとする
幼児期の育ちが 親からもらった癖が露わになりました
モノを与えること=愛してるの表現 親が自分にしたことを そう学習してしまうのです
仮に大好きです 愛してますが言えたにしても それだけでは不安なのです 心配で仕方がない
自分が出した言葉を 相手が受け止める でも受け入れてくれないかもしれない と思ってしまう
あなたへの思いが大きくなるほど モノで表わそうとするするワタシもいけないのです
ウザいと感じたら 言葉にして伝えてね
これを言葉にして相手に伝えることができました やれやれ ひと安心
自分の言葉を信じて 相手に届け 相手に任せる 相手の言葉を信じて受け止めて 受け入れる
私はあなたが好き をそのままの大きさで相手に伝える 余分な感情も欲求も加えない
〜したい 〜して欲しい 溢れ出る欲求を自覚しつつも 分けて考える
人を好きになるって 素敵なことです そして大変なことです
本を読んだり人の体験を聴くより 学びの機会に溢れています

弱さを受け入れる

プライドの高さがそうさせるのか
コンプレックスを隠そうとしてか
ACは自分の弱さが大嫌いです
正確に言うと 弱い自分が大嫌い なのです
それで強くなろうとします
でもなかなか強くはなれません それでますます自分を嫌いになります
自分の中に 嫌いな自分がいる このこと自体が問題なのです
好きも嫌いも全部ひっくるめて 丸ごとの自分を好きでいる 愛する ことができないのです
どんな時でも自分だけは自分を裏切らない 自分だけは自分を愛している ができないのです
自分の中に嫌いな自分がいる限りは 簡単に自分を見捨ててしまいます
ACの見捨てられ不安は 自分を見捨ててしまう裏返し と言えるでしょう
冷静になって考えてみると 弱さは誰にでもあることで それ自体は悪いことでも責められることでもありません
幼児期のACは 残念なことにこれを悪いこと してはいけないこと として育てられたのです
弱くてはいけない 強くなれ ◯◯に負けてはいけない と育てられたのです
さて 弱いこと=いけないこと 悪いこと この価値観を捨てる訳にはいかないのでしょうか
生まれてからずっと持ち続けたこの価値観は 生きる上でとても窮屈ではないでしょうか
親からもらった価値観は 果たして同じように自分にとって大切でしょうか
不要なら 捨てても構いません 自分が自分の幸せのために生きるのです 親のためではなく
弱くていいじゃないか 何が悪いのか とワタシは思います
自分の弱さを受け入れる それがありのままの自分なら そのまま受け入れるのです
今まで強がってきた自分をやめます 肩の荷が降りる感覚を持つでしょう
強くなるために頑張る必要はないのです
自分の弱さを認めて受け入れ そんな自分を愛することが大切です

自分を信じる

ACの弱さ 自分を愛さないとともに 自分を信じないこと
自分を信じるということ自体が かなり高度なことなのですが
自分を信じることができて初めて他者を信じることができるのですが
幼児期からこの学びや体験がないので どうしていいのか分かりません
親やきょうだい 家族を信じる ことがありませんでした
自分や他の家族のメンバーに向けられた不安や恐怖で
信じる などほど遠い家族の環境だったのです
愛する 愛される が分からないと同様に 信じる も分かりません
幼児期のACは 嫌われ 捨てられたくないために 自分の命を守るために
本能的に家族のメンバーにすがりついていただけなのかもしれません
この記事を書いているワタシ自身も 信じるということが今ひとつ分かってはいません
相手や自分への期待を固定化して 思考停止になってしまうことなのでは?とも思ってしまうのです
信じる という言葉に置き換わる 適切な言葉も見つからないので どう言い換えていいのか悩むのです
幼児期の体感 体験 学習がとても重要だということです
そんな幼児期を過ごしたACが これらを取り戻すには どうすればいいのでしょうか
自分を信じる を全うさせるには 自分を裏切らない言動が必要 ということになります
それは自分の本当の感情 欲求に素直に従う ということでしょう
やりたいようにやる なりたい自分のなる 自分の思うままに生きる のです
自由奔放に生きる ことは いい加減に無責任に テキトーに生きることではありません
自分はどう生きるのか どう生きたいのか 自問自答して その答えに従うのです
自分の感情や欲求に嘘をつけば その後の自分を信じることはできません
自分と真摯に向き合うことがとても大切です

自己否定をやめる

前回同様に
椅子に ソファーにゆったりと掛けて リラックスしましょう
目を閉じて 深呼吸しましょう
心を落ち着けて 集中してみましょう
自己嫌悪ならまだしも 自己否定が強いACです
嫌悪する程度なら誰にでもある感情 感覚
ACはそれを超えて 自分を否定してしまいます
これが快復にとって最大の敵
自分を愛する感覚 これも親からもらうものです
幼児期の言葉かけ あなたを愛してるよ 好きだよ 大切に思ってるよ
この言葉 そしてスキンシップ 笑顔 で子の自己愛が育ちます
この体験 体感があまりにも希薄 ほとんどないために 自分を愛することができません
まして親からのハラスメント ネグレクト あなたなんか嫌い のメッセージ 支配とコントロール
自分を好きでいる 愛するどころか ますます自分を嫌いになります それは増幅して自己否定へ
この感情は小さい頃の子どもの潜在意識=無意識 に沈み込みます
潜在意識は 顕在意識=起きて普通に暮らしている時の意識 とは違い 普段は自覚できません
顕在意識と潜在意識の間に現れるのが夢だとされていますが
潜在意識は夢よりも認識されにくいものです
無意識に自分を否定してしまうという この悲しい感覚
無意識を意識することがとても大切になります
そんなことできるの?と思われるでしょうが
「生き辛い」「漠然とした不安 恐怖」などACが抱える感覚は感じています
この顕在意識を遡るのです そして潜在意識に辿り着きます
例えばワタシの場合 潜在意識の世界は風景として見えました
周りは色のない灰色の世界です 空も灰色
冷たい空気が満ちています ひんやりとした空気
寂しい 悲しい雰囲気です
周りには誰もいません たった一人
こんな感覚でした
色彩の感覚 温度の感覚 皮膚感覚 など身体が感じる感覚で潜在意識を感じたのです
自分の潜在意識=無意識が掴めれば
漠然とした不安や恐怖はそれほど怖いものではなくなるでしょう
潜在意識にある自己否定を 意識の上に表しましょう
意識して「自己否定をやめる」と決めるのです
自分を否定する必要など そもそもないのです
この世に生まれて 今まで生きてきた かけがえのない たった一人の「自分」なのです
誰に恥じることのない 尊重される存在なのですから
否定する必要がないどころか 否定してはいけないのです
ここにいていいんだよ
幸せになっていいんだよ
何度でも何度でも 自分に伝えましょう