無防備な赤ちゃんのように

ACアダルトチルドレンの おそらく最大の弱み
自分を守る方法を知らない ということでしょうか
タイトルの通り まるで無防備な赤ちゃんです
他者からのさまざまな攻撃から 自分を守ることができないのです
言われたら言われっ放し 相手に反論・反撃ができない
相手の攻撃をそのまま受け止め 飲み込んでしまう
咄嗟の反撃をすればいいのに あるいはその場から逃げればいいのに それもしない
じっと体も心も固く閉ざして その場に縮こまるのです
これも幼児期の学びでしょう
もちろん家族のメンバーから 父親と母親の関係から学びます
反撃すればそれ以上の暴力を受けることは目に見えています
選んだ方法が「何も言わない 何もしない」なのでしょう
そして他の家族のメンバーが手を差し伸べてくれるのをじっと待つ
これも適わないことなのですが じっと耐える
例えば家族の暴力(多くは父親)に じっと耐える人を見て学ぶのかもしれません
そしてその裏側で 相手への恨み憎しみを募らせます
こんな出来事が度重なるごとに その感情を増幅させます
何かをきっかけに その感情は爆発します
家族から学んだのは暴力 キレることです
相手の攻撃をかわしたり 言葉で反撃したり ではありません
楽しく親密な交流も 攻撃への反撃も あらゆる健全なコミュニケーションも学べないまま
他者との世界に放り出されます

親の過保護 過干渉を愛情と受け止める

ACの親もまたACです
親から愛をもらえないまま育って自分の子を育てます
愛してる という感情を言葉にしてもらっていないので
愛するとはどういうことなのか分かりません
ですから 自分が育ったように子どもを育てます
愛してるよ という言葉の代わりに 物を与えます
親の言うことを聞いたり 親の思い通りにすると OKのサインで物を与えます
心配しているよ という言葉もかけられていないので 代わりに 過保護・過干渉の世話焼きをします
子どもの代わりに身の回りのことをして 自分を満足させます
子供は失敗しながら学ぶ自由を奪われます
こうして親の支配とコントロールの下で育った子どもは 自律・自立ができません
自分は一人の人間としてここに立っている という感覚がありません
自分の人生を自分で歩く 自分で判断して自分で決める ができません
子どもは親の支配とコントロールを 愛情と受け止めます
愛してるよ と言われることはありませんから 他に受け止めるものがないのです
愛する=面倒を見る 支配・コントロールという公式を 親から受け継ぎます
子どもには 愛されているという感覚がないので 長い間空虚な 不安な時間が続きます
満たされない感覚は 長い間子どもの自立と自律を奪います

他人に評価されることでしか 自分を評価できない

ACアダルトチルドレンは自己評価が低いと書きました
自分なんかダメ 自分が悪い と自分を評価できません 自己否定の強さが過剰なのです
いい部分も持っているのに、悪い部分が勝ってしまう
いいところも悪いところも含めて 丸ごとのありのままの自分を愛する
ということができないのです
これもまた育ちのせい
親から評価されて育っていないためです
自分で自分を評価できないので 他者からの評価をとても重視します
自分が他人にどう見られているか とても気になります
自分が他人に何かをして 他人の評価を基準にするしかありません
他人に何かをして喜んでもらうことを 自分の喜び 評価にします
評価してもらった時の満足感は大きく その時は満たされるのですが
低い評価を下されると 地獄の苦しみです
そして自分を低く評価した人との関係を遮断します

時間の感覚がない 人生設計ができない

ACアダルトチルドレンの時間の感覚は独特です
インナーチャイルドの成長が止まったままですから 時間の感覚がありません
幼児期 DVなどで強い恐怖や連続するストレスにさらされると その記憶はなくなります
記憶自体を消して 「なかったこと」にしてしまおうとします これも本能的に
でないと生きていけませんから 記憶を消します
ここでインナーチャイルドの成長は止まります いつまでも子どものまま
ですから 時間は永遠にあると思い込んでいます
時として子どもっぽい言動をしてしまうのも この理由からです
時間の感覚がないということは 自分の人生の時間を認識できないこと
人生設計ができないのです
20代の後半までに〜をして 40代の前半までには〜になっていたらOK など
時間を連続して認識できません
明日のために今日はこれをやろう 何年後のために 何十年後のために ができない
ですから「なりたい自分」が見えない 「なりたい未来」が見えないのです
幼児期のトラウマが その後の人生をここまで支配してしまうのです
すべては不幸な育ちが災いします

自我の確立ができない

この世にたった一人の 他の誰でもない かけがえのない私
今 ここにいる自分 をきちんと感じられる
今ここに生きている幸せを感じられる
この感覚が 健全に育った人ならば誰でも持っている「自我」の感覚です
自分という存在を感じ それを肯定し 自分のすべてを受け入れ 愛する
自己受容 自己肯定 自己愛 自尊心ということができて 初めて人は自立・自律できます
ACアダルトチルドレンには これができません
自分のことが嫌い 自分を愛せない 自分が悪い なのです
生きてる幸せ感がとても小さい いいえ ほとんどありません
これこそがACのいわゆる「生きづらさ」の根っこともいえます
自分を感じられない 愛せない から生まれる不全感は とてつもなく大きいのです
そんな育ちをした自分を 自分のせいだと思っています
自分が悪いと責め続けます
そんな自分に育てた親のせいだ とは気づかないまま
自分が悪いのではないと気づかないまま

〜して欲しい が終わらない

自分の感情が分からない と書きましたが
ACは自分の欲求も自覚できません
相手に 〜〜して欲しい と言葉にできないのです
これも長い間自由奔放な感情を抑え続けた結果です
幼児期 親にたくさんの愛を受け たくさんのことをしてもらって子どもは育ちます
ACの場合はこれが希薄
親の愛情が希薄ですからスキンシップさえままなりません
子どもはは安心して親の胸に飛び込むことさえできません
親からのハグやスキンシップがないことは 子どもの不安や恐怖を増幅させます
険悪な家族の中では 恐怖と不安の感情があるために
子どもとして当たり前の欲求までも抑えてしまうのです
親の怒りや攻撃を避けるためには して欲しくても我慢してしまいます
親に「〜して♡」と甘えることさえ抑えるのです
例えば笑顔で抱きしめてもらえれば 簡単に満たされる といったごく原初的な欲求なのですが
この素直な欲求さえも言葉にできないのです
幼児期に この当たり前の欲求が満たされないために
成長してからも幼い欲求は満たされることを求めます

ありがとう ごめんなさい が言えない

ACアダルトチルドレンの悲しみはまだ続きます
ありがとう ごめんなさい
普通なら誰でも 物心ついた頃には言える言葉
この大切な言葉を教えられないまま ACは育ちます
これも親からの「言葉かけ」がないという理由から
その代わりに教えられるのは「すみません」
ありがとうもごめんなさいも「すみません」
本音の部分では感謝も謝罪もしたくない感情の現れが この「すみません」です
親を見てみましょう 同じように親から育てられています
自分は悪くない 自分には非はない 自分はいつも正しいと思い込んでいる親です
他者に自分の非を指摘されると 「すみません」 もしくは無言 収まらないとキレます
自分を客観視できていないことの現れだともいえます
自分の言動を客観的に眺める
一枚の風景画を眺めるように 自分を見ることができない
自分を客観視できない人は 他者も客観視できません
自尊 他尊がありません
ありがとう ごめんなさい この二つの言葉が言えないために
他者とのコミュニケーションはますます取れなくなっていきます

感情が分からない 感情を言葉にできない

ACアダルトチルドレンは自分の感情が分かりません
頭の中で自分の感情を感じ 言葉にするという一連の作業ができません
幼児期からの学習 訓練がありません
親からもらっていないのです
親からの言葉かけ「嬉しいね」「悲しかったね」「寂しかったのね」がないまま育ちます
ですから今自分がどんな気持ちなのか 言葉にできないのです
感じる ということ自体を 言葉の上でも 体験からも認知できないのです
知力や理解力はありますが
頭の中では思考と感情の区別がつきません
どれが思考でどれが感情なのか 分からない
思う=思考 で 感じる=感情という言葉の違いが分からないのです
知識も学力も普通にあるのに 感情が分からないアンバランス
こうなる原因が 親からもらっていないだけでなく 幼児期の「禁止令」です
いつ爆発するか分からない親の顔を窺いながら 本能的に自分を守る方法を選びます
感じてはいけない 自由奔放な感情の発露を表してはいけない と自分に発した禁止令
自分の感情が分からないということは 他者の感情も分からないということです
感情の交流のない会話ややり取りに 健全な人は違和感を持ちます
理解 共感が生まれない会話が続くのです
コミュニケーションの不全

他者との距離の取り方が分からない

自他の境界がない親に育てられた子ども 過保護 過干渉の中で育てられた子ども
親との愛着関係が不十分なまま大きくなった子どもは
対人関係に歪みが現れます
家族のメンバーとそれ以外の他人との違いがあやふやです
家族の間で行われる非言語コミュニケーションを
そのまま他人に向けて行おうとします
家族だから非言語でも許される 感情的になることも許されるけれど
それを赤の他人に向けても分かってもらえないして迷惑なだけ が分からないのです
ですから ある人が親しくしてくれると 相手との距離を極端に縮めてしまいます
自分のことを分かってくれるのはあなただけ とでも言わんばかりに
分かって欲しい 構って欲しい が強いのです
ただ悲しいことに 分かって欲しい思いがあっても、それを言葉にできないのです
思い込みだけが先走り 自分を言葉で表現できない
分かってもらえないのは自分の言葉が足りないから とは思いません
他人に対しては言葉でのコミュニケーションしか通じないのですが
悪いのは相手のせい とその関係を断ち切ってしまうのです
そして相手に恨み 憎しみの感情を募らせます