首塚 大須賀山探検2

大須賀山探検のつづき
「首塚」と書いた看板に促されて、木のトンネルのような坂を登ると
やや広い場所に出る。

木々が鬱蒼と生えていて暗く、昼でも街灯が点いていた。
そして正面にはさらに一段高くなった盛り土と、そこに登るための階段。

この盛り土は高さ3,4メートルで四角い形をしている。
そしてこの盛り土こそが「首塚」と言われているものだ。
1456年、上総国八幡で討ち死にした馬加康胤の首を
その日の夜に家臣が幕張へ持ち帰り、ここ大須賀山に葬ったという。
塚の上には五輪塔。

写真ではわかりにくいが結構大きい。2メートルくらいあるかも。
じつはこの塚、馬加康胤の首塚である、というのは言い伝えでしかなく、
そうと書いた文献は残って無いのだそうだ。
塚の上の五輪塔もその供養のためとのことだが、銘には「寛永」と
江戸時代の元号が彫ってあり、室町時代からそんなに時代を隔てて首塚の供養塔を
立てるとは考えづらい。

銘にある梵字は大日如来を現す。
首塚の供養塔というよりも、麓にあった大日堂と何か関係があるのではないだろうか。
この四角い塚が「首塚」でないとすると、じゃあいったい何なのか。
なぜこんな山の頂上にわざわざ土を盛って高くしたのか。
一説によると、この大須賀山は、馬加康胤も居を構えていた中世の馬加城に付属する砦で、
この塚はその砦の遺構であるという。
馬加城があったのは武石IC近くの台地の縁。
そして大須賀山があるのはかつての街道と海を見据える要衝。
そんな場所に軍事施設を何も置かなかったというほうがむしろ考えにくい気がする。
砦だとすると、他にも土塁とかそういうのが残っているかもしれないな、
と思い塚の周りをうろうろしてみたが、いまいちわからず。
周囲に盛り土っぽいものもあったけれど、草木に覆われてなんだかよくわからなかった・・・。
探検はつづく・・・。

大須賀山探検

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