検見川を歩く4 検見川送信所

検見川散歩のつづき
旧道の散策のあと、
台地に登りバス通りを渡って「検見川送信所」へ行ってみた。
きれいな住宅地に囲まれた原っぱの中心にその検見川送信所がある。

以前から一度見てみたいと思っていたのだが、ようやくかなうことができた。
日本初の国際放送を行ったこの検見川送信所。
詳しいことは「検見川送信所を知る会」のHPをどうぞ。
堅牢そうでありながらなも優雅な佇まいだ。

近くからいろいろ見てみたいが、周囲を柵で囲まれていて近づくことはできない。

望遠レンズを持ってくればよかったな・・・。
裏からみると、凹凸がなくて巨大な箱みたいだ。

給水塔好きとしては、見逃すわけにはいかない逸品。

ああ、もっと近づいて眺めたい。
一時はこの送信所を取り壊して中学校にするという計画があったそうだが、
現在は保存に向けて動き出しているとのこと。
ヨカッタヨカッタ。
検見川の散歩はこれでおしまい。
久々の街歩き、楽しかったなあ。
検見川を歩く

検見川を歩く3 旧街道つづき

検見川散歩のつづき
検見川の旧道をてくてく歩いていくと、県道に合流する。

あるお宅の軒下には網が置いてあった。
元漁師さんの家だろうか。

ふと見ると、
細いながらも、真っ直ぐに気持ちよく伸びる路地と階段が!

これは行ってみないわけにはいかない。
階段の上には小さな森と神社があった。
その階段の途中から振り返ると、こんな眺め。

かつてはここから海が目の前に見えたのだろう。
背後に迫る台地と海に挟まれた町だったのが
現在は台地と幹線道路に挟まれている。
今でも漁師町の空気を留めているのは、
何かに挟まれた町という地理的条件が、あまり変わっていないからだろうか。
順序は前後するのだが
旧道から逸れた坂道の途中、検見川公民館の目の前に
階段があったので昇ってみると、こんなものが。

銘には「岸信介」とあった。
ん?総理大臣??
何なんだこれは。
「平和之礎」の碑の前は、こんなスペースになっている。

周囲は住宅街だが、ここだけエアポケットのように何も無い空間だ。
花が一輪、ポトリと落ちていたので押さえておく。

旧道の散策はこれでおしまい。
次回は検見川送信所を。
検見川を歩く

検見川を歩く2 旧街道

検見川散歩のつづき
「検見川神社南側」の交差点から海側へカーブしながら延びる道が、
房総往還とも呼ばれる検見川の旧街道。
今回はその旧街道を、てきとーに撮り歩きます。
まずは交差点に建つ和菓子の河内屋さんで、
家族へのお土産にマロンパイを購入。

この道の曲がりっぷりがたまらない・・・。

かつての街道も、現在は国道14号と県道57号があるため
交通量はかなり少ない。
しかしそんな旧道沿いには、気になるものがいっぱい。
まずは金物屋さん。

蔵も発見!

心魅かれる路地裏。

タヌキの家族。

これは井戸だろうか?

今となっては海岸線ははるか彼方だが、
この界隈を歩くと、なんとなく海の気配を感じる。
高い建物が無く、かつて漁師町だったころと街並みがあまり変わってなくて、
しかも旧市街と埋め立ての新しい街とが
東関道によって分断されているからかも知れないな。
つづく

検見川を歩く

検見川を歩く 検見川神社にて

天気の好かった日曜日。
少し時間ができたので検見川の街をぶらりと歩いてみた。
京成の検見川駅で降りて、まず向かうのは検見川神社だ。

いきなりだけど、中沢新一の「アースダイバー」によると、
縄文時代、海に突き出た岬や半島の突端部は、
縄文人にとって異界とつながる強い霊性を持った場所で
墓地を作ったり、神様を祀って聖地にしたのだという。
そしてそういう場所には今でも古い神社やお寺が建っていることが多いのだとか。
で、検見川神社を見てみると、
それが建っているのは検見川の台地が海側にぴょこっと飛び出た場所。
縄文海進の時代にはまさに岬であっただろう場所だ。
鳥居の前の縁起書にも、
縄文時代にこの地で祭祀がおこなわれていた、とあった。
つまり、かつては東京湾に突き出ていたこの地が、古代から現代まで聖地として脈々と存在し続けているのだ。
そして未来もまた、聖地としてありつづけるのだろう。
そう思うと、ちょいとお参りするだけのつもりが
なにやら不思議な感動を覚えてしまう。
縄文から現代、そして未来までその場で目まぐるしくタイムスリップする感じだ。
(パワースポットとかスピリチュアルとか、そういうのは全然興味無いですけど。)
一人妄想にふけり、勝手に感動しながら石段を昇ると、

すぐ目の前に社殿があった。

しかし境内自体はもう現代の神社そのものなので、
縄文の遺跡などがここにあるわけもなく・・・。
よくわからない花や

カエデを撮って

神社をあとにした。
感動してたわりには、意外にあっさり神社は終了。
次回は検見川の旧街道をてくてく歩きます。
ところで、花見川をはさんで対岸の幕張にも
岬の聖地のような場所がないだろうかと考えてみたのだけど、
そうだ、大須賀山はどうだろうか。
あそこもかつては岬の突端だった場所で、地続きの台地上には
縄文遺跡もある。
そしてさらにあのただならぬ雰囲気。
どうだろう?(学術的根拠はゼロです)
検見川を歩く

柏井町の塚

ちょっと前の話ですが、
家族でイチゴ狩りをしようかと柏井町へ行った際に、不思議な塚を見つけた。

分かれ道の真ん中に、こんもりと盛られた土。
どうにも不自然。
塚は草で覆われており、中腹にはなにやら石碑がある。

近づいて石碑を見てみると、

「石尊大権現」とある。
もともと神奈川県伊勢原市の大山の神様で
富士山やそれを模した富士塚にある小御嶽神社に祀られている。
ということは、この塚は富士塚なのだろうか?
しかし塚の周囲を歩いてみたが、ほかに富士塚らしきアイテムは見つけられず。
頂上にも何も無さそうだった。
あんまり気になったので、近所のレジャー農園の方にちょっと尋ねてみたら
「むかしここから御神体が出てきた」とのこと。
え、御神体??いったい何が出てきたの?これって何なの?
と、ますます気になるところだが、それ以上の情報は得られず。
ネットでも情報は無く、地元の花見川図書館でも資料は見つけられなかった。
結局わからずじまいだが、今考えると
この塚はもともと古墳なんじゃないかという気がしないでもない。
これ自体が古墳だという情報は無かったが、しかしこの周辺に古墳が多いというのは確かなようだ。
ちなみに、ここから歩いて2,3分のところにある大杉神社には
出羽講や庚申講の碑がたくさんあって、ちょっと不思議な場所だったのだが、
その中にこんなものがあった。

仙元宮という文字の上に富士山が。
仙元=浅間、ということかな?塚と何か関係があるだろうか。
結局、謎のままなにもわからず。うーむ。

台地のきれはし

花見川の川岸、
浪花橋のすぐ近くに、台地のきれはしがあるというので見に行ってみた。
写真の左側、木の茂った小さな山がそれだ。

対岸から見るとこんな感じ。

じつはこの山、かつては検見川側の台地とひとつづきだったのだが、
花見川の開削工事によって切り離されてしまったのだ。
つまり台地のきれはしというわけ。
では開削工事前の花見川はどこを流れていたのだろう?
地図を見てみると・・・

中央の赤いしるしの場所が山のあたり。
そしてその山を迂回するように道がカーブしている。
この道がどうも怪しい・・・。
住所も対岸の浪花町が、このカーブの内側に飛び地のようにあるのも不自然だ。
実際に見ると・・・
山を迂回するように、土手から道が分かれる。

しかもこの道には暗渠があった!

やはりこの道がかつての流れの場所ということで間違いなさそうだ。
この暗渠がどこから始まっているかはちょっとわからなかった。
ちなみに切れはしの山には城の櫓の跡があるそうだ。
そっちも気になるところだが、山は立ち入り不可。残念だ。
関係ないですが、その日の夜・・・
おうちでピータン。ふふふ。

ワッペン、保育所のカラー帽子に付けちゃおうかしら。

子安神社の富士塚

畑町にある子安神社のつづき
子安神社の参道の脇
本殿に向かって右側に、お目当ての富士塚がひっそりとたたずんでいる。
これが子安神社の富士山だ!

え?
ただの盛り土だろって?
遠くから一見しただけではわかりません。
近づいてみると、頂上の真ん中の石碑に
ほら。

ね?
溶岩がゴツゴツ貼りついてて、一目見て富士塚だとわかるものも、もちろんいいのだけど
こうやって近づいてよおく見ないと、それとわからないっていうのもまた
マニア心をくすぐるというか、なんというか・・・。
しかしこりゃいったい何だろうな・・・?

頂上の右側の石碑には富士山の神様、浅間大神の文字。

灯篭には、朱色が目にまぶしい富士講のマークが

溶岩で化粧をしてないし合目石も無いから、全然富士山っぽくないけど
こりゃ確実に富士塚だな。
八幡宿の富士塚と違い、見た目のインパクトは無いけれど、
小さくてもいいから、ここに富士山を作ろう!という思いの深さを強く感じられる富士塚だ。
富士塚なのは間違いなさそうだが、問題なのはこれ。
頂上左側の石碑。

左右に大天狗、小天狗の文字があるので
小御嶽神社の碑だろうと思ったら、中央には「石尊大権現」の文字が。
帰って調べたら、この「石尊大権現」というのは
神奈川県相模原市にある大山の神社のことだそうだ。
うーむ、なぜ富士山に大山が・・・?
謎だ。
おしまい。

畑町の子安神社へ

畑町にある子安神社へ。
七年祭りにも参加する由緒正しきこの神社。
前々から行ってみたかったのだが、ようやく時間ができたので。
初めてなので、車のナビと途中で出てくる案内看板を頼りに行く。
花見川区役所周辺のきれいな住宅街を抜け、台地に上ると
風景は一気に変わり、畑が広がる。
参道から続く道は京葉道路の上を通り、一直線に南へのびる。

京葉道路を渡る橋は子安参道橋というそうだ。
境内に入ると、参道の脇に祠やら石碑がたくさん建っているのだが、
鳥居をくぐって最初にあるのがこの石仏。

馬頭観音かな?う~ん、わからん。
と、横の面を見ると庚申塔という文字が彫ってあった。
庚申信仰というのがあるそうで、それに基づいて建てられた塔だ。
庚申(かのえさる)ということで、猿をモチーフにしたものも多い。
たしかに、下のほうをよく見ると・・・
ほら。

三猿だ。
参道をもう少し進むと、今度は石碑が林立している。

この場所にある石碑のほとんどに、出羽三山の神社の名前が彫ってある。
出羽講の碑のようだ。
稲毛の浅間神社にも出羽講碑があったけれど、こんなに密集はしてなかったな。
この神社に、こんなにたくさん出羽講碑があるのは何でだろうか。
さて、参道でいろいろ気をとられてしまったが、
ようやく拝殿に到着。
子安神社は子育ての神様とのことで、子供たちのすこやかな成長を願いつつ

お参りのあと、拝殿の横の小さな道を行くと、
一番奥の塚のような場所にも社があった。

じつはこの塚は、案内看板によると「子安古墳」という古墳なのだそうだ。
古墳のお山自体が御神体だ。
古墳のすぐそばには弁財天も。

周囲が池のようになっているのは、弁財天が水と関係が深いから。
祠や石碑が多く、しかも古墳まであって
地味ながら(失礼)見どころの多い子安神社だが、
じつは、本当のお目当ては「富士塚」なのです。
それはまた次回。

空中写真と船溜跡

国土地理院のHPが楽しい。
過去に撮影された全国土の空中写真が公開されており、自分の気になる土地の
戦後から現在までの変遷がわかるのだ。
そこで、幕張船溜跡公園のある場所が、昔はどんな感じだったか見てみることにした。
前から気になっていたのだ。
幕張船溜跡公園はテニスコートや野球のグランドのある比較的大きな公園。
今では片隅にある船の形をした遊具と、地元の漁協が漁業権を返上したときに建てた石碑が
船溜の名残をとどめるのみである。


この船溜跡公園のあたりが写った戦後間もなくの空中写真をみると、
船溜として区切られているような場所は全く無い。
あるのはまっすぐに伸びる海岸のみ。
どうやら現在の国道14号のあたりが当時の海岸線だったようだ。
これが1960年代の写真になると、海岸線の形が大きく変わり
埋め立てが始まっているのがよくわかる。
その埋立地に囲まれるようにして、四角い水溜りとそこから海へ続く水路が写っており
これが船溜ではないかと思われる。
ずっと古い時代から船溜として港のような囲まれた場所があったのだろうと思っていたが
埋め立てが始まってからのことだと知って、ちょっと意外だった。
それまでは漁船はどうやって停泊していたのだろう?
内陸部とちがって幕張のあたりは空中写真でも
ダイナミックに変化しているのが良くわかるので、見ていておもしろい。
僕の家も海の底だった・・・。