幕張坂道めぐり③

つづく、といって全然続かない、
幕張の坂道を鑑賞するお散歩のつづき。
前回以上に地味な写真がたくさん出てきます。
国道14号から旧道に入って、堂の山の付け根の「茶屋坂」まで辿りついた。
しかしこの坂は思った以上に交通量が多いので、
坂の途中から脇道に入ることに。
それがこの坂。

この坂の先は静かな住宅地。
道がよくわからないままその住宅地を抜けると
堂の山の首塚に着いた。

昔はここで相撲大会なんかが開かれて、とても賑やかな場所だったとか。
首塚を後にし、またうろうろ歩くと
坂の下に道祖神社が見えた。

昼間でもうす暗くて人通りがほとんど無いけれど、
この界隈では随一の古い坂道だろう。
風情があるとまでは言えないけれど、古代の雰囲気をとどめている道だ。
そしてこれまでは海に続く坂道だったけれど、この辺りから浜田川の谷に繋がる
坂道を巡ることになる。
道祖神社の坂は暗くてちょっと怖いので降りずにそのまま進むと、
西の谷小学校が見えてくる。
小学校の前の道は坂道になっていて、「あいさつ通り」という名前もついている。

あいさつ通りから浜田川の谷に降りて少し歩くと、
浅間神社のある山に着く。

地元では二宮神社と呼ばれているようだ。
以前と比べて随分スッキリしてしまった気がするが・・・。

浅間神社の前には、幕張本郷の駅前からつづく道がある。

駅前からここまでは比較的広い道だけど、坂を降り切ると、この先は狭くて曲がりくねった、
車に厳しい幕張の旧市街。
台地に上って、今度は線路の方へ。
線路沿いに歩くと、また坂道。

坂の途中からは、暗渠になった浜田川と幕張新都心が見渡せる
なかなか気持ちの良い場所だ。

だいぶ陽も落ちて暗くなってきた。
さて、浜田川の谷は続いているから坂道はまだたくさんあるはずだけど、
徒歩でここまで来たので今回はこれでおわり。
線路の向こう側の坂道もかなり気になるところだが、それはまた涼しくなってから。
幕張坂道めぐり

幕張坂道めぐり②

幕張の坂道を見てまわる散歩のつづき。
幕張本郷のホテル街を探訪した後、
今度はPCデポの裏手にある崖の上へ。

近所の市民センターには来たことがあるけど、
崖っぷちまで来たのはこれが初めて。
すぐ近くには階段がある。

階段はUFOの坂に繋がっていた。

この階段の存在、いままで気が付かなかった。
いつも通る道なのにな。
さて、この階段は降りずに崖に沿って歩いていくと、

小さな公園がある。

そして公園の脇に、
国道へと一直線に降りていく大きな階段!

ここは夕陽と幕張西の街が見渡せる場所。

埋め立て前はこのすぐ近くが波打ち際だから、
これまたきっと良い眺めだったんだろうな。
国道から見えるこの階段です。

上からの眺めはなかなか良いけれど、それ以上に私が気に入っているのが
階段の途中から見る崖。

上からでも下からでもなく、途中から眺める崖。
コンクリートが張り付いているけど、それでもいいのです。
江戸の風情は無いし、一直線だし、
そもそも坂道でさえないけれど、この階段はなんか好きだ。
坂道めぐりと言いながら、階段のことばかり。
このあとは階段を降りて旧道を行きます。

旧道に入ると、道沿いの山側に敷地の広い立派な家が並んでいる。
昔からの農家のお宅だろうか。
そして広い敷地の家々の街並みがそろそろ終わろうかというところに
坂道がある。

ちょうど堂の山と台地の付け根の辺りだ。
坂の途中には古いお墓があるので、昔からある坂道なのだろう。
そういえば以前「幕張歴史散歩」に参加したときに
誰かがこの坂道に名前があるようなことを言っていたような・・・。

古くて名前もありそうで湾曲もしている坂道だが、
狭いうえに結構な交通量なので、あんまり鑑賞できず。
坂の途中にあった脇道に入ることにしてみた。
つづく。
幕張坂道めぐり

幕張坂道めぐり

日本坂道学会副会長のタモリによると
よい坂の条件とは
1.勾配が急である
2.湾曲している
3.まわりに江戸の風情がある
4.名前にいわれがある
とのこと。
ぼくの住む幕張にも坂道がたくさんある。
まあ、あんまり急な坂は無いし、江戸の情緒も無いけれど、
たしか曲がっている坂道くらいはあったような気がする。
ご近所の坂道を鑑賞しに出かけてみた。
まずはここ、幕張陸橋の側道からスタート。

幕張本郷の街は新しいので、この辺りの坂に風情が無いのは
いたしかたないところ。

駅までの道、自転車で一気に駆け上がるかどうか、ちょうど悩ましい
傾斜と距離の坂だ。
この坂道は崖を削って作ったのだろうか。
この坂の目玉といえば、やっぱりホテルUFO。

坂の上にはスペースシャトルもある。
日本中に風情のある坂道はたくさんあるだろうけど、
UFOとスペースシャトルがある坂道はそうは無いはずだ。
さて、しょっちゅう歩いてるこのUFOの前の通りを逸れ、坂の途中にある
この道を行くことにする。

この先はラブホテル街。幕張の秘部へと続く坂道だ。
でも湾曲している。

おお、UFOの入口にはロケットがあるという言い伝えはまことであった。

こちらも急な坂ではないけれど、
誰もいないのになんとなく気まずくて、あっというまに降り切ってしまった・・・。

西日に輝く古城

坂道の話のはずが、ホテルの写真ばっかりになってしまいましたな。
ホテル街のはずれにはトンネルがある。

せっかくなので入ってみることに。
トンネルをくぐると、その先にもトンネル。
幕張インターのど真ん中だ。

先のトンネルには住人がいたのだけど、臆せず進む。
二つ目のトンネルをくぐると、こんな感じ。

ここも坂になってる。
あらまあ、こんなところに出てしまったよ。

しかもこっち側の入口は、まるで作業員用の扉。

近所の知っている場所から入って、同じく近所の知っている場所に出たのに、
その途中を僕は今まで知らな過ぎた。
ホテルと変なトンネルの話だけで終わってしまいそうだけど、
坂道めぐりはまだ続きます。
トンネルにはこちらの坂道からもいけます。いい曲がりっぷり。

つづく

幕張歴史探訪

日曜日、幕張歴史探訪のイベントにこっそり参加させてもらいました。
いつもは一人で歩き回ってますが、
この日は30人超の参加者。
賑やかで楽しかったなあ。
で、今回とくに気になったのがこちら。

堂の山の裏手にある道祖神社の道。
案内人の鈴木さんによると、この道がかつての街道だったのだとか。
こんな山の裏になんで往来の神様がいるのかとずっと疑問に思っていたのだけど、
この道が街道ならば合点がいく。
舗装もされてないし、古代からこの雰囲気はあんまり変わってないのかも知れないね。
もうひとつ気になったもの。
首塚でみつけた観音像。

こんなところに仏像がいますよ!
と誰かに言おうと思ったら、おいてけぼりになってしまっていた・・・。
ああ。
雨に濡れてちょっと寒かったけれど、
風邪ひき地蔵にお参りしたからたぶん大丈夫。
関係者のみなさま、楽しい時間をどうもありがとうございました。
かつての散策の記録は
こちらをどうぞ
ご興味があれば

幕張 金比羅神社

県道から子守神社の方へ入ってすぐにある金比羅神社に行ってみた。
だいたいの場所は知っていたのだが、見逃してしまいそうなほど参道は細い。
自転車だったんだけど、うっかり通り過ぎるところだった。

二つ燈篭のあるところが参道入り口。
燈篭の裏には力石がある。

鳥居の先には石段。

石段を昇るとこんな景色が広がる。

金比羅神社は香川県琴平町の金比羅宮が総本宮で
海上交通の神様。
幕張が漁師町だったころは、多くの信仰を集めて
賑やかだったようだが・・・。
社殿は無く、礎石しか残っていない。

この神社自体の創建は江戸時代のようだ。
燈篭にはマルに金の紋。

参拝記念の石碑があった。

みんなで香川まで行ったんだね。
まるで遺跡をみているようで、なんとも複雑な気分。
幕張の海の埋め立てが始まって漁業権を放棄したのだって
ものすごーく昔ってわけじゃないのに、この寂れようはなんだろうか。
ふと地面に目をやると、鉄の棒が。

漁の道具かしら。
神社の寂れようは残念だが
気になるのはこの界隈の地形。
幕張は浜田川と花見川によってできた砂洲の上に作られた街なのだが
この神社の辺りだけ標高が高いのは何でだろうか。
そして石段を昇りきったところの地面にはやけに貝殻が多かった。
いくら元の海岸線がすぐ近くだったからと言って、こんなに貝があるものなのだろうか。
県道側の崖にも貝殻がたくさんあった。

写真じゃわかりづらいけど。木の根元の白いのなんかが貝殻です。
結局「なんでだろう?」ばかりで、答えは何もわからず。
テツandトモみたいだな。
おしまい

道祖神社 大須賀山探検3

大須賀山探検のつづき
首塚を後にして山の北側の住宅街を歩く。
この辺りには大きな住宅がたくさん。背後には首塚の森。
なんとなく北鎌倉の住宅地みたいな雰囲気だった。
道がよくわからないまま歩いていると、下り坂の途中に神社をみつけた。

大須賀山の北側、山の中腹だ。
地図で大須賀山のあたりを見ると、首塚の表記は無く
道祖神社とか猿田神社と書いてある。おそらくこの神社がそれであろう。
ちなみに猿田神社の「猿田彦」は複雑な神格を持ち、その中には道祖神の性格も持ち合わせているそうで、
地図によってまちまちな表記の道祖神社と猿田神社は同じとみてよさそうだ。
小さな境内には鳥居と祠がそれぞれ二つずつ。

神社自体には神様の名前などは何も書いてなかったので、いったい何が祀られているかはわからない。
二つの祠のうちのどちらかは猿田彦が祀られているのだろうけど、
残ったもう一方はいったい何なのか・・・。結局わからず。
神社の前を通って坂を下ると、薄暗い森から抜けた。
浅い谷津越しに見えるのは以前訪れた浅間神社の山。

ここから見える浅間神社の台地やその背後の上ノ台には縄文遺跡があるが、
大須賀山にも縄文初期の大道遺跡というのがあるそうだ。
縄文時代、岬の先端は人々にとって聖地であったという。
今より海水面がかなり高かったので、大須賀山や隣の浅間神社の山は
古東京湾に飛び出た、まさに岬であった場所だ。
同じように縄文時代からの聖地であった花見川対岸の検見川神社のような立派な社殿は無いが、
幕張の二つの岬もきっと縄文の人々にとって聖地であったはずだ。
これだけ住宅化が進む中、台地の先端に森が残っているってだけでもミラクルだよね。
来た道を振り返ると、そこにはまさに木のトンネルがあった。

大須賀山の探検はこれでおしまい。
ここには埋立地には無い空気が流れていた。
幕張は奥が深いな・・・・。
大須賀山探検

首塚 大須賀山探検2

大須賀山探検のつづき
「首塚」と書いた看板に促されて、木のトンネルのような坂を登ると
やや広い場所に出る。

木々が鬱蒼と生えていて暗く、昼でも街灯が点いていた。
そして正面にはさらに一段高くなった盛り土と、そこに登るための階段。

この盛り土は高さ3,4メートルで四角い形をしている。
そしてこの盛り土こそが「首塚」と言われているものだ。
1456年、上総国八幡で討ち死にした馬加康胤の首を
その日の夜に家臣が幕張へ持ち帰り、ここ大須賀山に葬ったという。
塚の上には五輪塔。

写真ではわかりにくいが結構大きい。2メートルくらいあるかも。
じつはこの塚、馬加康胤の首塚である、というのは言い伝えでしかなく、
そうと書いた文献は残って無いのだそうだ。
塚の上の五輪塔もその供養のためとのことだが、銘には「寛永」と
江戸時代の元号が彫ってあり、室町時代からそんなに時代を隔てて首塚の供養塔を
立てるとは考えづらい。

銘にある梵字は大日如来を現す。
首塚の供養塔というよりも、麓にあった大日堂と何か関係があるのではないだろうか。
この四角い塚が「首塚」でないとすると、じゃあいったい何なのか。
なぜこんな山の頂上にわざわざ土を盛って高くしたのか。
一説によると、この大須賀山は、馬加康胤も居を構えていた中世の馬加城に付属する砦で、
この塚はその砦の遺構であるという。
馬加城があったのは武石IC近くの台地の縁。
そして大須賀山があるのはかつての街道と海を見据える要衝。
そんな場所に軍事施設を何も置かなかったというほうがむしろ考えにくい気がする。
砦だとすると、他にも土塁とかそういうのが残っているかもしれないな、
と思い塚の周りをうろうろしてみたが、いまいちわからず。
周囲に盛り土っぽいものもあったけれど、草木に覆われてなんだかよくわからなかった・・・。
探検はつづく・・・。

大須賀山探検

大須賀山探検

国道14号沿いのマックの背後に立つ大須賀山、
別名堂の山に初めて登ってみた。
探検というほどのものでもないですが・・・。

かつてここ幕張に居を構えていた馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚がこの山にあるという。
旧道沿いにある山の入り口はこんな風。

今回カメラと一緒に、こんな本も持っていった。「首塚の上のアドバルーン」。図書館で借りた。

ここで言う「首塚」というのは、まさにここ大須賀山の首塚のこと。
著者の後藤明生は幕張5丁目のマンションの14階に住んでいて(カーキーズのすぐそばのマンション)
そこから見える大須賀山と首塚をモチーフにこの本を書いたのだそうだ。
作中には幕張駅の商店街とか黄色いテニス練習場(ルネサンスのこと?)なんかが出てくる。
さてこの大須賀山が別名「堂の山」と呼ばれるのは、
かつて山の中腹に大日堂が建っていたから。
1462年2月、夜毎火の玉が街中を飛び回るのに住民が驚き、
霊を鎮めるために建立したのだそうだ。
その大日堂が建っていたのは、旧道沿いの階段を昇ってすぐ左側の空き地。

老朽化のため平成13年に取り壊された。
もともとはかなり大きなお堂だったのだが、嵐で倒れてしまい、
その倒れた材木の中で使えそうなものを選んで再建したのだという。
大日堂のご本尊はもちろん大日如来で、現在は宝幢寺に移されている。
かなり大きなお堂と、市の文化財になるほどの仏像。
いくら火の玉にびっくりしたとはいえ、どちらも相当の財力がなければ
造ることはできないだろう。
幕張の街が裕福だったのか、それともかなりの有力者がいたのだろうか。
大日堂跡を過ぎ、墓地の間を行くと左に木々のトンネルと細い上り坂がある。

ここを登れば首塚に着くはずだ。(実は若干ビビッてる・・・)
つづく。
大須賀山探検

荒れ野を走る 幕張の谷をゆく4

幕張の谷を走るサイクリングのつづき。
一週間もほったらかしでしたが・・・。
パサールを過ぎると、川の両岸には盛り土が迫る。

とても幕張とは思えない風景。
盛り土の間をしばらく走ると、突然視界が広がって
台地の上の家々も見えるようになる。

家が見えると、ちょっとホッとする。
パサールからここまでの間は人も家も見えず、生活の気配を全く感じなかった。
そんな場所が幕張にあるというのが何とも不思議な感じ。
台地に上って、谷を見渡してみた。

対岸は屋敷方面。
幕張とか大久保の台地の上に縄文時代の遺跡がいくつかあるそうだ。
なんで海から離れた台地の上に縄文人は住んでいたんだろうかと
ずっと思っていたのだが、そう、この谷もその時代には海だったからなんだな。
縄文人はこの場所で、釣りとかやったんだろか。
そんなことを考えつつ、川沿いを走ると
川は再び暗渠になってしまう。

たどり着いたのは、この辺り。幕張本郷から屋敷へ抜ける道だ。

じつはこれから先、この川が姿を現すことはもう無い。
これまでは川を辿って谷底を走ったが、
これからは、地下に潜った川を探しながらのサイクリングになる。
その前にちょっと寄り道。
幕張本郷から下ってくる道を、屋敷方面へ少し上ったところにある
屋敷一丁目公園。
前を車で通るたびに石碑が見えて気になっていたので
寄り道して見てみたら、
その石碑は庚申塔だった。

大須賀山のふもとの庚申塔には青面金剛の像が彫ってあったが
こちらは文字バージョンだ。
そしてやっぱり三猿がいた。

石碑の側面には「馬加村」の文字が彫ってあった。
こうやって塔を建てるってことは、なかなか積極的に活動していたということか。
こういう信仰はいつごろまで続いていたのだろう。
それとも私が知らないだけで、地元では今でも続いているとか。
つづく。
次回はいよいよ谷の最奥へ。
幕張の谷をゆく

跨線橋を越えて 幕張の谷をゆく3

幕張の谷を走るサイクリングのつづき。
寄り道ですっかり時間を食ってしまったので、先を急ぐ。
浜田川はJRの車両基地の地下を流れている。
そしてわたしは川を追って車両基地を越えるため、宝憧寺近くの跨線橋を渡る。

ここを通るのは初めて。なんだかワクワクするな。
跨線橋からの眺めはこんなふう。

写真中央の森が前回紹介した浅間神社のお山。
その左のふたこぶの山が大須賀山だ。
ここからはパサールも見渡せる。

台地の上にマンション、斜面林、そして谷の底にパサール。
パサールのあたりは、縄文海進が終わって海水が後退したあと
潟湖になっていたそうだ。
パサールには、川をつたっていけば着くはずだ。
天気も好いし眺めもいいので、しばらくここでのんびりしたいところだが、
そうも言ってられないな。
跨線橋を降りると、再び浜田川が姿を現す。
台地の斜面には住宅地。

うむ、いよいよ谷に入ってきたな。と、ここでそう思うのはきっと私だけだろう・・・。
そこから少し走ると川は二手に分かれる。
分かれるというか、流れからすると、ここが合流地点。

右が浜田川の本流。この川の流れる谷は実籾の方まで切り込んでいる。
今回わたしが走るのは左の川。浜田川の支流だ。(川に名前はあるのだろうか?)
この川をつたって大久保方面を目指す。
今でこそコンクリートのおとなしい川だが
かつては台地を侵食して谷をつくったくらいだから、荒々しい川だったんだろうな。

川沿いから見えるのは孤高のマンション、幕張ハウス。

中世の馬加城はこのマンションの場所にあったのだとか。
京葉道路をくぐるトンネル。

お腹がすいたので、パサールでお昼ごはんを食べたいところだが
時間が無いので今回はスルー。今日は昼飯抜き!
ずんずん進むが、続きは次回。
古い航空写真はコチラ。斜面林に囲まれた谷の様子がよくわかる。
幕張の谷をゆく