習志野市にある藤崎堀込貝塚へ。
森林公園から歩いて数分。
その森林公園のある谷と、菊田川によってできた谷に挟まれた台地の上の
畑の真ん中に木の繁った場所がある。
あそこを目指して歩く。
案内看板によると、藤崎堀込貝塚は県の指定史跡で
縄文中期~後期(4千5百年前~3千年前)の集落跡。
今ではかなり内陸だが、その当時はやはり近くの谷にまで海水が入り込んで
入り江を形成していたようだ。
そんな堀込貝塚だが、べつに加曽利貝塚のように見学施設があるわけでもなく、
貝塚の断面が見られるわけでもない。貝塚は畑の下に眠っているのだ。
では何故そんなところをわざわざ見に来たかというと、
貝塚の眠る畑の上、木々の根元に富士塚があるのだ!
木の下には鳥居があって、
それをくぐると富士塚がある。
ボク石と呼ばれる溶岩がたっぷりあしらってある。
頂上の奥宮。
祠の側面の文字によると、天保4年(1833年)築造のようだ。
なかなか古い。
ここの富士塚には登山道があって、石碑などのアイテムっぽいものもあるのだが
文字は読み取れず。
これは小御嶽神社だろうか?
しかし何故この畑のど真ん中に富士塚を造ったのだろう。
普通は神社の境内に造ることが多いし、この近くに神社もあるのだが。
そして貝塚とは何か関係があるのだろうか。
富士塚を造った江戸時代の人たちは、ここの貝塚を何か意識して
この場所を選んだのだろうか?謎だ。
謎は深まるばかりだが、とりあえず帰る。
帰り際、地面を見てみると貝の欠片がたくさん落ちていたのだが、
その中にこんなものも落ちていた。
土器??
カテゴリー: 習志野市
谷の終わり 幕張の谷をゆく5
「幕張の谷をゆく」のつづき。
浜田川の支流に沿って走り
幕張から習志野市に入ると、川は暗渠になってしまう。
そしてこの先、川が姿を現すことはもうない。
これからは道路の高低差や台地の位置を見て、地下の川を探しながら谷底を走らなければならない。
暗渠になった場所からの延長線上には小学校や保育所なんかが並んでいる。
この地下を川は流れているはずだ。
こちらは保育所。
この道をつたって走ると、非常に緩やかだが徐々に上り坂になっていく。
上り坂ということは、そこはもう谷底ではないということなので
少し戻って低い場所を探しながら走る。
と言いつつ、ちょっと台地の上にのぼってみよう。
幕張と違い、習志野の谷には家がビッシリ並んでいる。
再び谷に下り、ふと目をやるとそこには緑道が。
うーむ、緑道ってところがどうも怪しい。
ひょっとしたらもともと川だった場所を緑道にしたのかも知れないな。
というわけでこっちの方向へ進むことに。(実際に走ったのは緑道よりも低い、住宅街の中の道)
そしてきれいな住宅街を抜けると、突然広々とした場所に出る。
こ、ここは?
公園のむこうには、崖に沿って家々が建っている。
ちょっと高台から。
公園は三方を崖に囲まれている。
三方が行き止まりということはそう、この公園、大久保中央公園こそが幕張から続く谷の終わりなのだ。
ここが谷の最奥。そして今回のサイクリングのゴールだ。
縄文時代にはこの場所まで海水が入り込んでいたんだな。
ゴールを迎え、思っていた以上の感動が押し寄せる。
たった2時間程度のサイクリングだったけど、地形を感じながら走ると
こんなに面白いのか。
パークゴルフ場やタコの滑り台なんかがあるこののどかな公園で
谷だなんだと変な感動にうち震えているのはきっと私だけだろう。
ちなみにタコの遊具は、この場所がかつて海の底だったのだという
習志野市からのメッセージだろう・・・。・・・ちがうか。
というわけで「幕張の谷をゆく」、おしまい。
ね。ただのサイクリングだったでしょ。
あとひとつオマケがあるのだけど、それはまた追々。
幕張の谷をゆく
旧鴇田家住宅 おかわり
再び、実籾にある旧鴇田家住宅へ。
前回訪問したときから10日しか経ってないけど・・・。
管理の方から、12月のあたまくらいに庭のカエデの紅葉が見ごろになると聞いていたので。
旧住宅は、今日もステキな佇まい。
しかし、今年はあまり寒くないせいか、
お目当てのカエデはいつもより色づきが良くないとか・・・。
とりあえず色のいいところを選んで撮影。
もちろん今回も室内を見学。
管理の方からもお話しを聞くことができた。
この家には大黒柱が無く
その代わりに梁を2本にして、重い屋根を支えているそうだ。
この家の間取りのほとんどには天井が無いのだが、
ただひとつ、「次の間」と呼ばれる客人の通される部屋にだけは天井がある。
そしてその天井の上には「武者の間」という
隠し部屋のようなものがあるそうだ。
こちらは葵の御紋のある箪笥。
鑑定によって、本当に徳川家から贈られたものだというのが分かったそうだ。(贋物が結構多いのだとか)
すごい!徳川純正品。
鷹狩りの途中に徳川将軍がこの家に立ち寄ったのだとか。
立て続けに2回訪問してしまったが、見ごたえがあって
まったく見飽きることはない。
また来よっと。
前回の記事
旧鴇田家住宅
習志野市にある旧鴇田家住宅へ。
最近なぜだか古民家がちょっとマイブーム。
そういえば実籾に見学できる古民家があるから
ちょっと行ってみよう、というわけで。
旧鴇田家住宅は、実籾本郷公園の敷地内に建っている。
この公園のある場所は谷になっていて、かつては沼地だったようだ。
その地形を活かしてかどうかはわからないが
公園内には菖蒲園とかホタル野なんかの水辺が多くて、とても良い雰囲気。
旧鴇田家住宅の生垣の前にも水路が流れている。
水路を渡って、門をくぐると目に入る旧鴇田家住宅。
非常に大きな曲屋造りの建物。
もともと御成街道沿いにあった名主の家を移築復元したものだ。
曲屋というのは、屋根を真上から見た場合にL字型になっている建物のこと。
岩手の南部地方で多く見られる造りで、関東では珍しいとか。
土間の入り口から室内に入る。
かまどがあった。
天井がなく梁がむき出しなので、室内はとても高く感じる。
囲炉裏のある部屋。
家の中央にあるのは、土間や座敷など家全体に目が行き届くようにするためかな?
こちらは座敷。
座敷から見える庭も、とてもきれいだ。
素晴らしさに興奮しながら、ひととおり室内を撮った後
外に出て再びあれこれ写真を撮っていたら、ここの管理をされている方が話しかけてきてくれて
いろいろ面白い情報を教えてくれた。
・家を解体するときは、木材に番号をふったりしてちゃんと記録を取ったのだが
庭の記録をするのを忘れてしまい、どこにどんな植木があったかイマイチわからないこと。
・成田の庭師が庭の設計をしたのだが、元は無かった水琴窟を作り
しかもその音はマイクで拾ってスピーカーで庭に流しちゃっていること。
・屋根に使う茅を確保するのは、現代では非常に困難なこと。
・霞ヶ浦にある、佐倉市の確保した茅場から茅をわけてもらったこと。
・ここまできれいに移築復元できたのは、解体する直前まで、住人の方が
大切に住まわれていたからだということ。
・解体したのはいいけど、復元する予算がつかず、しばらく木材を
袖ヶ浦の幼稚園に保管してもらっていたこと。
などなど。
茅場の話しはとくに興味深かったなあ。
他にもいろいろお話しを聞いた気がするけど、う~ん、思い出せないな。
そのおじさん、
12月のはじめには、庭のカエデが真っ赤に染まるからまたおいで、と言ってくれた。
もちろんまた来ます!
おしまい。
また行きました。
今度は広角レンズを持っていこう。
標準の単焦点レンズで撮るには、この家は大きすぎる。
香澄公園のカエデ
先日行った香澄公園にて。
休みのたびにどこかの公園でホットドッグを食べている気がする・・・。
公園内の小さな滝の近くになかなか立派なカエデの木があった。
こりゃ秋が楽しみだ。
花菖蒲はちょっとピークが過ぎちゃった感じ。
なので遠めから。
また今度写真撮りに行こっと。
谷津船溜
谷津干潟の東のはずれ、津田沼高校の裏の道に沿って
干潟から北へ延びる細い水路がある。
この水路はどこに繋がっているんだろうと、なんとなく思っていたのだが
ふと車のナビを見ると、水路の先に「谷津船溜」とあるではないか!!
船溜!!これは見に行くしかないでしょう。
で、これが谷津船溜
な~んも無い感じ。
いつごろまで現役で使われていたのかはちょっとわからなかった。
国土地理院の空中写真で見てみると、幕張の船溜と同様
周囲の埋め立てにともなってできたようだ。
空中写真1965年 1966年
水路の向こうには谷津干潟がひろがる
この谷津船溜、隣接する葦切公園を中心に整備し直そうという話しもあるようだが、
どうなることやら。
幕張の船溜はコチラ
工大の煉瓦門
JR津田沼駅の南口を出て、線路沿いを歩く
そしてすぐに見えてくる、千葉工大の煉瓦造りの立派な門。
総武線からも見えるのでいつも気になっていたのだが
この門、かつてこの地にあった陸軍第二鉄道連隊の兵舎の表門だったものが
そのまま使われているのだ。
現在、国の登録有形文化財に指定されている。
どおりで立派なわけだ。
ちょっとちがう角度から。
津田沼駅南口は、その広い陸軍駐屯地の跡地にできた新しい街なわけで、
なんとなく持て余し気味な理由もわかった気がする。
ちなみに、イオンやヨーカドーのある場所は、鉄道連隊の倉庫があったところなのだとか。
だからあんなに大きなスーパーが建てられるのか・・・。
さて、帰り道・・・、あ!電車だ。
鷺沼城址公園
以前誰だったか城好きの芸能人が言っていた。
城址公園というのは当たり外れが大きいと。
本物の城が建っているところもあれば、城址とは名ばかりで
なーんの遺構もない公園もあると。
さて、我が家から一番近い城址公園、鷺沼城址公園はどうであろうか。
場合によっては、これが僕の城好きへの道の第一歩になるかも知れない・・・。
習志野市役所の南にある鷺沼城址公園。
ハミングロード、もしくは菊田遊歩道と呼ばれる遊歩道の左側は崖になっており
その崖の上に公園はある。
なるほど、天然の要害か。
さてどこから攻め入ろうか、などと考えつつ、しばらく歩くがなかなか階段が現れず
あれ、こっちからは入れないのかしら?とちょっと不安になったところで、やや急な階段を発見。
いざ出陣!!
で、階段を昇るとこんな感じ。
なにやらいろいろありそうだ。
ひとつひとつ見ていくことにしよう。
まずはこちら。
「鷺沼源太満義諸武士之碑」
鷺沼源太というのは
1564年(永禄7年)の第2次国府台の合戦に参戦したと伝えられている。
この石碑の後ろに祠があり、そこが鷺沼源太の墓ではないかと言われているそうだ。
続いてコレ
この建物の中には古墳の石室がある。
じつはこの台地の上は古墳群になっており、そのうち二つが公園内にあるのだ。
古墳の上に城が建っていたということなのかしら?
そばには埴輪もあったりする。
申し訳ないが、ちょっと不気味だ。
これと同じ型の埴輪が出土したのかどうかは不明。
さて、戦国武将の石碑はあるものの、古墳やら埴輪やら古代のもののインパクトばかりで
どうも城跡を見ている気がまったくしない。もうちょっと何かないものか。
と思い視線を遊具に移すと、その下にはなにやら不自然な盛り土。
ひょっとしてこれが城の遺構なのか?どうなんだ?できればそうだと言ってほしい。
さっきの古墳の看板みたいに、なにか書いてあるものはないか探してみたが、全然なかった。
このあと、ぐるりと公園を一周し
城址公園ていうより古墳公園じゃないの?という悶々とした気持ちで帰宅した。
城好きへの道を踏み出すことは、今回は無かった。
梅林公園にて
久しぶりに晴れた今週の月曜日、
梅の花を撮りに習志野の梅林公園へ出かけた。
つい最近「マクスタ」で知った梅林公園。
どこか梅の名所はないものかとずっと思っていたが、
なんだ、ずいぶん近くにあるじゃないか。
しかも「梅林公園」とは、かなりストレートなお名前。
リブレの駐車場に車を停め、いざお出かけ。
住宅街の路地を抜けて、視界が開けたところに現れた梅林公園。
小さな谷のようになっていて、なんとも不思議な地形の場所だ。
風が強いし、花のピークも過ぎた感じだが、気にしない気にしない。
昔、紙切りの師匠がお客さんから「白梅と紅梅を切ってくれ」ってリクエストされて
困っちゃった、っていう話しがあったけど、何でやってたんだったかなあ・・・。
花を撮るのにだんだん飽きてきた私。
最後は梅じゃない木を撮ってた・・・。
また来年、今度は花のピークの頃に行くことにしよう。
その頃には写真は上達してるかな。
畑とインターと新都心
殉空の地の石碑を見に行ったときに撮った写真。
今は新都心とか幕張インターが見えるけど
かつてはここからは海しか見えなかったはず。
農作業の手を休めて海を眺めていると、ブロブロとグライダーが離陸していく・・・
そんな風景が当たり前のようにあったのだろう。
今では想像もつかないけど。