411・温故知新


「稽古とは 一より習ひ 十を知り
          十よりかへる もとのその一」  千利休
訳、稽古というものは、初めて一を習う時と、十まで習い元の一に戻って再び一を習う時では、人の心は全く変わっている  ものだ、十まで習ったから、これでよいと思った人の進歩はそれで止まってしまい、その真意をつかむことはできない  との教えです。
何年か前、時の総理である、小泉さんが還暦を迎えた時の心情として引用して述べたことを思い出した。
今は私もこんな年になったのですねぇ。
 特に私のように道を歩む者にとってはなおさら身に染みる言葉なのでしょう。確かに空手を学ぶ者にとっては、型の一つを覚えるとその先をどんどん覚えたがるものだが、今までをしっかりマスターしたかというと、とてもじゃないが合格とは言えない。
 型の数を自慢するのではなくてその内容を掘り下げてほしいものだが、時代が違うのであろう。ここは指導者として大きな悩みになるところである。
 また私としても、還暦を迎えて改めて振り返ると最初に習ったナイファンチ初段にしても沖縄空手でいうところのムチミやチンチクなどの言葉を考えるとまた新たな発見につながって、一人でああだこうだと研究しているんだねぇ。
 
 また、利休道歌には
 「規矩(きく)作法守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」
訳・規範、決まりごと、作法は守らなければならないが、例え破ろうとも離れようとも本質を忘れず、臨機応変にしなさ   い。規律を守り背かずに生きるのは良いが、眼前の事実を前にしてそれらを飛び越えた最良の選択を探し出しなさい。
 いやぁ、大変に難しくなってくるが、武道でいうところの「守・破・離」なのだそうである。
奥が深くなってくるとまた大変ですなぁ、ま、地道に少しずつ進もうとしましょうかね。
 
 先ほど紹介した、小泉元総理、引き際も潔かった。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」 細川ガラシャ
 戦国時代、ガラシャ夫人の辞世の句とされていますが、この和歌を引用して引退してからは表舞台に登場していない。
引退してからも、余計な発言をして身内の党にも迷惑をかけた元総理もいたが見習ってほしいものだねぇ。
私も引退するときはこのようにスパッといけるのかどうか・・・それはともかく、それまでは勉強の連続である。
 還暦を迎えて改めて思った次第である。

410、還暦

2013年7月24日、私も数多くの誕生日を迎えてきたが、今年の誕生日は還暦、60歳という大きな節目を感じ感慨ひとしおのものがある。
 何度も申し上げてきたが、昔の童謡「村の船頭さん」であったか、♪ 村の私の船頭さんは今年60のおじいさん~♪などと聞いてずいぶん元気なお爺さんだなぁ~などと当時は深く考えもしなかったが、とうとうその年になってしまったのだねえ。
 とりあえず、わが源氏の氏神鎌倉八幡宮へご報告にとさっそく出かけてきた。ここに京都の石清水八幡宮を勧請した源頼義、義家親子に報告をしたのだが今回は一人で行ったので自分で写真を撮り御覧のように私の顔だけがでっかく映ってしまった。普段であれば道行く人にお願いするのだが今回は何も考えずに自分で撮っていたね。
 ちょうど御朱印帳も途切れていたので、ここで買い求め、ついでに還暦の記入も頼もうとしたらあっさりと断られたが、無べもない。
 こういう人は余計なサービスをすると文字のバランスが崩れるのであろう、そのかわりと言っちゃぁなんだが、表紙の御朱印帳のところに私の名前を書いてくれた、上杉と名乗ると、上杉謙信の上杉ですか?と尋ねられ、私もうなづいた。
 上杉謙信公も関東管領となってここ鎌倉八幡にもお参りに来ているのである。
源氏としても上杉としても、ここには縁があるのですなぁ。
 私も、ここ鎌倉の地に空手教室を開くのが昔からの夢なのである、いつの日か・・・
お参りを終えて、今日は山越しに建長寺まで歩いてみようということで歩いた。昔の人は当然ながら軽く歩いていたのだろう、今日の私は運動靴ではないのが後になって響いた。
 建長寺では大きい山門を拝みながら、時間もないので失礼をして北鎌倉へと向かい蒲田へ戻ってきた。
25日は細君と姪っ子がお祝いということで職場近くの鶴見のビヤガーデンへ出かけ、ポロシャツをいただいたがちと小さい、このサイズに合うように痩せなさいということか・・・
 そんなわけで今年はいろんなことの詰まった年になりそうですなぁ。

409、那須岳

7月の海の日は相方も連休になるので、栃木県の那須岳に登ろうという話をすっかり忘れていてあわてて車を手配したら残りは二台しかなく、いつぞや利用したことのある赤い車にした。
 今回はクウも一緒である、それがわかったらしくて大喜びでピョンピョン飛び回る、それをなだめての出発だ。
途中休憩をはさみながら午後那須岳に着いたら風が強くて寒い、東京とは10度近くの温度差ではないかと思うくらいであった。
ロープ―ウェイも運航休止である。早めではあるが今夜のホテルへ向かった。さほど遠くないラ・ピステというゲストハウスである。
 当然ではあるが早く着きすぎた、受付は3時からであるが何と1時過ぎについたのだもんねぇ、しかし、その裏に林や、ドッグランがあって自由に使っていいようになっている。
これが結構広いときているものだから十分遊べ、また散策もできた。
あちこちのペット同伴ホテルに行っているがここはよかったねぇ。
チェックイン後はさっそくお風呂であるが、これも大浴場が貸切で満喫できた。
 到着した日が15日なので皆さんは連休最後の日で退所した後であった。今夜の泊りは私たちを含めて2組、しかし、これはこれでちと淋しいものがありますなぁ。
 今夜は冷え込むホテルのご主人も言っていた、暑い東京からこんな日もいいだろう、窓を開けて寝たがひんやりして手足が冷たくなった。
 あくる日、仕切りなおして出かけると今日は天気も良くて大勢の登山者もいる。
本格的な格好で来ればよかった、いつもの称名寺くらいの考えであった。何しろクウも含めて私は初めてである、クウは興奮してぐんぐん登って行くが私はマイペース、でないと疲れるからである。
茶臼岳を目指してみたが以外と長いことがわかりその前の避難小屋までにしようということになった。
それでもそこそこの距離である。
避難小屋では工事が始まるらしく、ヘリコプターが機材を何回も運んでいてそのたびにすごい爆音と突風であるが、貴重な見学をしたね。
降りる時も石ころが多くて足をとられそうになりながら無事に駐車場まで下りてきた。
 
 那須岳というのは那須連山のことでいくつかの山が連なっているのだね。
帰りワンちゃんと食事に寄れるところを探してペニーレインというところで食事をしたのだが、行くとビートルズの音楽が流れており、広々とした屋外に落ち着いた感じでテーブルが並べられていて素敵な感じを受けたね。ペットも可なので何組かのペット同伴が来ていたがワンコウもおとなしく脇で待っている。
 そこへ行くと我が家のワンコウはおねだりが激しくてピョンピョン、ちと恥ずかしくもあったが、ま、吠えているわけでも迷惑をかけているわけでもないのでいいか。
さっそく家に戻って相方が厳しくしつけをしていたが、私はそこまではねぇ・・・
 無駄吠えとか、迷惑をかけさえしなければいいとは思っているのだが、そこの温度差があるのだなぁ、ま、私が甘いのはわかるがこれほどまでになついてくると可愛くなるのだねぇ。
 その後は一路蒲田の我が家へ・・高速を走って順調に来たのだが、浅草あたりで気が付くと燃料ランプが点滅をしている、高速に乗る前の計算では今回は間に合うと思っていたのだが・・・焦った。
大井南で降りて近くのスタンドで給油をして本当に一安心。
 蒲田へ着いて、車の掃除をして戻してきて、これで終了である。
今回は宿がよかったこともあり、後味の良い旅行であった。
しかし、デジカメを忘れ携帯カメラで撮ったのだがうまくいったかどうか自信が無い、もっと撮りたかったので残念ではあった。

408、光明寺

6月29日(土)、鎌倉市材木座の光明寺において、内藤家供養の儀式が行われ、延友会の人達とともに計19名で参加をしてきた。
 私の地元延岡では、江戸時代、現在の福島県いわき市から内藤の殿様が転封されて幕末にいたり、現代ではいわき市と兄弟都市となっているのだという。
 そのいわき市からはバス二台に分乗して来場され前日には墓掃除をしたのだそうである。墓掃除といったって昔の殿様の墓である、一人一人がべらぼうに大きく、それが何代も続き真ん中に内藤の初代の殿様の墓、その向こうが磐城藩代々の墓、入口のほうに延岡藩代々の墓があり、これだけの人数で一日がかりの掃除なのである。
 法要には鎌倉市長も参加して行われ、壮大さにびっくりした。これは、一高校のOBが声かけて行えるものではない。いわき市からも市役所の役員が参列している、来年は延岡からもそれなりの人が出席しないと恥をかくのである。
 いわき市からは地元の「ジャンガラ踊り」を披露してくれたり、なんと延岡の「ばんば踊り」まで奉納してくれたのにはびっくり、私も2,3人の人とあわてて参加をしたのだが、ここでも忸怩たる思いであった。
 いやぁ、ほんの墓参りのつもりで参加をしたのだが、来年からは延岡出身の人を募ってもっと大々的にやらねばみっともないのである。
 幸い今回はばんば会の役員も参加したので来年はもっと大規模なものになるのであろう。
郷土愛を発揮させねばなるまい。
昼過ぎには終わり、私は稽古があるので失礼したが何人かは残って席を設けたのであろう。
 今回は色々と勉強させられたことであった。