12月22日(月)、年賀状も作り終えてほっとしてした後にパソコンが作動しなくなった。あせってガチャガチャやったがどうにもならなくて、相談した結果空手大会のパンフレットに記載してある、街のパソコン屋さんに連絡すると直せるという。この暮れの忙しいときに赤羽まで運んでお願いをしてきた。メ-カ-よりは安くなるというので正月を控えたこの時期助かるのである・
で、このブログを見てくれている人に知らせなければいけない、ということでインタ-ネットカフェなるものに入って今書いている。詳しくは漫画喫茶のほうが安いというのでここを紹介してもらったが、身分証明書がなければだめだという。
いわれてみればオウムの重要指名手配人がこの蒲田の漫画喫茶で逮捕されたものだった。なるほどね、それで厳しくなったのかね。そういうことで私も改めて出直したので今日の書き込みになったのだが、ブログではうまくできなかったのでサイトの違うこの雑記に書き込むことになり今書いているが、これも人生初体験である。
そういうことで年内には間に合うと思うのだが、しばらく休むことになります。
直り次第、すぐにお知らせします。
月別: 2014年12月
468・目黒雅叙園
細君の先生の娘さんが少壮吟士と言って数少ない財団の師範に合格したお祝いが先日ここで行われ、結構よかったそうで、今度行こうということでご相伴と相成った。
行人坂を下りたところにあり、どでかい建物でびっくりしたねぇ、建物の中に街並みを作っているくらいでただただあぜんとした。
中を一通り見まわってから食事を一階のバイキングに入った。
無難な食事で、(一応あちこちのバイキングには行っているつもりである)意外とリーズナブルな値段に驚いたね。このようなつくりだともう少しいくのかなと思っていたが、安い割にはまずまずである。また、庭園を建物のなかに作ってあるのでびっくりだねぇ。壁には豪華な描きが並んでいる。<img src="/usr/u/e/s/uesugikaikan/P1040313.JPG" alt="" title=""
トイレを見てびっくりで、このようなつくりを見たこともなく思わずカメラに収めたがこのようなトイレはみたことが無い。入り口だとは気が付かないくらいの入り口であっけにとらわれたね、ここのオーナーの気遣いが伝わってくるねぇ。
一通り見て、入口の所に百段階段がありそこで、ダウン症書家金澤翔子の作品展が開かれているそうで、チケットをいただいていたので見てみることにした。
ダウン症の子どもとの生活を母親が描きながらの書展であるが、一つ一つ見ていくうちにこのダウン症の子供の素直さとひたむきさに、またそれに対する母親の心情に涙が出てきたね。
この人は書道という天分があって開けたが、そうでない症状の人々が大半だと思う。
その症状を受け入れて向かい合って生きていうことは想像もできないくらい大変だと思う。私も時々電車の中でそんな親子を見かけるし、空手の子供でも兄弟にそのような子どもを見たこともある。なるべく自然に接しているつもりだったが、大変だねぇ。
私どもは健康というものは当然でその上に生活が成り立っているものと思いがちである。
だから好き勝手なことを言っているのだが、健康のありがたさは病気になってみて初めてわかる。
だけどこの金澤翔子という人はそれらを受け止めて純真にひたすらに生きているのが伝わってきて、涙が出てくるのは何なのだろうねぇ。
同情でもなければ自慢でもない、ただひたすらな生き方に感動を覚えたのかねぇ。
何か、私も改めて心が洗われたようなひと時であった。
帰りにはすがすががしい気持ちになって戻ってきたがこのような気持ちは記憶にない。
宗教家でもないので型ぐるしいことは言いたくないが、森羅万象に感謝、というところなのかね、貴重な一日であった。
467,2014年12月14日
このマンションに移り住んでから6年、電車の便利さもあって12月14日には毎年、泉岳寺へ参るようになった。何しろ乗り換えなしの10分で行けるのである。
この日も、朝5時に起きてワンコウの散歩を済ませ6時28分の泉岳寺行きに乗って10分で付くと、まだ、露天商の人達も準備に入る前車がようやくついたばかりの人も多かった。
その中を抜けて墓参りに行くのだが入口では上野介の首を洗ったといわれる井戸がありその前を抜けて墓へといった。
入口で線香を売っているのだが、今朝は早すぎてまだその準備もできていない。仕方がない、お参りをして手を合わせてきただけである。
で、御朱印をもらうのだがその窓口も7時からだそうで10分ほどその前で待つ。ようやく開いて、預けてまた10分ほど待って取りに行く。
そして7時20分発の泉岳寺から電車に乗って蒲田へ戻り7時半には部屋に戻って日常の生活に戻っている。
細君はそんな行動を知る由もない、いつものように8時ころに起きだしてくるのである。
そしていつもの日曜日のように9時前に出て私は戸塚教室の稽古へ向かった。
今日は、衆議院総選挙で幕張の体育館が使えず休みとなったので、戸塚で二部の稽古まで残って行い、終了後はその上の階の居酒屋で忘年会となった。
急きょの呼びかけで子供もいれて9人で行ったが昼間のビールも効いてくる。先週の全国大会の話などで盛り上がりワイワイと話したが個人の反省の話はなかったなぁ。詩吟の忘年会では必ず、一人ひとり話して回るのだが、どうも空手は話に夢中でそのまま終了となるようである。ま、それもいいか・・・。
忠臣蔵の話だが昔は忠臣の義士として、尊敬もしてお参りも欠かさなかったが年を重ねると討たれた上野介も立派な名君であったそうで、随分と見方が変わってきた。
浅野の殿様がもう少し我慢をしてやりすごしたならば、一族郎党家族のみんなにもあのような迷惑はかけなかったと思うのだねぇ。
家族の悲劇を仇討に向かわせるような芝居には最近共感を覚えないようになってきた。やはり平穏無事につつがなく過ごすことが一番の幸せのように思えるのである。
「温故知新」では昔の出来事を参考にして勉強していくのだがやはり歴史は繰り返してきているのである。それらを振り返って現代では回避すべき道を模索するのが、温故知新の活用だと思っているのだがねぇ。
12月14日、いろいろなことを勉強するのである。
466,田中屋
横浜市神奈川区にある「田中屋」,幕末の志士坂本龍馬の妻おりょうさんが勝海舟の世話により仲居として働いていたという好事家にとっては、たいへん魅力のある料理屋である。
12月11日、私どものB級グルメの会?の忘年会ということで4人で出かけた。
江戸時代の浮世絵師、安藤広重による「東海道五十三次」の中にも登場する由緒ある料理屋だそうで、ここのおかみさんが挨拶にきてとうとうと述べてくれた。
幕末には、西郷隆盛をはじめ、高杉晋作や久坂玄端、アメリカ領事館の近くの関係でハリスさんなども訪れたという、廊下にはその人たちの写真がズラリと張り出されていて感激の連続である。
私たちが通された[雪の間]はかつて、囲碁の名人戦が行われたそうで川端康成が立会人となっている写真がある。おう、ここに川端康成がたたずんでいたのか、感激の連続だねぇ。
部屋には坂本竜馬の写真があったがこのようなポーズの写真は見たことが無かった、新たな発見にここにも感激である。
歴史好き、特に幕末に興味のある人はぜひとも行くべきであろう、強く感じたねぇ。
このように幕末の人物が実際に訪れたところというのは寡聞にして知らない。ましてやこんな近くである。
感激の連続である。
入口に坂本龍馬の写真入りの酒が売られていた、ここは買わないわけにはいかないだろう。
とりあえず一本買った。
もう何年か昔になるか、四国を旅行した時坂本龍馬の生家跡にたてられたという、ホテルに泊まったことを思い出した。
おそらく、この長い雑記の第一回目ではなかったかな、桂浜の龍馬像の前で撮った写真があったはずだ。
また横須賀にあるおりょうさんの墓参りの記事も掲載している、懐かしいねぇ。
来年は仲間を募ってこなければならないだろう。
今年暮れに大変いい思い出になったようである。
465.浅草
日防連の全国大会を浅草で開くようになってから随分になるが、そのたびに準備で訪れたりしている。若いころは観光でよく来たものだった。
先ごろ高倉健さんが亡くなったがその映画の舞台ではよく浅草が出てきて隅田川という名前がよく出てきたものである。
代表的な唐獅子牡丹の歌詞でも「おぼろ月でも 隅田の水に昔ながらの濁らぬ光~♪♪」とあったはずである。
学校の帰り商業高校の近くを祝子川(ほうりがわ)が流れて降り、毎日その堤防を自転車で帰りながら空手部の仲間と歌って帰ったものだった、その当時は任侠映画全盛だったからねぇ。
浅草や隅田川というところにもあこがれたものだった。
その浅草を歩いてみるとリバーサイドスポーツセンター前の今戸神社には、沖田総司終焉の地とある、招き猫発祥の地である。
近くには待乳山聖天がありそのわきには池波正太郎生家跡があったりするなどさすが、浅草いたるところが歴史の街なのである。<img src="/usr/u/e/s/ue
sugikaikan/P1040213.JPG” alt=”” title=”” >
浅草駅で降りるとスカイツリーとアサヒビールの眺めが絶好のカメラポイントであったり、その角には神谷バーと言って、昭和の初めのエノケン時代など、最盛期を思わせる風景もある。
雷門のほうへ行くと、観光の人力車が並んでお客を待っている。
もっと進んで六区のほうまで行くと書ききれないほどの観光地が出てくるのであるが、今日はこの辺で帰ることにした。
この浅草で毎年暮れになると全国大会を開催しているのだが、誠にもって感慨深いものがある。