328、紅葉には程遠く・・

「紅葉(こうよう)に行こうよう・」・・ドン引きするようなダジャレを聞いて、ったく恥ずかしいッたらありゃしない。
10月31日、素晴らしい天候に誘われるがままに出かけた。
 どこがいいかなぁ、川崎の民家園に行ってみたいね、即決で勇んで出かけたのはよかったが、月曜日は休日の張り紙が・・しまった休日をよく確認しないのがいけなかった・・・不覚。
 せっかく来たのだから周りでも歩いて帰るか、そう話して歩き始めた。裏が枡形山で頂上が展望台になっている、一路そこを目指すことにした。
 途中民家を外から眺めながら歩きながら到着した。
ここ、枡形山はかつてここが山城であったという。源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、重臣として活躍した稲毛三郎重成がここの城主であったという。
 その後、室町時代山内上杉の討伐を狙っていた北条早雲がこの枡形上に入ったという、私の大好きな話となってきた。そして扇谷上杉と多摩川の河原で戦ったという記録もあるそうである。
ふうむ、・・兵どもが夢の跡・・・しばらく感慨にふけった。
 そういう思いで展望台から遠くを眺めれば、新宿や、スカイツリーまでもが見える。
城になるくらいのところであるから眺めがいいのであろう。ちょうどここを一回りしていい運動となってきた。
駅前で食事をしたのだが、近くに大学があるとかで学生の街らしくリーズナブルなところばかりだったね。
 そうやって戻っても夕方には間に合った。
ちょうどいい気分転換にもなって手ごろな距離である、これからもたまには来るかもしれない。
何より民家園が休日であったので、もう一度は来るだろう。
 しかし、今日はこれはこれでよかったと思う一日だった。
                   10月も今日で終わり

327、六本木教室

六本木、麻生小学校で空手を教え始めて10年近くになろうと思うが、土地柄か転校生や、習い事が多くて空手を途中でやめていく人も多くて黒帯まで続けられる人もいなかった。
 そんな中で今回、黒帯に昇段した人が一度に二人誕生した。
上杉会館のニュース欄などでも、他の教室の昇段祝いなどが掲載されているが、六本木教室でもお祝い会を開きましょうという話が出て、私は水曜日は六本木の後は大田区の馬込まで行って指導という曜日なのであるが、この日は馬込が使えず、休みということがわかっていた。
じゃぁ、10月26日、この日に稽古の後に行おうという話がまとまり、この日を迎えたのである。
 子供も参加してお祝いとなった。
小学校6年生の吉橋陸君、3歳で東麻布の福祉会館で行っていた時から入会して始めたとだという、・・どれだけのキャリアだ?
今回お母さんへ、という感謝の手紙を書いて皆さんの前で読んだが、せっかくの名文章だから、会員だよりのコーナーで取り上げようと私の提案で掲載することになったので、内容はそちらで確認してください。
 少年らしい素朴で素直な文章です。本人が大変照れていたので匿名という条件で承諾を得ました、が、写真はばっちり掲載の予定です。
 今一人は村田真さん、この姿で私より一歳しか違わないというからびっくり、しかし、年代的にもブルースリー世代、若いころは少林寺拳法を習っていたそうです。
 今は息子と一緒に来ていますが、自分が始めたくて子供はそのだしに使われているという・・・しかし、その息子も同級生とがんばっているので楽しんでいるようです、家族で続けられる、これが理想かもしれませんね。
 お祝いも,幹事から質問コーナーなど楽しく進み、私にも詩吟を一つ聞かせてください、と言われ発声練習もない中で、少年老い易く~でおなじみの朱熹作「偶成」を紹介させていただいた。
詩吟を聞いたことのない人ばかりの中で少しでも知ってもらうのにはいいかと思ったね。
 ここ、六本木教室も来年には黒帯受験を控えているお母さんもいて益々の期待がかかるところです。
それはまた来年の楽しみとして、今夜は二人のお祝いで皆さんたのしく盛り上がりました。
      改めて二人に乾杯!

326、六本木の夜

六本木には昼間の稽古で9年ほど通っているのだが、水曜日は六本木教室の後、大田区の馬込まで戻って夜の空手教室があるので、夜までいることはないので、昼と夜の顔の違いがピンとこないのである。
 「瀬里奈」ステーキの店で本店があるのである。その昔芸能界の頃、ここで食事ができるようになると一流になったと実感であるということを聞いていたが、それから・・十年。
 前を通ることはあっても入ることはなかった、もちろん入ろうと思えば入れないこともないのだが別にここでなくても蒲田でもよいしそれほどのこだわりは最近はなかったが、ま、一度くらいは・・と思っていたところ今回その機会がやってきた。
 入ってみるとなかなか荘厳ではあるが,階段が多く、バリアフリーの現代では今風ではないな、と変なところが第一の印象であった。昔はこんなところに手が入っていて豪華さを演出していたのだね。
バブルのころはこの広いフロアーが満席になっていたことだろう・・。
 案内されてそれなりのコースを注文してとりあえずはビールで乾杯。
コースで運ばれてくるのを、係りに断ってから写真に収めた。豪華でちょっとリッチな気分・・マツタケなど旬なものまで出てきて、さすがだねぇー。
 しゃぶしゃぶも出てきたが、私の地元蒲田で、定食などで食べるものとは,厚さが違ううまさが違う、やっぱり値段のほどはあるね。
 で、コースを終わるとおなか一杯になり、次に向かったのは六本木といえば有名なロアビルがあるが、その4階にあるサウナで一汗流した。
 岩盤のサウナで、以前福島県の「やわらぎの湯」に湯治に行ったことを思い出した。
 平日ともいうこともあって意外とすいていて気持ちよく入ってきた。
で、終わってからは、サウナ上りといえば、シロップたっぷりのかき氷だね、。
 かくて素敵な夜を送ることができた。
え、六本木でこれで終わりかって?
そうなんだね、健全な人はこれで終わりなのだ。

325、合宿パート3、無事に終了

3日目の午前中は、二日間のおさらいである、型を一つ覚えて帰り、組手も一回りたくましくなって帰る。
各自各様のお土産づくりである。そういう意識のない人は・・楽しんでもらえてまた空手を好きになってもらえればそれでいいか。
 朝、富士が見えているときに集合写真を撮っていたので、昼食後は流れ解散となった。
帰りの東名高速は三連休の最後の日で事故渋滞にぶつかって一時間は余分にかかった。
 
 合宿所では各自持ち場の清掃を行うのだが、来た時よりも美しく・・武道場の周りを掃き掃除してまた来年にやってきます。
 ここは食事もおいしくて、たいがいの人が太って帰る、ついつい食べ過ぎてしまうのである。
富士山のふもとで空気がおいしい、以前、六本木から参加した小学生の言葉だが、確かにそうなのである。
 
 主催者としてイベントで一番怖いのは事故なのであるが、今年も何事もなく皆さんが楽しんで帰ってもらって何よりである。
 終って家へ戻ると気持ちの張りが一気に抜けて疲れがドット出てくるのですねぇ、しばらくはのんびりしたいところである。
 それにしても当会も幹事の方やスタッフなどずいぶんと増えて、館長は大助かりです。
合宿までの準備は相変わらずだが、当日になると、皆さんが分担してよく動いてくれて私は子供たちの話し相手になっていればよい・・本当に感謝感謝です。
                    皆様、本当にご苦労様でした。

324、合宿パート2、燃えろよ燃えろ

2日目は、丸一日の稽古となり充実した一日を過ごした。特に戸塚の人は他の教室の師範に教わることにより大変勉強になったことでしょう。
 今年は幕張本郷からビッグミットを持参して一般は張り切ったぞー、組手も行うなど今年は一般の参加もあって結構な勉強になったことでしょう。
 また、幕張のHさんが「せっかくの合宿で黒帯の先生方がたくさんおられるので、ぜひ、型を拝見したい」という要望があって稽古の終盤に黒帯全員が型を披露した。
有賀師範、上杉館長も会員の前でちゃんと行ったのは記憶にないほどである、また、一つ皆さんの思い出になったのではないでしょうか。
黒帯の人もいついかなる時に頼まれるかもしれません・・・普段からの精進が大事ですねぇ。
 稽古も終わって夜は楽しいキャンプファイヤーである。大人の人がマキを組んだりリヤカーで運んだりしてくれて楽しいひと時を過ごせました、この感謝も忘れないでください。
 マキが組まれていよいよ点火、みんなで「もえろよ もえろ」の合唱であります。
その後、各教室の自己紹介や、代表による歌、蒲田では校歌のほかに陸君が「線路は続くよどこまでも」
を独唱いたしました、なかなかできることではないですよ。
 その後は、恒例のじゃんけん大会、今年はAKB48も行いましたねー(関係ないか・・)
今年の優勝者は、蒲田教室の小坂瀬那君ゲームの名前は忘れたが、じゃんけんで相当なものをゲットしたことは大変なことです。
今年は雨も降ってこないで最後まで楽しく終えて無事解散となりました。
 何人かは残って最後の火の始末と、マキの始末。誠にご苦労様でした、で、そのあとはご苦労さん会を行って無事終了。

323、2011、合宿パート1

今年も合宿の季節となり42名の参加者で富士山のふもとの青少年交流の家で行われてきた。
この場所も、毎年のことなので結構慣れてきて使い勝手もわかり安心して行えるところである。
今年は、新しいメンバーも増えて新鮮な感じもした。
 戸塚教室は相変わらず今年も多く18名の参加者である。今年は蒲田からも参加して、六本木からも一人ではあるが参加してきた。幕張本郷、川崎、生麦、の各地区からの参加者で合宿らしい交流が図れたのではないだろうか。
 今年は裏幹事のA師範が一泊ながら参加したことにより、なごみの輪が広がり初参加の若手など親近感を持ったのではないだろうか(カメラを忘れたのが残念)。
 一泊目のビンゴゲームでは、大人の参加者も多いということで、Tシャツや空手着の提供もあって、中には両方獲得した家族もありこれだけでも参加した甲斐があろうというものである。
 サッカーゲーム盤をあてたT君なんかさっそく部屋で組み立てて部屋の子供たちとゲームに興じていたなぁ。
合宿の楽しみは、みんなと同じ部屋に寝て語らうことである、特に子供たちは他の教室の生徒ともすぐに仲良しになって楽しく遊んでいた。
また、この合宿所では、朝方に宿泊者が集まって「朝の集い」を行うのだが、今回は夕方も集まって「夕べの集い」も行っている。そこで簡単なゲームをやるのだが、当会は全部出席をして、2日続けてゲームの金、銀、銅メダルを獲得したのにはびっくりした。
メダルも漫画家の松本零二デザインのちゃんとしたものであるところが価値がある。
かくて一日目が終了。

322、演歌の竜

大井町で、設計事務所を営む社長、荒井さんである。
この人も長い付き合いで、20年ほど前は、目黒の詩吟教室に行っていた頃は一緒に習い、帰りはよく途中下車をしてカラオケに行った、「演歌の竜」と異名をとるほどのカラオケ同志であった。
 詩吟をやる人はおしなべてカラオケがうまい、声量やコブシが演歌に通ずるのだろうか・・
それでお互いに張り合って歌うので順番を取るのが大変である、譲り合いの精神・・・ナ~イナイ・・この場にはなかった。
 今回何年かぶりに会って、懇親会でも隣に座り、いやぁよく話し込んだ。
今夜も久しぶりに終わったら行こう、という話だったが、どこかではぐれた。
 あの当時、お母さんのために自宅を新築した時に家庭内エレベーターを取り付けていたのだよ、びっくり。
大井町御殿というと本人が照れるので豪邸ということにしておこう。
 今、一人今回は大会会長・森川宗家を補佐する副会長として活躍をした中島さんである。この人も現役時代は誰でも知っている大手広告代理店の部長をしていたという慶応ボーイである。
我が家の近くに住んでいて、愛犬シーズーを買っていて名前が「ダグラス」そう、あのハリウッドスター、カークダグラスにちなんだそうである、まぁまぁ、大変だね。
 散歩のついでに家にお邪魔したこともあって気楽に行けるのである、最近体調を壊して心配していたがぼつぼつ復活して何よりである。
 
 このように、詩吟の仲間というものは大変にありがたく、私の人生においても大きな比重を占めているのである。
月刊空手道で「温故知新」として毎月連載させていただいているがこれも詩吟を習っていればこそである。
人との出会いが人生を豊かにさせ、大きな財産となっていく、そう思わずにはいられない。
 そうして私は空手に専念していけるのである。
ありがたきかな、ありがたきかな・・・皆さんの幸せとわが人生に乾杯!

321、生麦教室

こんどは生麦教室を開いてくれた、三浦さんの紹介である。
人生も詩吟も先輩、相方と田舎が同じで、私たちの式の時は立会人となっていただいた。
この人も、今の詩吟の会では宗家を補佐する重要な役であり、現役時代は公務員で所長をしていた人物で、なかなかの人物でもある。
詩吟の若手の会で活躍するころに一緒に動き合宿なども行うなど、それは長い付き合いであり、
 生麦の家に盆や正月など遠慮せずに訪ねては、飲んで食べてお世話になった。
今でも年末の29日には詩吟の仲間が集まって忘年会を兼ねた納吟会を行い20人近くが盛大に吟じるのである。
今回の詩吟大会でも実行副委員長として働き、大変につかれたと思うが、私どもと最後まで付き合い我が家へ初めて来てもらった。
私の幸せを身内同然に喜んでくれる数少ない一人である。

320、幕張本郷教室

私が東京蒲田で空手を教えだして22年、その1年後に幕張本郷の上ノ台小学校でも教えるようになったのだが、そのきっかけを作ってくれたのが、この御仁和田さんである。
 その前から詩吟で知り合って彼は大分出身、私は宮崎、年齢も彼はひとつ年長でよく気が合い、よく週末は幕張本郷の彼のマンションまで遊びに行ったものであった。
彼の息子と娘、隣の仲良しの子供二人を入れて、日曜日の今の時間に始めたものだった。
 日曜日の午後など誰が来るのだろう、体育館では年配の夫婦が卓球をやっていて仲良く使用していたのである。
それでも彼が会社の部下を連れてきたり、近所の小学生に声をかけたりして少しずつ増えて行った。
 和田さんも一部上場の証券会社の部長までなって、その後自分で会社を興した人なのだが、顔が広くていろんな人を連れてきた。
 それも、詩吟というものが取り持つ縁なのである、上杉が空手教室を開く、と言ってよく動いてくれた。第一回の上杉会大会では取引先の一部上場会社をスポンサーに持ってくるなど、よく動いてもらったねぇ。
今は、年に一度か二度詩吟の会で会うくらいなのだが、それでも気の置けない仲なのである。
今回は、懇親会後にカラオケに行った後強引に我が家に連れてきた。
私の相方とも昔は詩吟教室が同じでよく知っている仲なのである。
我が家に来たのはその仲間でのんびりしたねぇ。
 おかげで幕張本郷は、今では上杉会館の中でも一番の会員を誇る教室になった。
日曜日の午後なのによく集まったね、ここの井戸を掘ったのは、和田さん、あんただよ!    感謝!

319、あゝ青春

10月2日の詩吟大会の懇親会が、横浜相鉄線、天王町駅前の中華屋で行われることので、私は早めに行って、近くの洪福寺交差点へ出かけてきた。
 今から40年ほど前、私が宮崎から上京して、新横浜の運輸会社を半年でやめて、横浜市西区の洪福寺交差点にあった牛乳屋に住み込んで1年ほど働いていたところである。
東京に移り住んでからは行った記憶がないほどのところである。
 今は、ジーンズショップやマンションとなっている、が、確かにここに牛乳屋があってこの2階に住み込んで、国道沿いの交差点で、夜中に交通事故や、大型トラックが通るたびに2階まで振動が伝わってきていた。
 ここの前には横浜でも安売りの店として有名な松原商店街がありいつも賑わっていた、この日も御覧のように人で一杯である、懐かしいねぇー、一通り歩いてみた。
 この公園があったこの角に乾物屋さんがあったのだが、今は駐車場になっていたりしているがなんとなく覚えがある。
牛乳屋の裏には、映画館があってたま~に見ていた。「ライオン座」といってなかったかな、あのころは「女囚・さそり」や「御用金」であったか、東映系がよく放映されていた。
 よく行っていた銭湯があったよな、「保土ヶ谷浴場」・・・あったよ、あった、今は営業していないみたいだが、入口と煙突は今も残っている。
 あの頃はボクシングジムにもシャワーがあって風呂は節約していたが、シャワーは水シャワーだけだったので冬はさすがに銭湯に行っていた。
 懐かしいねぇ―このあたりは西区と保土ヶ谷区の境である。ほかの商店街などがあまりにも様変わりしている、時代の流れといえばそれまでなのだが、やはりそれだけの年月を経ているのだねぇー。
私も年を取るわけだぁ、そんな中で青春にタイムスリップしたひと時でありました。
こんな時間もいいもんですねぇー。