426、晩秋の称名寺

11月25日(月)お昼、曇り空ながら称名寺へ行こうかといつものことながら急に話が出て、行って来た。
横浜市金沢区まで行くのだが、京急快速電車に乗れば30分程度で行ける。
 昼の時間は電車もすいていてワンコウ連れでもゆっくりと乗車で来て簡単に行けるのである。
カレンダーによれば先月の7日以来ということなのであのころと紅葉の色具合が全然違う、むしろ今はすでに盛りを過ぎた感がある。風に落ち葉がさらさらと音を立てているようで、晩秋というよりか初冬という表現でもいいかと思うくらいである。
 でもまだまだ紅葉も残っている、ここは晩秋、と表現すべきだろう。
いつものハイキングコースを登って行き八角堂まで行くのだが今日はTシャツでもいいくらいの気温であった。さすがに頂上では風もあって少しは寒さを感じたが全般的には暖かかったほうである。
 はるかに横須賀湾猿島が見える、相方の叔父にあたる人が第二次大戦の折に横須賀から出航して帰らぬ人となった。
何も考えていなかったが、つい口づさんだのが「異国の丘」生きて帰って故郷の土を踏みたかったのだろうに、と思うと胸が詰まる、物思う秋・・・なのかねぇ。
 八角堂に目をやるときれいな花が咲いている、山茶花なのか、花にうとい私だがたまに心を奪われることもある。
これも秋というものがなせることなのかねぇ。
 元気なクウに我に返り、帰り道を戻って降りてきた。
本堂から見る風景にも秋を感じさせ、いいねぇこんな私でも見とれることがあるのである。
 そうしながら金沢文庫まで戻って一路蒲田へ。なんと2時半には戻りあたかも近所を散歩してきたかのような時間であった。
 しかし、中身は秋を十分に堪能してきた半日であった。
今、このパソコンのわきでクウがいびきを立てながら眠っている、幸せな午後のひと時である。

425、第一回 関東延商会

私の母校延岡商業高校の関東地区の同窓会をJR蒲田駅西口のプリンス会館において開催され、36名の出席を得てにぎやかに楽しく行われた。
 他の高校に比べると全然少ない会ではあるが、まずはスタート、これからである。
地元の高校、延高、西高、東校の代表の参加をいただいて、延岡から参加してくれた、副会長二人の一人浅田さんの乾杯で宴会となった。
 いつものように声をかけてよく集まってくれるのは、第5回卒業生の先輩方である。今回も10人が集まってくれた。
私の後輩にあたる22回卒業生は女性7人が声を掛け合って参加してくれて賑わったねぇ。
何と今回は現役の大学生が参加するなど大変なことである。他の高校の同窓会でもめったにないねぇ。
今回は学年別も増えての参加となったようである。
 宴も盛り上がったところで延岡の盆踊り「ばんば踊り」をかけてみんなで踊るのだが、私は今回は酔ったようで踊りを思い出すのに時間がかかったねぇ。
 そうやって盛り上がっているうちに校歌斉唱となり、西高代表の黒木さんの万歳三唱で幕となった。
その後は各々別れての二次会となったのだが私たちは役員5人で隣の居酒屋でお疲れさん会となり、もうそんなに飲めないのだがしばらく話し込んだ。
 延岡から二人は昨晩は新橋で違う友達が集まって飲み会となったようで今夜はこれでお開き。
翌日、二人を交えて私ともども3人で東京スカイツリーへと向かった。
 私は今年の春2回行っているのでスムーズに行けるかと思っていたが、予約も取れなかったほどで当日入場は10時の時点で2時間待ち。しかし、整理券をもらって後でその時間に集合すればいいのでその間、ぶらぶらしたり少し早い昼食をとったりして無駄はなかったねぇ。
 天気もいいしこの季節で眺望がいいかなと思っていたが、気温が急に上がって暖かくなったせいかかえって見通しが悪くなったようで富士山も見えなかった。
 とりあえず近辺は見えたので良しとするほかない。
降りて近くの浅草を歩いたのだが今日は結構歩くねぇ、三人とも仕事でもこんなに歩かないといって、まさしく浅草にふさわしい喫茶店でしばし休憩。
 水上バスに乗ろうと言ったら、天気のいい日曜日1時間待ちということでここはあきらめた。
乗り場前で昔風の格好をした青年が歌を歌っていたなぁ。
 浅草らしい、のどかな光景である。
一度我が家に戻ってお茶を飲んで羽田へと向かったが、あわただしい二泊三日であったであろう。
 しかし、第一回目の関東地区の同窓会に九州延岡から駆け付けてくれた副会長二人に感謝である。
私にとっても大きな今年の節目であった。
 反省は後日としてとりあえず無事に終わったということで良しとしたい、どっと疲れが出たがこれもまた気持ちのいいものである。

424・延岡観光

一夜明けて、延岡の観光を知っておこうという兄の計らいで少し観光をした。
鮎やなと言って延岡では昔からあるアユ漁で、全国でもやなをかけてとるところは珍しいのだそうである。大瀬大橋たもとに立派なやながかけてあり観光客も来れるようにしてある。
 もっと宣伝をして観光バスで来てもらえるようになるといいねぇ、広い駐車場もあるし、このやなでとれた鮎を出すところも用意されている。
これは一見の価値があろうというものである。
 そしてお昼は、今やチキン南蛮料理発祥の地として有名な「直ちゃん」に寄ってみた、いつもは大変並ぶところだそうだが今日は3,4人しかおらずすぐに入れて運がいいほうなのだそうである。ここも私は全然知らないのだが名前だけは聞いていた。入って名物のチキン南蛮を食べてみたのだが確かにうまい、これでは人が並ぼうというものである。
 その後、直ぐ近くの今山へ上がってみたが、これこそ何十年ぶりであろうか。高校時代はこの麓の道路を毎日三年間通ったものである。しかし、当時でも上がった記憶はない。
ここで4月に行われる「今山大師祭り」は春の九州三大祭と言われているそうである。
 私も小さいころ父に連れられてきたことがあった。当時はお祭りというと傷痍軍人が白装束でアコーデオンで軍歌をひいていたりして気味が悪かったのを覚えている。
 すぐ近くの延岡駅から今日は出発なので、駅前にもいってみた。ここも大改造されるのだそうだ。
私がいたころとはずいぶんと違う、これも時の流れかねぇ。
戻る前に入院をしている母のもとへとりあえず今回の報告をしてから帰路についたが、私の人生、なかなかクウと散歩ざんまいというわけにはいかないようである。
 与えられたことを一つ一つこなしてこれからも暮らしていこうかね。

423、のべおか観光大使

なんとこの私がこのたび「のべおか観光大使」に委嘱されその任命式に帰延することになった。
11月8日、観光大使第1号に委嘱された高山さんが東京から経営者とともに延岡へ行きレセプションがあるので、その席で3人が新たに任命されその一人が私というわけである。
 会場は9月に延商の同窓会で出席してきたところである。
早めについたので準備中の若鮎レディと写真に納まったり、兄も招待されていたので一緒に納まったりして本番を待った。
 すごいねぇ、市長をはじめ商工会議所の重鎮らが勢ぞろいした感じで延岡の経営者の皆さんが200人近くも集まりそれはそれは壮観であった。
 その中で新たな観光大使3名が紹介され、また挨拶もさせていただき、私もマイクを握って挨拶もし、委嘱状と楯をいただいた。いつもは大会などで手渡す立場なのだが今夜はありがたく頂戴した。
その後宴会に入ると次から次へとあいさつをされて余分に持って行った名刺が初めてたりなくなった。
 これには焦ったねぇ、それで急きょ関東延商会の名刺を持っていたのでそれでその場をしのいだ。さすがにこれだけの反響といおうか、忙しいとは思わなんだなぁ慣れないこととはいえ読みが浅かった。
 新しい大使3人はごく一般の人なので、空手家は私一人で、終わりに演武をやってほしいと言われた。快く引き受けたのはいいが、最後ということは食べるのはともかく飲めないということである。皆さんがお祝いで次々にビールを持ってくるのにうまくごまかすしかない。
 早めに準備をしてマイクの裏でスタンバイ、いよいよ出番が来て司会者が紹介をしてくれる。
宴台に上がって演じたのは沖縄首里手では代表的なナイファンチ初段である。この型は全世界でも通じる型である。
まさに、・・・十よりかえるもとのその一・・・である。
 力強く演じ、しばらくマイクを持って場をつくろって呼吸を整え、今回の受賞につながった詩吟の縁を話しながら、腕に付けている「毘」のワッペンの説明をしながら、上杉謙信といえば「川中島」一つ吟じさせていただきます、ということで吟じたねぇ
 鞭性粛々 夜河を渡る~今夜は声の調子も絶好調!拍手喝采、最高の気分であった。
 最後に万歳三唱で締めくくったのだが、正直演武のおかげであまり食べていないのである。
 そしたら全然知らないのだが商業高校の先輩にあたる人が、ちょっと付き合ってくれということで繰り出した。
こういう場で商業高校卒業の人が紹介されたのが大変うれしいといって喜んでくれた。私もその気持ちはわかるので喜んでお付き合いをしたのだが、延岡の飲み屋街も金曜日のせいもあってか結構にぎわっているではないか。
 二軒ほどお付き合いをして実家に戻ってきたのだが、一空手家がこういう席で壇上に上がるなど大変うれしいことである。
 さっそく翌日の地元新聞では掲載され知り合いからメールや電話をいただいた。
 これも月刊空手道「温故知新」で4年も掲載され、また詩吟の友人がこれを強く推薦してくれたおかげである。
 皆さんとの縁に結ばれて生きている、否、生かされている、まさに感謝、感謝の一言である。