503/12月14日

蒲田にいるときは朝6時に家を出て7時開始の泉岳寺に着いて、御朱印を一番先に並んで書いてもらっていた。
そのころは警備の警官たちも着始めたころでまだ準備にも取り掛かっていなく、出店の人たちもようやく到着するというような時間であった。
 当然墓参りもほとんど人がいなくて、10分もあれば一回りして、8時には蒲田に戻り連続テレビ小説を見ていたものだった。
鶴見に引っ越ししてきて、蒲田で快特に乗り換えるなどの時間を考慮すると30分はかかる。
それに今年はいいかな、と思っていたら細君が休みで昼に時間が取れるようなことを言っていたので、そのころに行くか、ということで行ってきた。
 ある程度の予測はしていたが案の定、というところか人が混んでいたねぇ、線香を買って並んだのはいいがこの分だと一時間は優にかかる。お参りをしたということで手を合わせ本堂に参り、それでよし、とした。

 この日ばかりはこの泉岳寺は正月以上の混雑ではないだろうか。夜はこんなものではないのである。
もう、40年も前になるだろうが、夜に友人と来て線香の煙がむせぶ中を並び、一張羅のジャンバーを誰だかわからないが線香で焦がされていた。それ以来夜はいかないことにしていたのだが、昼間は何年か前に行ったことがあったね。
 しかし昼間の混雑はまぁまぁというところかな。出店も並んでいるので甘酒を飲んだり、イカを食べてみたり縁日を楽しんだねぇ。
今年は二人なので写真も十分にとった。
 御朱印も朝一番はまだ若手の人が書くのだろう、昨年のと比べれば一目瞭然である。
今年はしっかりと書いてあってありがたい感じがなおさらしようというものである。

 12月の定番である忠臣蔵も視点を変えてみると、必ずしもいいものだとは思えないくなったねぇ、確かにその功績は立派なのだが家族にとっては、平凡で幸せに過ごしたのが一番だっただろうと思うのである。
 以前にも書いたが浅野の殿様がもう少し分別のある人であったならば、歴史には残らなくともその家中は平凡に幸せに終わったのではないかねぇ。
 私の生活を顧みると平凡な毎日であるが、これが大変ありがたくこれで十分幸せなのである。
若いころは、忠臣蔵など大好きであったしこれぞ武士の本懐、などと思ってもいたが、年のせいなのかもしれない。血気盛んなころとはずいぶん変わってきた。
 しかし、今日は、時代にほんろうされながらも意志を貫いた義士の方たちの冥福を祈ろう。
 

502,大楠山

 大会も終わってひと段落のついた12月7日(月)、天候もよく細君の休日でもあり、大楠山へ出かけようという話になりワンコウは大喜び、出かけた。
 私は何年ぶりになるであろうか、横須賀にあって標高241,3メートルなのだそうだがだらだらと歩き続けるようで私は先週の称名寺がちょうどいいと思っているのだが、細君の希望である。これも「オス」の精神なのかねぇ。
 平日で人が少なくて歩きやすくワンコウも大喜びである。

途中では晩秋の風情を味わいながら登って行くのだが今年も終わりだねぇ。
 1年の振り返りはまた後にするとして、上りながら先日の松田さんや、長年の東京から横浜への引っ越しなどを思いながら忘れられない年になったなぁ。
 
 ようやく頂上にたどり着くと天気はいいが遠くはかすんでいて富士山も見えなかった。持ってきたおにぎりをほおばるのだが何気ないのが幸せなひと時でもある。
くだりは早い、この分では昼過ぎに自宅に戻れるようなので、降りて立石海岸の駐車場に車を止めて砂浜を散策したり、海を眺めたり・・
 ここで一吟・・イヤイヤ、少ないながらも人もいれば駐車場の下である。

よくホテルなどに行くと、高歌放吟はご遠慮ください、なんて書いてあるのだが、その通りで、迷惑この上ない。私も十分認識しているつもりだ。
 だけど人間、海に向かうと叫んでみたくなるのだねぇ、昔の青春ドラマの定番だね。
そこで休憩をして途中農家の自家製野菜の直売所で三浦野菜を買いためて戻ってきた。
 
鶴見駅の手前に、マックのドライブスルーというのがあって車に乗ったままマクドナルドハンバーガーが買えるのだそうである。言われるままに運転したが、なんとまぁ、便利なものがあるものよ。
 話には聞いていても実際となると一人では来れないし来る気もない。
で、これが遅い昼食になった。
 なんだかなぁー。最近亡くなった男優さんの口癖だったそうだが、そう思ったねぇ。
いろんな意味でリフレッシュとなった日中であった。

501,私は忘れない

大会前の土曜日、11月28日(土)、川崎教室の稽古にいつものように出かけ、早めに来た松田さんと子供の進路などの話をして稽古に入り、基本では子供の指導で離れて指導をしていてそのうちにめまいがするそうで座り込んで、体育館の隅に移動をして横になって休んでいた。
 私も以前にも調子が悪くて隅で横になったこともあったので、仕事で疲れているだろう、くらいにしか思っていなかった。休憩になって横になっていた松田さんに「大丈夫?」と声をかけたのだが無反応でそのうちにいびきをかきだしたので、あわてて救急車の手配をして、大人の人は道路に出て救急車の案内をするなどした。
奥様にも連絡をしてきてもらったのだがその時までは脳梗塞かもしれないが手配も早かったので手術になって後遺症が残るかもしれない、とそのくらいにしか考えていなかった。
 次の日が日曜日なので幕張の稽古が終わって戻り見舞いに行こうかと考えていたのだが、夕方、電話があってそのまま亡くなったという知らせを受けた時は全然信じられなくて、戻っても病院でバタバタして迷惑になると思いその後の連絡を待った。
 その後、通夜が火曜日で、葬式が水曜日という連絡が入り、火曜日の夜、通夜に出かけたのだが、つい3日前まで話し込んでいたので信じられず花に囲まれた遺影を見てもまだ半信半疑で家族のみんなもそうだと思うし、奥さんの挨拶にも未だ現実が理解できないようなことも言っていた。
 次の日葬式の時、カメラマンらしく海外の写真の展示がしてあったがその真ん中に黒帯とともに空手着が置いてあり、お別れのとき棺の中に空手着もおさめられ、私は花とともにその空手着をそっと撫でてやった。

 現実なんだねぇ・・・泣けた。家族の子供たちが我慢しているのにここで泣くわけにはいかないが隅に行って改めて泣けた。こんなことがあるのだねぇ。
 
 思えば平成18年、幼児だった長男とともに入会をして、その後二男、三男と入会をして親子4人で稽古に通ってきていた。
 その当時の川崎教室は大勢の会員もいたが、川崎という土地柄か個性の強い人が多くて、2度、3度と離散を繰り返した。
当然彼も誘いを受けただろう、しかし、そんなことはおくびにも出さず粛々と稽古に通い、黒帯となって子供の指導員として私が休む時は進んで面倒を見てくれた。
 子供たちが大きくなるにつれ、一人だけの参加も多くなったがそれでも来てくれて子供の面倒を見てくれ私もずいぶん助けられて感謝をしたものだった。
 稽古ではミットを2つ持って子供一人一人を相手に一緒に動いては疲れたぁ、と言っては満足そうな顔をしていた。
合宿では自宅の車で子供たちを搬送するなどよくやってくれた。
 11月に我が家で引っ越し祝いをしたときは、ティラミスのケーキをおいしそうにほおばっていたねぇ。


思い出にはきりがないが、本人が一番実感がないのではないかねぇ。
空手の稽古中に気分が悪くなって横になってそのまま眠りにつき目が覚めないまま天国へ旅たった。
 今頃は天国で目が覚めて、俺は空手の稽古をしていたのに何でここにいるんだ?と思いながらキョロキョロしているのではないのかねぇ。
下界への降り口を見つけたならば、いつでもいいから降りてきてよ、待ってるよ松田さん。