大会前の土曜日、11月28日(土)、川崎教室の稽古にいつものように出かけ、早めに来た松田さんと子供の進路などの話をして稽古に入り、基本では子供の指導で離れて指導をしていてそのうちにめまいがするそうで座り込んで、体育館の隅に移動をして横になって休んでいた。
私も以前にも調子が悪くて隅で横になったこともあったので、仕事で疲れているだろう、くらいにしか思っていなかった。休憩になって横になっていた松田さんに「大丈夫?」と声をかけたのだが無反応でそのうちにいびきをかきだしたので、あわてて救急車の手配をして、大人の人は道路に出て救急車の案内をするなどした。
奥様にも連絡をしてきてもらったのだがその時までは脳梗塞かもしれないが手配も早かったので手術になって後遺症が残るかもしれない、とそのくらいにしか考えていなかった。
次の日が日曜日なので幕張の稽古が終わって戻り見舞いに行こうかと考えていたのだが、夕方、電話があってそのまま亡くなったという知らせを受けた時は全然信じられなくて、戻っても病院でバタバタして迷惑になると思いその後の連絡を待った。
その後、通夜が火曜日で、葬式が水曜日という連絡が入り、火曜日の夜、通夜に出かけたのだが、つい3日前まで話し込んでいたので信じられず花に囲まれた遺影を見てもまだ半信半疑で家族のみんなもそうだと思うし、奥さんの挨拶にも未だ現実が理解できないようなことも言っていた。
次の日葬式の時、カメラマンらしく海外の写真の展示がしてあったがその真ん中に黒帯とともに空手着が置いてあり、お別れのとき棺の中に空手着もおさめられ、私は花とともにその空手着をそっと撫でてやった。
現実なんだねぇ・・・泣けた。家族の子供たちが我慢しているのにここで泣くわけにはいかないが隅に行って改めて泣けた。こんなことがあるのだねぇ。
思えば平成18年、幼児だった長男とともに入会をして、その後二男、三男と入会をして親子4人で稽古に通ってきていた。
その当時の川崎教室は大勢の会員もいたが、川崎という土地柄か個性の強い人が多くて、2度、3度と離散を繰り返した。
当然彼も誘いを受けただろう、しかし、そんなことはおくびにも出さず粛々と稽古に通い、黒帯となって子供の指導員として私が休む時は進んで面倒を見てくれた。
子供たちが大きくなるにつれ、一人だけの参加も多くなったがそれでも来てくれて子供の面倒を見てくれ私もずいぶん助けられて感謝をしたものだった。
稽古ではミットを2つ持って子供一人一人を相手に一緒に動いては疲れたぁ、と言っては満足そうな顔をしていた。
合宿では自宅の車で子供たちを搬送するなどよくやってくれた。
11月に我が家で引っ越し祝いをしたときは、ティラミスのケーキをおいしそうにほおばっていたねぇ。
思い出にはきりがないが、本人が一番実感がないのではないかねぇ。
空手の稽古中に気分が悪くなって横になってそのまま眠りにつき目が覚めないまま天国へ旅たった。
今頃は天国で目が覚めて、俺は空手の稽古をしていたのに何でここにいるんだ?と思いながらキョロキョロしているのではないのかねぇ。
下界への降り口を見つけたならば、いつでもいいから降りてきてよ、待ってるよ松田さん。