457,牀前 月光を看る(しょうぜん げっこうをみる)

牀前 月光を看る疑うらくは是地上の霜かと
(しょうぜんげっこうをみる うたごうらくはこれちじょうのしもかと)
頭を挙げては山月を望み 頭を低れては 故郷を思う
(こうべをあげてはさんげつをのぞみこうべをたれては故郷を思う)
私の大好きな李白の詩「静夜思」であるが、秋の静かな夜更け寝床の前に月の光が差し込んでいる。あまりにも白いので、地上に降りた霜かと疑ったほどであった。
 光をたどって頭をあげてみると山の端に名月がかかっている。
その名月を眺めるうち、故郷のことがふと思い起こされ、知らず知らず首をうなだれて知らず知らず望郷の念に浸ったことである。
 何という名詩であろうか、私のような凡人にとってこのような詩に触れることによってその思いに共感を覚えるのだねぇ。

 今の時間か・・10月8日(水)、午前4時半、なんという時間に書きこむのであろうか・・
寝る時に少し暑いので窓を開けて寝るのだが、まさに秋の夜更け・つい目が覚めると光が私の部屋に差し込んでいてふと外へ目をやると月の光が輝いていた。
 思わずベランダに出てカメラを向けてこの満月を撮ったのだが、このような時にいつも思い出すのは李白のこの「静夜思」なのである。
 私が詩吟を習いたての頃、蒲田は蒲田でもその当時は西蒲田のひなびた6畳の部屋で仕出し弁当やでアルバイトをしながら暮らしていた頃だったであろう。
 当時は故郷を後にしてまだ3,4年、望郷の念も強いころであった。あの当時を思い出すねぇ。
若かりし頃の上杉は今の私をどのように想像していたのかねぇ、夢をかなえた、とまではいかないが今が幸せにして暮らしているならばそれでいいではないだろうか。
 相方がいてワンコウがいて、ちびっ子を相手に毎日空手を楽しみ、平凡ながらも幸せな毎日を過ごしている。
平凡、平凡、というとあまりにも夢の無いように聞こえるかもしれないが、「平凡な人生を送ることがすなわち非凡なのである」と聞いたことがある。
 また平凡と簡単に言うが、人生平凡に過ごせる人はそうはいないと思うね、生きているといろんな災害や事件や事故などに巻き込まれることが普通なのである。気を付けていても病気になることもある。
 
 ベランダに出てしばらく椅子に腰かけて月を眺めていると李白は流浪のはてに苦労したんだよねぇ、しかしその中で、「月下独酌」などまたまた素晴らしい詩を作っている。月と自分とそして自分の影とが楽しく舞い遊ぶという、とても私らの発想の及ぶところではない。
 しかし、こうやっていると西暦700年代に活躍した李白と1300年の時空を超えて友達になれそうな・・李白さんあなたの時代はそれはもう大変だったんでしょうねぇ。
 
そんな思いに浸っていると、狭い我が家、細君から安眠妨害だ、と苦情を言われかねない。「あなたも詩吟をたしなんでいるから出てきて眺めたらどうですか」「私は水曜日から仕事が始まるんです!」何かそんな返事が返ってきそうな・・
心の中での会話である。
 そうこうしているうちに5時を回った。そろそろワンコウを起こして少し早目の散歩に出かけるかね。
また、現実が始まった。
文中の写真が月ばっかりというのも例がないが、これが名月なのである。

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