妙見島をゆく 浦安探訪6

浦安探訪最終回。
浦安橋を歩いて、妙見島に上陸する。
妙見島というのは、旧江戸川に浮かぶ南北の幅約700m、東西の幅約200mの
細長い島だ。
住所でいえば東京都江戸川区東葛西。
東西線の浦安駅から歩いて7分くらいで島に着く。

浦安も対岸の葛西も住宅が密集しているが、その間に浮かぶ妙見島には
家はほとんど無く、あるのは工場や処理場ばかり。
浦安橋から旧江戸川を眺める。歩いて千葉県から出るって案外無いな。

写真の右が浦安。左が妙見島だ。
まずは島の東側の道を歩く。護岸コンクリートがあって川は見えない。

その横を、処理場に向かうダンプカーがバンバン走る。
北へ向かって歩くとマリーナがある。

住宅地の間の島に工場とマリーナなんて、
なんだかシムシティで作ったような街だな。
その先には島と同じ名前の妙見神社。

千葉市にある千葉神社から分社されたそうだ。
千葉神社といえば中世の千葉氏から篤い信仰をうけた、妙見菩薩を祀る神社。
この島自体、千葉氏と何か関わりがあったのだろうか?
さて、次は島の西側に行くのだが、途中で島を横断する道が無いので
一度浦安橋のある島の南端へ戻らなければならない。
そして、地図に無い西の道をゆく。

この西の道が、僕にとって島一番のお楽しみなのだ。
何がお楽しみかと言うと、それは・・・。
工場が目の前なのです!!

タンクとパイプも目の前。

もう一枚!

というわけで、妙見島編おしまい。
古きを訪ねる浦安の旅もこれでおわり。
結局最後は工場萌えになってしまった・・・。
浦安探訪

江戸川へ 浦安探訪5

浦安探訪つづき
フラワー通りから境川を渡って、ふたたび猫実へ。
次に寄ったのは「猫実の庚申塔」。
青面金剛を刻んだ庚申塔では市内最古だそうだ。

庚申塔といえば猿がモチーフになることが多いが、
青面金剛の下をのぞいてみたらやはり三猿が彫ってあった。
そして青面金剛の前には狛犬のかわりに二匹の猿。

手水鉢も猿が支えていた。

猿だらけだな・・・。
いまでも地域の人々に大切にされている、と案内看板に書いてあったが、
きれいな境内を一目見れば、それがよくわかる。
そこからまた境川にもどれば、江戸川はもうすぐ。
江戸川と境川を隔てる西水門と、東西線の鉄橋が見えてくる。

境川を中心にした散歩ももうおしまいだ。
埋立地のあたりと比べると川幅はずいぶん狭い。
この辺りには船宿もいくつかある。
江戸川の堤防にはこんな看板が。

こちらは小説「青べか物語」に出てくる船宿・千本のモデルとなった店。

堤防の上に登ってみると、こんな眺め。
堤防の上と下ではやはり風が全然違う。

かつてこの辺りには蒸気船の発着所があり、「蒸気河岸」と呼ばれていたそうだ。
昭和15年に浦安橋ができるまで、みなここから船に乗って東京方面に向かっていたんだな。
まさに陸の孤島だったのだろうな。
さて、これで浦安市内の探訪はおしまい。
ディズニーランドもなく、きれいで新しいマンション群も無い
古い浦安の街は、僕にとって非常に魅力的であった。
市内の探訪はおわりだが、もうひとつ、
浦安橋を渡って最後の目的地へむかう。

旧宇田川家住宅 浦安探訪4

浦安探訪のつづき
フラワー通りの西のはずれに、趣のある家が建っている。
市の有形文化財「旧宇田川家住宅」だ。

格子窓がいい感じ。

外で写真を撮っていたら、横道から出てきたお婆さんに「どうぞ見ていってください」
と言われてしまった。
もちろんそのつもりです。
入り口をくぐって中に入ると、反物を扱う人形が!

明治2年の建築で、呉服屋のほかに米屋、油屋、雑貨屋などを営んでいたそうだ。
中では係の方がいろいろ説明してくれた。
こちらは奥座敷。

華美な造りではないが、こだわりを感じる建物だ。
2階もある。

天井が低いのは、入ってきた賊が刀を振りかざせないようにするためだとか・・・。
説明員の方が教えてくれたのだが、先ほど外で会ったお婆さんは、
もともとこの家に住まわれていた方なのだそうだ。
そうか、それで「見ていってください」だったのか。
ちなみにお隣に建つ銭湯も、同じ方が経営されているとか。

この建物もかなり古いらしい。
旧宇田川家をあとにして、次に向かったのは
フラワー通りのつきあたりにある清瀧神社。

鳥居の青い額が涼しげ。
この神社にも富士塚がある。

柵があって登れないのが残念・・・。
裏にまわると、山の表面に草が生えていて表の顔とはまた違う雰囲気。

緑の富士山だ。
登山者がいた!

頂上はもうすぐですよ!
つづく。
浦安探訪

フラワー通りを歩く 浦安探訪3

浦安探訪のつづき
豊受神社の富士塚を見たあと、次に向かったのは
「フラワー通り」という、境川に平行して走る道。
かつてはこの通りが浦安一の繁華街だった。

一番の繁華街だが、道は広くはなく一方通行。
側溝のフタには花が描いてあった。

境川の方へ路地を入ると、古い洋風の建物がある。
「旧濱野医院」。
ガイドマップに見学ができると書いてあったので寄ってみた。

昭和4年の建築。平成8年までこの場所で診療が続けられていたそうだ。
現在はここで「子育て事業」がおこなわれていて、建物の中では
赤ちゃんとお母さんたちがのんびりしていた。
オッサンひとり、その中に入っていくのはちょっと気まずかったが、見学させてもらった。
こちらは診察室。

薬棚。

古そうな薬がビッシリ。
どうも、おじゃましましたー。
このあとフラワー通りの「天哲」で鴨南ソバをいただいた。

熱中症寸前だったよ・・・。
エネルギーと水分を補給し再び通りに戻ると、なにやら足跡が・・・。

足跡の先にあったのが県指定有形文化財の「旧大塚家住宅」。

なかなか大きな造り。大塚家は漁業と農業を営んでいたそうだ。
浦安で農業っていうのはあまりピンとこないが、
米や蓮根なんかを作っていたのだとか。
つづく。
浦安探訪

猫実の富士塚 浦安探訪2

浦安探訪のつづき
新浦安駅から境川沿いを歩いて、境川東水門を過ぎると
埋め立て以前からある、元町というエリアに入る。
新町と呼ばれる埋め立て地では、川岸はただのコンクリートだったが
水門から先はレンガ造りになって、川面近くまで降りられる。

街並みにマッチして、良い雰囲気だ。
ここから少し川を離れて、ガイドマップにあった「左右天命弁財天」を見に行く。
本日一つ目の物件だ。
細い路地を行くと、何やら水の流れる音が聞こえてくる。
住宅が密集した場所にはそぐわないような、なかなか勢いのありそうな水音だ。
その音の出どころと思しき場所に左右天命弁財天があった。

弁財天の祠は周りを池でかこまれていた。
猫実の弁天様と呼ばれているそうだ。明治17年建立。
非常に霊験あらたかだそうだが、しかし左右天命ってのはいったい何のことなんだろうか?
せせらぎのような水の音の正体はこれだった。

周辺の路地は下町っぽくてなんだか良い感じ。

そのまま川には戻らず、路地を通って次に向かうのは「浦安三社」のひとつ
豊受神社。

豊受神社の境内には富士塚があるのだ。
浦安市内にはこの豊受神社を含めて三つの富士塚がある。
それは浦安三社にそれぞれひとつずつなのだが、
決して広くは無い浦安に何故三つも富士塚があるかというと、
浦安がかつてあった三つの村が合併してできたから。
浦安三社の豊受神社、清瀧神社、稲荷神社は猫実、堀江、当代島という
それぞれ別の村にあったのだ。
一つの村が富士塚を造れば、隣の村も、じゃあうちの村にも造るか、ということになるのだろう。
それだけ富士信仰も盛んだったんだろうな。
さて、豊受神社の富士塚、猫実富士は境内に入るとすぐに目に入ってくる。

相当大きい。
おそらく僕が出会った富士塚のなかで一番の大きさだろう。
山肌も大き目の溶岩がたっぷりあって、かなり荒々しい。
遠くから見た富士山は、なめらかでとても美しいが、
実際に登るとなると、富士山は岩だらけで決してなだらかではない。
この富士塚も、遠くから見る富士山ではなく、登る対象としての
富士山を表現しているんではないだろうか。
こちらは頂上の奥宮。

じつは富士塚の前にはデカデカと「のぼってはいけません」と書いてある。
しかし富士塚のあまりの素晴らしさについつい興奮し、
参拝に来ていた地元のおじさんに話しかけたところ、
「登っていいんだよ~。子どもが危ないからああやって書いてあるけどさ」だって。
まさかのお言葉。
だがさすがに躊躇していると、「そこが登山道だよ」といいながら
おじさんが脇から登り始めてしまったではないか。
こりゃあもう登るしかない、というわけで登山ガイドのようなおじさんとともに登拝。
山の中腹にはなんと天狗がいるのだ!

天狗の横にはお稲荷さんの祠があったそうなのだが、
落っこちて壊れてしまったのだと教えてくれた。
頂上からの眺め。
下にちょっと写っているのが、案内してくれた地元のおじさん。

おじさん、ありがとー!
僕が富士塚に興味を持ったきっかけは、浦安の歴史を調べているときに
この富士塚の記述に出会ったから。
そして記述ではなく実際に見た富士塚は、本当に素晴らしいものだった。
つづく。
浦安探訪

浦安探訪

同じ千葉県に住んでいながら、僕にとって浦安のイメージと言えば
ディズニーランドときれいなマンション群が思いつく程度だった。
しかしたまたま訪れた浦安市郷土博物館には、海が埋め立てられて
新しい街ができる前、漁師町だったころの浦安の街並みが再現されていた。
昔の浦安は、僕が思っていたようなきれいでお洒落なイメージとは一味違う街だったのだ。
博物館を訪れて以来、そんな浦安の歴史に興味が沸いてきたので
ネットなどでいろいろ調べてみたところ、元町とよばれるエリアには
かつての漁師町だったころの面影がまだ残っているという。
今回はその古い浦安の街の雰囲気を味わってみるため、「境川」という川に沿って歩いてみる。
境川というのは浦安市の真ん中を流れる江戸川の支流で、
かつては生活用水に使われたり、漁船の船溜りに使われたりした。
街一番の繁華街もこの川沿い。
つまりこの境川を中心に浦安は発展し、
そしていまだに昔の面影を多く残しているのもこの川の周辺なのだ。
スタートは京葉線新浦安駅。

興味があっていろいろ調べたのは実は結構前のことで、
境川周辺に見所が多いということ以外、詳しいことは頭からすっかり抜け落ちてしまっていたので、
駅前の観光案内所で情報収集。手ごろなガイドブックをいくつかゲット。
その中にボランティアのガイドさんと歩くコースというのが紹介されていたので、
それを参考にすることにした。
もちろん今回はガイドさんの案内は無く、私一人。
線路沿いを南に歩くと境川にぶつかる。
川幅もなかなか広い。

ここから江戸川の方へてくてく歩いていく予定。
国道357号の陸橋から、今来た道を振り返る。

病院やマンション、きれいな一軒家が建ち並ぶ新しい街だ。
周辺はきれいな街だが、川には難破船(?)があったりする・・・。

すぐ近くには境川東水門。
海抜の低い浦安の街を水害から護っている。

ここまで歩いてきたのが埋め立てられたところで、
ここを過ぎると、いよいよ埋め立て以前からある
元町と呼ばれる浦安のオールドタウンエリアへと入っていく。
つづく。

鉄道博物館にて

平日の休みを利用して、鉄道好きの「聖地」、鉄道博物館へ。
鉄道は好きだが、実際のところそんなには詳しくないのでザックリと。
館内には現役を引退した実際の車両が所狭しと並んでいる。

迫力満点。
車両の中にも入れる。
こちらは「とき」の車内。

ああ、忘れ物が・・・。
車内では子どもたちも大はしゃぎ。イスからイスへ大移動。
ということは、実際の電車でもそうなるだろうから
電車で家族旅行なんてまだ無理だな。

妻は貨物列車に魅かれるそうだ。

お宝だらけの館内で、私がとくに気になったのがコレ。
人力鉄道。

名前のとおり、動力は人間だ!
坂とか怖そうだな・・・。
外ではシミュレータに挑戦。

休日だと整理券をもらうのも結構大変なようだが、
あっさりゲットできた。
ひととおり楽しんで帰宅。
しばらくしたらまた行きたいなあ。

サヨナラ給水塔

先日のフォトカーキーズにて
わたしの写真も展示していただいた。
題材は家の近所の給水塔。我ながら、まあなんとマニアックなこと。
お店での展示が終わってほんの数日後、
なんとその給水塔が解体されてしまったのだ・・・!
せっかくなので、フォトカーキーズ用に撮ったほかの写真で
在りし日の勇姿を。


いつもやさしく街を見守っていた給水塔はもう無い。

こちらは解体直前、足場の組まれた給水塔。

解体されるなんて知らなかった。
撮っておいてよかった。

道祖神社 大須賀山探検3

大須賀山探検のつづき
首塚を後にして山の北側の住宅街を歩く。
この辺りには大きな住宅がたくさん。背後には首塚の森。
なんとなく北鎌倉の住宅地みたいな雰囲気だった。
道がよくわからないまま歩いていると、下り坂の途中に神社をみつけた。

大須賀山の北側、山の中腹だ。
地図で大須賀山のあたりを見ると、首塚の表記は無く
道祖神社とか猿田神社と書いてある。おそらくこの神社がそれであろう。
ちなみに猿田神社の「猿田彦」は複雑な神格を持ち、その中には道祖神の性格も持ち合わせているそうで、
地図によってまちまちな表記の道祖神社と猿田神社は同じとみてよさそうだ。
小さな境内には鳥居と祠がそれぞれ二つずつ。

神社自体には神様の名前などは何も書いてなかったので、いったい何が祀られているかはわからない。
二つの祠のうちのどちらかは猿田彦が祀られているのだろうけど、
残ったもう一方はいったい何なのか・・・。結局わからず。
神社の前を通って坂を下ると、薄暗い森から抜けた。
浅い谷津越しに見えるのは以前訪れた浅間神社の山。

ここから見える浅間神社の台地やその背後の上ノ台には縄文遺跡があるが、
大須賀山にも縄文初期の大道遺跡というのがあるそうだ。
縄文時代、岬の先端は人々にとって聖地であったという。
今より海水面がかなり高かったので、大須賀山や隣の浅間神社の山は
古東京湾に飛び出た、まさに岬であった場所だ。
同じように縄文時代からの聖地であった花見川対岸の検見川神社のような立派な社殿は無いが、
幕張の二つの岬もきっと縄文の人々にとって聖地であったはずだ。
これだけ住宅化が進む中、台地の先端に森が残っているってだけでもミラクルだよね。
来た道を振り返ると、そこにはまさに木のトンネルがあった。

大須賀山の探検はこれでおしまい。
ここには埋立地には無い空気が流れていた。
幕張は奥が深いな・・・・。
大須賀山探検

首塚 大須賀山探検2

大須賀山探検のつづき
「首塚」と書いた看板に促されて、木のトンネルのような坂を登ると
やや広い場所に出る。

木々が鬱蒼と生えていて暗く、昼でも街灯が点いていた。
そして正面にはさらに一段高くなった盛り土と、そこに登るための階段。

この盛り土は高さ3,4メートルで四角い形をしている。
そしてこの盛り土こそが「首塚」と言われているものだ。
1456年、上総国八幡で討ち死にした馬加康胤の首を
その日の夜に家臣が幕張へ持ち帰り、ここ大須賀山に葬ったという。
塚の上には五輪塔。

写真ではわかりにくいが結構大きい。2メートルくらいあるかも。
じつはこの塚、馬加康胤の首塚である、というのは言い伝えでしかなく、
そうと書いた文献は残って無いのだそうだ。
塚の上の五輪塔もその供養のためとのことだが、銘には「寛永」と
江戸時代の元号が彫ってあり、室町時代からそんなに時代を隔てて首塚の供養塔を
立てるとは考えづらい。

銘にある梵字は大日如来を現す。
首塚の供養塔というよりも、麓にあった大日堂と何か関係があるのではないだろうか。
この四角い塚が「首塚」でないとすると、じゃあいったい何なのか。
なぜこんな山の頂上にわざわざ土を盛って高くしたのか。
一説によると、この大須賀山は、馬加康胤も居を構えていた中世の馬加城に付属する砦で、
この塚はその砦の遺構であるという。
馬加城があったのは武石IC近くの台地の縁。
そして大須賀山があるのはかつての街道と海を見据える要衝。
そんな場所に軍事施設を何も置かなかったというほうがむしろ考えにくい気がする。
砦だとすると、他にも土塁とかそういうのが残っているかもしれないな、
と思い塚の周りをうろうろしてみたが、いまいちわからず。
周囲に盛り土っぽいものもあったけれど、草木に覆われてなんだかよくわからなかった・・・。
探検はつづく・・・。

大須賀山探検