花見川の川岸、
浪花橋のすぐ近くに、台地のきれはしがあるというので見に行ってみた。
写真の左側、木の茂った小さな山がそれだ。
対岸から見るとこんな感じ。
じつはこの山、かつては検見川側の台地とひとつづきだったのだが、
花見川の開削工事によって切り離されてしまったのだ。
つまり台地のきれはしというわけ。
では開削工事前の花見川はどこを流れていたのだろう?
地図を見てみると・・・
中央の赤いしるしの場所が山のあたり。
そしてその山を迂回するように道がカーブしている。
この道がどうも怪しい・・・。
住所も対岸の浪花町が、このカーブの内側に飛び地のようにあるのも不自然だ。
実際に見ると・・・
山を迂回するように、土手から道が分かれる。
しかもこの道には暗渠があった!
やはりこの道がかつての流れの場所ということで間違いなさそうだ。
この暗渠がどこから始まっているかはちょっとわからなかった。
ちなみに切れはしの山には城の櫓の跡があるそうだ。
そっちも気になるところだが、山は立ち入り不可。残念だ。
関係ないですが、その日の夜・・・
おうちでピータン。ふふふ。
ワッペン、保育所のカラー帽子に付けちゃおうかしら。
なんか違う
なんか違うな・・・。
ウィキペディアに小さい「っ」のページがあって、ちょっとびっくり。
谷の終わり 幕張の谷をゆく5
「幕張の谷をゆく」のつづき。
浜田川の支流に沿って走り
幕張から習志野市に入ると、川は暗渠になってしまう。
そしてこの先、川が姿を現すことはもうない。
これからは道路の高低差や台地の位置を見て、地下の川を探しながら谷底を走らなければならない。
暗渠になった場所からの延長線上には小学校や保育所なんかが並んでいる。
この地下を川は流れているはずだ。
こちらは保育所。
この道をつたって走ると、非常に緩やかだが徐々に上り坂になっていく。
上り坂ということは、そこはもう谷底ではないということなので
少し戻って低い場所を探しながら走る。
と言いつつ、ちょっと台地の上にのぼってみよう。
幕張と違い、習志野の谷には家がビッシリ並んでいる。
再び谷に下り、ふと目をやるとそこには緑道が。
うーむ、緑道ってところがどうも怪しい。
ひょっとしたらもともと川だった場所を緑道にしたのかも知れないな。
というわけでこっちの方向へ進むことに。(実際に走ったのは緑道よりも低い、住宅街の中の道)
そしてきれいな住宅街を抜けると、突然広々とした場所に出る。
こ、ここは?
公園のむこうには、崖に沿って家々が建っている。
ちょっと高台から。
公園は三方を崖に囲まれている。
三方が行き止まりということはそう、この公園、大久保中央公園こそが幕張から続く谷の終わりなのだ。
ここが谷の最奥。そして今回のサイクリングのゴールだ。
縄文時代にはこの場所まで海水が入り込んでいたんだな。
ゴールを迎え、思っていた以上の感動が押し寄せる。
たった2時間程度のサイクリングだったけど、地形を感じながら走ると
こんなに面白いのか。
パークゴルフ場やタコの滑り台なんかがあるこののどかな公園で
谷だなんだと変な感動にうち震えているのはきっと私だけだろう。
ちなみにタコの遊具は、この場所がかつて海の底だったのだという
習志野市からのメッセージだろう・・・。・・・ちがうか。
というわけで「幕張の谷をゆく」、おしまい。
ね。ただのサイクリングだったでしょ。
あとひとつオマケがあるのだけど、それはまた追々。
幕張の谷をゆく
荒れ野を走る 幕張の谷をゆく4
幕張の谷を走るサイクリングのつづき。
一週間もほったらかしでしたが・・・。
パサールを過ぎると、川の両岸には盛り土が迫る。
とても幕張とは思えない風景。
盛り土の間をしばらく走ると、突然視界が広がって
台地の上の家々も見えるようになる。
家が見えると、ちょっとホッとする。
パサールからここまでの間は人も家も見えず、生活の気配を全く感じなかった。
そんな場所が幕張にあるというのが何とも不思議な感じ。
台地に上って、谷を見渡してみた。
対岸は屋敷方面。
幕張とか大久保の台地の上に縄文時代の遺跡がいくつかあるそうだ。
なんで海から離れた台地の上に縄文人は住んでいたんだろうかと
ずっと思っていたのだが、そう、この谷もその時代には海だったからなんだな。
縄文人はこの場所で、釣りとかやったんだろか。
そんなことを考えつつ、川沿いを走ると
川は再び暗渠になってしまう。
たどり着いたのは、この辺り。幕張本郷から屋敷へ抜ける道だ。
じつはこれから先、この川が姿を現すことはもう無い。
これまでは川を辿って谷底を走ったが、
これからは、地下に潜った川を探しながらのサイクリングになる。
その前にちょっと寄り道。
幕張本郷から下ってくる道を、屋敷方面へ少し上ったところにある
屋敷一丁目公園。
前を車で通るたびに石碑が見えて気になっていたので
寄り道して見てみたら、
その石碑は庚申塔だった。
大須賀山のふもとの庚申塔には青面金剛の像が彫ってあったが
こちらは文字バージョンだ。
そしてやっぱり三猿がいた。
石碑の側面には「馬加村」の文字が彫ってあった。
こうやって塔を建てるってことは、なかなか積極的に活動していたということか。
こういう信仰はいつごろまで続いていたのだろう。
それとも私が知らないだけで、地元では今でも続いているとか。
つづく。
次回はいよいよ谷の最奥へ。
幕張の谷をゆく
跨線橋を越えて 幕張の谷をゆく3
幕張の谷を走るサイクリングのつづき。
寄り道ですっかり時間を食ってしまったので、先を急ぐ。
浜田川はJRの車両基地の地下を流れている。
そしてわたしは川を追って車両基地を越えるため、宝憧寺近くの跨線橋を渡る。
ここを通るのは初めて。なんだかワクワクするな。
跨線橋からの眺めはこんなふう。
写真中央の森が前回紹介した浅間神社のお山。
その左のふたこぶの山が大須賀山だ。
ここからはパサールも見渡せる。
台地の上にマンション、斜面林、そして谷の底にパサール。
パサールのあたりは、縄文海進が終わって海水が後退したあと
潟湖になっていたそうだ。
パサールには、川をつたっていけば着くはずだ。
天気も好いし眺めもいいので、しばらくここでのんびりしたいところだが、
そうも言ってられないな。
跨線橋を降りると、再び浜田川が姿を現す。
台地の斜面には住宅地。
うむ、いよいよ谷に入ってきたな。と、ここでそう思うのはきっと私だけだろう・・・。
そこから少し走ると川は二手に分かれる。
分かれるというか、流れからすると、ここが合流地点。
右が浜田川の本流。この川の流れる谷は実籾の方まで切り込んでいる。
今回わたしが走るのは左の川。浜田川の支流だ。(川に名前はあるのだろうか?)
この川をつたって大久保方面を目指す。
今でこそコンクリートのおとなしい川だが
かつては台地を侵食して谷をつくったくらいだから、荒々しい川だったんだろうな。
川沿いから見えるのは孤高のマンション、幕張ハウス。
中世の馬加城はこのマンションの場所にあったのだとか。
京葉道路をくぐるトンネル。
お腹がすいたので、パサールでお昼ごはんを食べたいところだが
時間が無いので今回はスルー。今日は昼飯抜き!
ずんずん進むが、続きは次回。
古い航空写真はコチラ。斜面林に囲まれた谷の様子がよくわかる。
幕張の谷をゆく
幕張の浅間神社 幕張の谷をゆく2
幕張の谷底を走るサイクリングのつづき。
「谷をゆく」と言いながら、出発早々いきなり寄り道。
なので今回は谷を走りません。あしからず・・・。
前回の記事の最後の写真を撮ったところで
ふと横をみると、木々の繁った小山があった。
幕張本郷駅のロータリーを出て、西の谷小学校の方へ
まっすぐ延びる道をゆるやかに下った辺りだ。
この写真の左側の黒い車の向こう、山のふもとに小さな鳥居がある。
先を急ぐつもりだったのだが、どうにも、どうしても気になったので
ちょっと見てみることに。
鳥居のそばにあったのがこちら。
「小御嶽磐長姫神」とある。
小御嶽(こみたけ)とは富士山の中腹にある神社で、その祭神が磐長姫(いわながひめ)だ。
浅間大神とともに富士山の神様である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお姉さん。
富士山と非常につながりの強いものだ。
鳥居をくぐると、山の斜面に、
やはり見つけた「浅間大神」の碑。
ということは、ここは浅間神社だったのか。
幕張にも浅間神社があったんだ。
そして「浅間大神」の文字の上には「水」と書いた紋がある。
この「水」という紋、どこかで見たことあると思ったのだが、
そうだ、稲毛浅間神社の参道にある灯篭に書いてあったんだ!!
この紋は木更津発祥の「山水講」という富士講のもの。
稲毛と幕張の浅間神社に同じ富士講の碑がある・・・。つながりがあるんだな。
こうなると、鳥居のすぐそばにあったこの階段も非常に気になってくる。
薄暗くってちょっと怖いし、谷も走らないといけないんだけど・・・。
意を決して階段を昇りきると、こんな感じ。
周囲を盛り土に囲まれ、その中央に崩れた浅間大神の祠があった。
その右手前には手水鉢。
どうやらこの山自体が浅間神社のようだ。
せっかくの出会いなのでお参りを。幕張にも浅間様がいらっしゃるなんて、知りませんでした。
盛り土の上には塚がある。
塚には山水講の紋の入った浅間大神の石碑が横たわっていた。
崩れた祠とそれを囲む盛り土。山水講。そして石碑の横たわる不思議な塚・・・。
謎の空間だ。
とくに気になるのは、祠の周囲の盛り土。
わざわざ祠を囲むために土を盛ったのだろうか?それとも逆に土を掘ったか。
見ようによっては城の址などにある土塁のようにも見えなくもないのだが。
すぐ近くの大須賀山には、中世の砦の跡があるとのことだが、
ひょっとしてこの山も砦だったということはないだろうか?
盛り土の上から祠を眺める。
海と街道を見据える大須賀山の砦と比べて
どれほど重要であったかわからないが、
台地の先端のこの山に中世の砦があって、その後時代を経て、
富士講の人々が富士山に見立てて浅間神社を造った(小御嶽磐長姫の碑には明治36年とあった)。
という推測はどうだろうか。
もしくは、富士山信仰のひとつの形として、地元の小さな山に浅間神社を祀って
豊漁や航海の安全を祈願する、というのがあるそうなので、
浅間神社が先にあって、後になって富士講の人々がふもとの神社を
造った、ということも考えられるな。
ま、いずれにせよ素人考えですので、見当違いだったらごめんなさい。
さて不思議な出会いに満足し、危うく家に帰ってしまいそうになったが、
そうだ、「谷」を走るんだった。
「谷をゆく」と言いながら、山にのぼってしまったよ・・・。
サイクリングをリスタートして
次回はパサールを目指します。
幕張の谷をゆく
幕張の谷をゆく
幕張に住み始めて7年。
引っ越してきた当初から
幕張本郷のあたりは台地だからか、ずいぶん坂の多い町だ。
とは思っていた。
しかし最近「地形」に興味が沸いてきて、
さて、この起伏の多い幕張を地形図で見てみたらどうなっているのだろう?
と、地形図を開いてみると・・・
茶色い台地の間に緑色の狭い低地があるのがわかる。
狭い低地ということは、つまり「谷」。
幕張に谷があったのだ!
谷は浜田川とその支流に沿って、実籾と大久保の方まで切り込んでいる。
幕張本郷から幕張台公園の前を通って御成街道の方へ車で抜けるときに
屋敷の辺りで一旦急坂を下り、そしてすぐ上り坂になるのだが、
じつはそこは谷で、それがパサールの方から大久保駅近くまで
続いているなんて今までまったく気が付かなかった。
しかも縄文時代にはこの谷にまで海水が入りこんで
入江を形成していたという。
今回はその大久保まで切れ込んだ、浜田川の支流によってできた浸食谷の底、
つまりはかつて海の底だった場所を自転車で走ってみる。
目指すのは谷の一番奥。大久保駅のあたり。
はたしてそこには何があるだろうか。(要するにただのサイクリングです。)
スタートはここ。
浜田川の上を旧道が通る、下八坂橋。
谷の底には川がある。というわけで、川に沿って進む。
橋の下の川面には鴨がいた。
川沿いを走り出してすぐに、浜田川は暗渠になってしまう。
JRの車両基地があるためだ。
暗渠になるあたりから川沿いの道は砂利道になってしまったので、
ちょっと迂回すると、こんな景色が。
大須賀山の裏あたり。
再び川沿いに戻ると、目の前にはJRの車両基地。
車両基地はけっこう高い場所にあるんだな。
川は緑色のフェンス内の地下を流れている。
つづきは次回。出発早々、寄り道を。
幕張の谷をゆく
幕張の道祖神
幕張の旧道沿い、
堂の山もしくは大須賀山のふもとに
前から気になっていた石仏がある。
いつもは車で通り過ぎるだけだったのだが、
先日ちょっと時間ができたので見に行ってみた。
左の像は地蔵のようだが、真ん中は誰だろう?
と思い、下を見ると・・・
いた!
三猿だ!!
ということは、そうかこれは庚申塔だったのか。
てっきりお墓だと思っていたよ。
猿の上の邪鬼もいい踏まれっぷりだな。
こちらの恐いお顔のかたは青面金剛だろう。
これが建っているのは、たぶんかつての馬加村の入り口あたり。
庚申塔ではあるが、道祖神としての役割も担っているんだろうな。
ところで堂の山には猿田彦神社があるそうだが、これとなにか関係があるのだろうか?
おしまい。
見晴台
先日、地図をじーっと見ていると
幕張町二丁目のとあるチビッコ公園に
「見晴台」とあるのを発見した。
そうか、公園に展望台があるのか。
たしかに地図の場所からすると、そこは幕張の谷に飛び出た舌状地。
そんなところに展望台があったら
パサールとか新都心なんかが見渡せて、さぞやいい眺めでしょうな。
気になるので、さっそく行ってみることに。
住所は幕張町だが、幕張本郷から車で行くには
習志野の屋敷からでないと行きづらい。
そしてここが目的の公園。
あれ?普通の公園だな・・・。
展望台なんか無いぞ。
あ・・・。
そうか、
チビッコ公園の見晴台ではなく
みはらし台のチビッコ公園だったのか。
うん、そうかそうか・・・・・。
千葉寺の富士塚
妻が行ってみたいと言うので、千葉寺へ。
創建709年、坂東三十三か所観音霊場の札所にもなっている
由緒正しきお寺。
しかし僕は来たの2回目だし
本堂は新しくてコンクリート造りだし、
お堂は閉まっていて、仏像には会えないし。
なのでサラッとお参りして終わるつもりだったのだが・・・。
とりあえず本堂でお参りを。
本堂前の銀杏は県指定天然記念物だ。
本堂の脇には神社がある。瀧蔵神社。
前に来たときは寺にしか興味が無かったので、この神社は見なかったのだが、今は違う。
ちょいとお参りしようかと参道に入ってみると、
おや?
この盛り土はひょっとして富士塚ではないのか!?
石碑があるし、ちょっとだけだが石垣もあしらってある。
近づいて、盛り土の頂上の石碑を見ると
左に「浅間大神」、右に「御嶽神社」とある。
やはり富士塚だ!!
逆光で全然見えませんけど。
石碑によると、大正9年にできたようだ。
富士塚は、その多くが神社の境内の一角にあるのだが
たまにお寺にもあるそうだ。
しかし、お寺の境内にある神社の境内の一角(なんだかよくわからんな)にあるというこのパターンは
かなり珍しいんじゃないだろうか。
この富士塚を裏の駐車場側から見ると
こんな感じ。
ここから見たら、富士塚だとは思わないな。
棕櫚とか生えちゃってるし・・・。
ちなみに、
帰ってからネットで調べてみたのだけど
千葉寺の富士塚はどうにも見つけられなかった。
ということは、このブログがネットで唯一の情報かもしれないな。
うひひ。