492,横浜へ引っ越し

昭和47年3月地元、九州宮崎県から上京してボクシングの関係で横浜に3年弱住んでから、東京大田区蒲田へ引っ越し、その間大田区内を西蒲田、東矢口、池上、蒲田と転居しながらも42年間大田区民として過ごしてきた。
 
特に蒲田のマンションでは14階に住んで大変すばらしい眺めで毎朝富士山を眺めては、手を合わせていたものだった。夕暮れの富士には感動も覚えた。
ところが、このたび縁あって横浜市鶴見区に移り住むことになったが・・個人的には大変名残惜しいものがある。
 蒲田のマンションは良かった、8月15日の花火大会にはワンコウ仲間と最後の眺めを楽しんだり、桜の季節では満開の下を散歩したり思い出は尽きないねぇ。


又、京急蒲田駅近くで羽田や京急線で大変便利に活動できてありがたい思いもした。
 
 今度の引っ越し先、横浜市鶴見区であるが、大きい一軒家を購入して一階を美容室に改造すべく毎日職人が入っている。
狭いながらも庭があるようで気に入ってはいるのだが、今度は車を購入して活動するのだそうである。
 ただし大きい庭ではないので小型車くらいのスペースかな。
デザイナーの設計で立てられたそうで、蒲田のマンションの実用性に比べたら格段の差である。この風情がわかるようになるのにはしばらくの時間がかかることだろう。
 マンション設計では無駄の一つもないようで実に感心すべきところが多かった。ただ、マンションゆえに都会的なセンスを求められるところがあったが無理に合わせているところもあったのかねぇ、鶴見に来ると意外と落ち着いているのには我ながらびっくりしたのである。
 将来的には三浦海岸あたりの日当たりのいい一軒家でワンコウとのんびりと過ごし、近所のちびっこたちに空手を教えながら過ごすのもいいかと思っていたが、それが鶴見になったようである。
 鶴見は鶴見で、三浦に比べるとはるかに動きが取れるし、大きな借財を抱えた今はまだまだ頑張らねばならないのである。
住めば都・・人間至る所青山在り・・ま、いろいろといいようもある。
 人生前向きに、活動していこうかね。

491,戦後70年

毎年8月15日の終戦記念日には靖国神社に出かけ手を合わせてきている。
朝早く出かけ、御朱印帳の窓が開く午前7時には待っている程である。
 早くいかないとこの日ばかりは人がいっぱいで、参拝するのにもずっと並びこの暑さでは嫌になるのがわかっているので毎年早い時間に行っている。それでもすでに結構な人が出てきているのである。
何年か前に昼ごろに出かけて大変な思いをしたことがあるので早めに来るようにした。
 
 明治維新よりこの方幾多の人の尊い命の犠牲の上に成り立っているのである。それを感謝してお参りすることは日本人として当然だと思っているので毎年欠かさないようにしている。
年配の人を良く見かけるが近親者を亡くした人たちなんだろうねぇ、この暑いのによくぞおいでくださるものと思っているが、親族の強い思いには私など計り知れないのだろう。
 
 今年は戦後70年ということもあって人出の多さには正月の詩吟を能楽堂で吟じた時から感じていた。
正月にはこの能楽堂で詩吟を吟じたことが思い出されるがあの時は正月の寒いころ、今日は真夏の暑いころと正反対の感じ方だね。
帰りに九段坂に差し掛かるとこれから取り締まる警官も準備を始め、街宣車も続々と来ているようである。
そのころになると暑さと人出で取集がつかなくなるので早めの退散となるのだが地下鉄の出入り口では多くの団体が主張をしたり署名を求めたり、これもこれからもっと増えてくるのである。
 今国会で、平和について議論されているが、祈るのは世界平和と安全な暮らしなのである。拉致被害家族の横田さんの放送も流れていたが、一日も早い解決をと願っている。
 今の私たちが毎日平和で幸せな日に感謝をして過ごさなければいけない。
ややもすると毎日の生活に追われて忘れもするが、こんな日にでも思い出してみるというのも大事なことなんだろうねぇ。
帰りには、お土産屋で菓子を買い求めて急いで戻ってきた。
 

490・ラブユー東京

雑記も一か月以上掲載しないことは珍しい、と言おうか記憶にないほどである。
ジュニア大会が終わってしばらくどこも出かけないで大した用もなく称名寺とてこの暑さでは敬遠していることなので、何もない。
 8月4日(火)、ベランダで朝食をしようということで久々にベランダでのんびりした。
まだ朝方のこの時間は比較的に涼しいのである。窓が西側にあるので朝日は入らず日影のせいもあろう。
 実はこのマンションを引き払って横浜市鶴見区に移住することが決まっており着々と契約やその準備が進んでいるらしい。
というのもこのようなことは細君が一切を仕切っており、私は経過を聞くだけである。
鶴見の一軒家を購入して、そこで一階で美容室を経営して二階に住むようになるとのことである。
正式契約も終えて9月には転居するとのことだが、まだ何の準備もしておらず実感としてはまだない、というのが現状である。
人間至る所青山在り・・その覚悟はあるとはいえ、第2の故郷蒲田を去るのはなかなか思い切りが付くまでに時間を要したねぇ。
ましてや東京で活動していたのが横浜になるということは落胆を禁じ得ない。
引っ越し先が鶴見駅から10分もかからないところでこの蒲田からも電車で10分もかからないんだけれどもね。
このマンションからは富士山が見えて大変気に入っていたところである。ここを終の棲家と思ってはいたが、庭付きの一戸建ても捨てがたく、今回の物件は私も気に入っているところなので、半々・・というところか。
 しかし、しばらくもすれば向こうの良さに満足するであろうということはわかっている。確かに素敵な家なのは間違いないところだ。
ワンコウのことを思えば、私が留守の時でも下の店からはしょっちゅうのぞきに来れるので安心できるという大きな利点があり納得の一つでもある。
 そんなことを知ってか知らずか、この夏限りの食事もワンコウの目線は食い物ばかり、主の気持ちなど知る由もない。
桜の季節はここから呑川沿いの桜を眺め桜が散っては花筏となって風情を楽しませてくれた。
 カラオケに行っても歌う歌は、「東京の灯よいつまでも」「ラブユー東京」「おさらば東京」古い歌ばかりだがこんなレパートリーが並ぶのである。
 そんな思いの朝食であった。

489・朝陽を浴びて

♪♪朝陽 夕陽を馬上に浴びて 続く砂漠の一筋道を~♪♪
私の好きな歌「蒙古放浪歌」の一節である。
この歌の締めは「行くや若人 千里の道を」であるが、戦前の若者は、特に次男三男は家を継ぐこともなく出ていかざるを得なかったのだが満州に夢を求めて勇躍していったのではないかと思う。
 私の場合はずいぶんと小さくなったが東京に出て活動することであった。
あれから40年・・・どこぞの漫談家ではないが、まさかワンコウの散歩で朝陽を浴びてその当時を思って、この歌を口にするとは思いもせなんだ。
 心たけくも鬼神ならず 人と生れて情けはあれど 母を見捨てて波越えてゆく 友よ兄等よいつまた逢わん~
 朝陽夕陽を馬上に浴びて続く砂漠の一筋道を 大和男児の血潮を秘めて 行くや若人千里の道を
いいねぇ、一瞬でもあのころに戻り元気がみなぎるようである。今では散歩の後にワンコウ仲間のその名もガブリエル君と戯れるを楽しみにして一日のスタートとなるのである。
 そしてある日、空手の稽古を終えて戻り部屋から夕焼けが空一面を真っ赤に染めている。思わずカメラを構えたが実際にはもっと素晴らしくて感動を覚えたのである。この臨場感が伝わらないのが残念である。遠く大きなビルの間に富士のシルエットが見えるのがわかるかね?

 このような自然に接した時に人間はセンチメンタルになるのかねぇ。
私らしからぬ、一面である。

488,第2回錬武舘流錬成大会

5月30日(土)、埼玉県春日部市において「第2回錬武舘流錬成大会」が開かれ出席してきた。
日防連顧問の坪山先生が主催される大会で昨年は出席できず、なんやかんやで3年ぶりの春日部訪問であった。
京急蒲田を7時半に出て浅草経由で行くと9時過ぎにはついて意外と近く感じたね。浅草から東武特急に乗車してスカイツリーを見ながら行くとちょっと日光に行くような・・(久しく日光にも行ってない)

 春日部駅で東武野田線に乗り換えて、一つ目の駅「八木崎」で降りてすぐ会場が目に入ったが大きな建物である。
会場では、戦後の防具空手界のパイオニアである、錬武舘の中村典夫先生の直弟子田中毅一先生にも挨拶ができて何よりである。
又、田中先生は埼玉県東部地区を拠点に活動を広め現在の礎を気付いた伝説の先生でもある。
ご一緒の大沢俊一先生は剣道の大家でもあるが、空手を修めていた時期もあってその空手を田中先生に進めてご一緒に始められたともいう、両先生の話を書けばとても紙面が間に合わないので割愛させていただくがいつか機会があれば紹介したいところである。
 そのような大先生の見守られる中で開催された大会、日本武道礼法道連盟ならではの「道着のたたみ方」の試合もあってなかなか楽しいものであった。
 実行委員長の中古賀師範が準備のため会場に6回も足を運び打ち合わせを重ねて、自分でもよくやった、と言っていたが、まさにその通りで、私も大会主催者として毎年毎回その動きをやっているが、その労力たるものや相当なものである。
 今回は終了後の親睦会にも出席させていただいて思ったことは、和気あいあいとしたこのアットホーム的な親睦会は、坪山先生の人徳のたまものだろうねぇ、私も見習わなくてはいけない。真錬会の山脇師範も張り切っていた、皆さんよく働くねぇ。



 おかげで、楽しく過ごし時間のたつのも忘れてしまうほどであったが、何分にも東京のはずれから来ているので時間も考えて途中で失礼をしたが、なんと、万歳三唱で送られて気恥ずかしいやら、うれしいやらで帰路に就いた。
 万歳三唱、といえば40数年前、故郷延岡を立つときに駅のホームで何十人の友人たちに送られたことがあったがめったにあることではない。
 そのような楽しい余韻を引きずりながら地下鉄に揺られて「宝町」駅についた8時半ごろ地下鉄でもわかるほどの大きな地震があり、しばらく止まって心配したが、京急線は10分ぐらいで動いて無事蒲田に戻ってこられた。
 マンションに着いたはいいが、今度はエレベーターが止まっており14階までてくてくと上がり、いつしか酔いも飛んでいたねぇ。
震度5になるとエレベーターは停止するのだそうで、結構大きな地震であったらしいのである。
 それでも無事に家に着き、無事に一日が終了して大変良い大会、よい一日であった。

487,横浜山手散策

テレビ情報番組で横浜の元町公園内のレストランのデザートがおいしいとレポートされていてまたその背景の緑がいいので行ってみようということで、25日(月)、出かけてみた。
JR石川町駅で降りて元町を抜けて元町公園へ行ってみた。プールや弓道場などもあって、その昔外国船に積み込む水はここから運んでいて、地元の人たちは水屋敷と呼んでいたという。

 お目当てのエリスマン邸へ着いたのはいいが、人がいっぱいで並んでいる、とりあえずあきらめて外国人墓地から港の見える丘公園へ歩いてみた。


 木漏れ日の道路を歩くのも気持ちがいいものだ。昔の私には考えられない日常だがこれはこれでいいものだ。
NHK朝のテレビ小説では、主人公が中華街に住んで外国人墓地脇の坂道を上がってケーキ屋さんに勤める設定になってる。
 平日の昼間というのにこの混みようはマスコミの影響もあるのだろう、私たちもその一人であるが・・。
港の見える丘公園ではバラ園があり盛りを過ぎた感はあるがまだたくさんの花が開いていてスケッチの人がたくさんいて、私にはまねのできることではない。
 横浜ベイブリッジをバックにいつもながら一枚。コクリコ坂の舞台にもなったそうで、その旗の下で収まった。

今回も公園入口にあるKKRポートヒル横浜にてランチを取って一休み。
エリスマン邸ではもうすいているだろうと戻ってみるとまだ人が並んでいる。あきらめて近所を見回すと道路を挟んで「えの木てい」がオープンテラスで開いていてすいていそうである。
 ケーキセットを頼んでしばし談笑。幸せなひとときだねぇ。何度も言うが、ひところの私の生活からは想像もできない、人生何が起こるかわからいということ身を以て知らされているところである。
 そこから坂を下って元町を抜けて石川町駅へ戻り、蒲田へ戻ってきたが、時間にしても半日もかからないで過ごしてこれるのである。
有意義な時間を過ごせてこれだけでも幸せなものだ。
初老の域に入った今、このような過ごし方は理想でもある。
そしてまたこれをリフレッシュとして頑張る気持ちにもなる。
 今日も感謝の一日である。

486、初夏の称名寺


5月11日(月)、初夏の日差しがまばゆい日久々に称名寺へ出かけようということで出かけてきた。先週は横須賀の猿島へ出かけそこからこちらの山を探したのだが見つからず、今日は頂上の八角堂から猿島がはっきりとわかりそれを拡大して写真に収めた。
 アップダウンの山道を歩くのは運動になるねぇ。平日で出会う人もいないのでクウものびのびと走り回っていい運動になっている。
今日はおにぎりを持参して頂上でほおばったがこれがまたおいしい、のどかなお昼、まさにありがたいものである。
 降りて称名寺の池のほとりには菖蒲の花がきれいに咲いており、ベンチでしばらく休んで心を和ませてくれる。
京浜急行で「金沢文庫」駅、「金沢八景駅」と快速が止まるのだが、ここの鐘つき堂は、その金沢八景で、称名寺の晩鐘として有名でもある。
 またここは、テレビドラマで京都のお寺の設定で見たこともあったが、たびたびドラマなどにも出てくるのだという。確かにこの静かなたたずまいなどは、京都のおテレとしてもぴったりの場所であろう。またこちらの橋は太鼓橋にもなってそこを通行することもできる。
 何とも言えない風情である。ほとりのベンチで佇んでいると時々、ポチャッ、ポチャッ、という音が聞こえてくるのでなんだろうと思っていたらなんと甲羅干しをしているカメが飛び込む音だそうである。
 ここで一句、「古池や カメが飛び込む 水の音」? ?すまん、すまん、凡人にはこの程度の出来で芭蕉の俳句をもじるのが関の山、というところである。ご勘弁願いたい。
 角度を変えて言えば、芭蕉師匠もこのような思いだったのかなぁ、と偲ぶところである。
そんなこんなで金沢文庫まで歩いて戻り、地面が熱くなっているのでクウをスリングに入れて駅まで抱えて歩き、どこまで甘えさすのかねぇ。
 帰りは電車の中で膝の上で熟睡なのである。まぁ、おかげで私も運動になっている部分もある。
そんな風にして半日を過ごして有意義な時間となるのである。

485、鎌倉文学館

5月5日(火)、まさに初夏を思わせるこの日、鎌倉文学館へと出かけた。着付けを習っているという姪っ子と、着物を着ての訪問である。
確かにこのような場所には和服がよく似合う。
 ただ、バラの時期には半月ほど早かったようで、まだほとんどの花がつぼみ状態であった。咲き誇ったころにはさぞかし感動するものがあっただろうね。
 ここは、加賀前田の殿様の別荘だったところだそうで、そのころにしては洋風建築でその贅の深さがしのばれる。

また当時の作家たちが鎌倉に住んでいたころの資料がたくさん展示されてあって文学好きな私には?大変興味がそそられるものがあった。
 お昼は長谷駅近くのレストランを予約しておいたのでゆっくりと食べられたが、ゴールデンウィークの鎌倉も人出が大変で、鎌倉には何度も来ているがこんなことは初めてである。
 まず、JR鎌倉駅では乗降口が一方通行で規制され、江ノ電の乗り換え口は閉鎖され、一度出てから行列に並んでからの乗車、それすらも規制があって、一度では乗れなかったのである。
 また鎌倉市内の歩道や道路が狭いので、はみ出して歩いていたり、バスが来たので乗ろうとしたら超満員でこれも断られたり、しまいには長谷駅から鎌倉駅まで歩いてきたね。
 私は大丈夫だが和服姿にはきついものがあっただろう。
昨日の猿島といい、今日も鎌倉といい、休み、特にこのゴールデンウィークは出かけないのが一番だねぇ、とつくづく思いながらもゴールデンウィークでなければ済まされないこともあるからねぇ。
 いやはや、今年はいつにも増してのゴールデンウィークであったような気がする。

484,猿島

ゴールデンウィーク毎年この時期は、高校空手の神奈川県大会が横須賀で行われ、私の元会員も出場するので行っているが今年も、5月4日(月)に行ってきた。
 ところがついた時間が丁度昼休みが始まった時で午後の部は1時間半後に行われるという。実はこの日細君と午後猿島へ行くという予定で来ているので、選手に激励だけして失礼した。
 大会会場裏の公園から猿島行きの渡り船が運行されるので、大勢の人に並んでようやく行けた。
細君の、母君の兄様が戦争中海軍軍人でこの横須賀の海軍学校を出て猿島で生活をして出港して帰らぬ人となったという、以前から一度は来たいと思っていたが、細君の休みが平日で、平日は就航していないということで、今日ようやくの念願がかなったのである。
そういう事情なので空手選手には了承願いたい。
 猿島は無人島だというが、砂浜にはたくさんの人がテントを張って今日一日で何千人の人が訪れたのだろう。とにかく船が250人定員ぐらいの満杯で、ピストン輸送である。
 渡ってみると戦争当時の面影が数多く残っており、おじさんもここで生活をしてここから出て帰らぬ人となった。70年を経てもその当時の様子がうかがい知れる、ここは合掌である。
 このような場所を訪れるたびに、先人の尊い犠牲の上に私たちがこの平和な時代を過ごされるということに改めて感謝の気持ちになるね。
また、 古くは日蓮上人が流れ着いたともいわれその洞窟のところも行ってみたが、歴史の深さが知られるところである。この洞窟の前でいつものように写真を撮ったのだがご覧のようにハーレーションをおこしている。まさか・・・
 そのほか資料を見てみると、テレビマンが「仮面ライダー」の撮影でショッカー軍団の基地があるところとして使用されたそうである。
いきなり、青春時代にタイムスリップして思わず苦笑いである。
 一回りして、三笠公園に戻り、園内のショップで記念品を買い、東郷平八郎大将の銅像と記念撮影。
何回も来ているこの公園だが今年は猿島へ渡ることができて、本当にによかった。

次は細君の母を連れてこなければいけないねぇ。

483.横浜田中屋

4月28日(火)、細君の休みと詩吟の会員夫妻との日程を調整して4人で、以前私が行ったことのある、横浜駅近くの割烹「田中屋」へと赴いた。
 この田中屋は昨年12月に訪れて、雑記、№466でも紹介してあるが、今回は前回と違う紹介をしたい。
今回は一階の「月の間」で詩吟の声を出してもよいということで了解をもらっている。
 昼の会席料理で和食が次々と運び込まれ舌鼓を打っている間に時間が過ぎていき詩吟どころではない。
食後に詩吟「坂本龍馬を思う」を軽く吟じてパワーをいただいた感がする。
特に細君は5月10日のコンクールでこの題を吟じるそうである。おりょうさんのパワーをいただいたかな?
 部屋にはおりょうさんの写真が飾ってあるのでお店の了解を取って皆さんで写真に納まった、なかなかあることではない。
  しかし、こんな近くに歴史の舞台があるのである、うれしいねぇ。
 食後は皆さんそれぞれに証があるので散会となったが、ほんのひと時であったが旅行に来たような錯覚を起こさせる出来事であった。
私の周りには坂本龍馬ファンも数多くいる、小遣いをためてまた来たいところである。

今回の私のTシャツは、同行した、久川先生に頂いたものである。久川先生は漢詩教室にも通い自分で作られて、私も勉強のお誘いを受けているのだが、これ以上は時間の調整がとれないので遠慮申し上げている。
 Tシャツには、春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聞く・・と書いてあり、まさに今の時期にピッタリな、有名な漢詩である。
こんなところにも喜びがある。