大井町で、設計事務所を営む社長、荒井さんである。
この人も長い付き合いで、20年ほど前は、目黒の詩吟教室に行っていた頃は一緒に習い、帰りはよく途中下車をしてカラオケに行った、「演歌の竜」と異名をとるほどのカラオケ同志であった。
詩吟をやる人はおしなべてカラオケがうまい、声量やコブシが演歌に通ずるのだろうか・・
それでお互いに張り合って歌うので順番を取るのが大変である、譲り合いの精神・・・ナ~イナイ・・この場にはなかった。
今回何年かぶりに会って、懇親会でも隣に座り、いやぁよく話し込んだ。
今夜も久しぶりに終わったら行こう、という話だったが、どこかではぐれた。
あの当時、お母さんのために自宅を新築した時に家庭内エレベーターを取り付けていたのだよ、びっくり。
大井町御殿というと本人が照れるので豪邸ということにしておこう。
今、一人今回は大会会長・森川宗家を補佐する副会長として活躍をした中島さんである。この人も現役時代は誰でも知っている大手広告代理店の部長をしていたという慶応ボーイである。
我が家の近くに住んでいて、愛犬シーズーを買っていて名前が「ダグラス」そう、あのハリウッドスター、カークダグラスにちなんだそうである、まぁまぁ、大変だね。
散歩のついでに家にお邪魔したこともあって気楽に行けるのである、最近体調を壊して心配していたがぼつぼつ復活して何よりである。
このように、詩吟の仲間というものは大変にありがたく、私の人生においても大きな比重を占めているのである。
月刊空手道で「温故知新」として毎月連載させていただいているがこれも詩吟を習っていればこそである。
人との出会いが人生を豊かにさせ、大きな財産となっていく、そう思わずにはいられない。
そうして私は空手に専念していけるのである。
ありがたきかな、ありがたきかな・・・皆さんの幸せとわが人生に乾杯!
321、生麦教室
こんどは生麦教室を開いてくれた、三浦さんの紹介である。
人生も詩吟も先輩、相方と田舎が同じで、私たちの式の時は立会人となっていただいた。
この人も、今の詩吟の会では宗家を補佐する重要な役であり、現役時代は公務員で所長をしていた人物で、なかなかの人物でもある。
詩吟の若手の会で活躍するころに一緒に動き合宿なども行うなど、それは長い付き合いであり、
生麦の家に盆や正月など遠慮せずに訪ねては、飲んで食べてお世話になった。
今でも年末の29日には詩吟の仲間が集まって忘年会を兼ねた納吟会を行い20人近くが盛大に吟じるのである。
今回の詩吟大会でも実行副委員長として働き、大変につかれたと思うが、私どもと最後まで付き合い我が家へ初めて来てもらった。
私の幸せを身内同然に喜んでくれる数少ない一人である。
320、幕張本郷教室
私が東京蒲田で空手を教えだして22年、その1年後に幕張本郷の上ノ台小学校でも教えるようになったのだが、そのきっかけを作ってくれたのが、この御仁和田さんである。
その前から詩吟で知り合って彼は大分出身、私は宮崎、年齢も彼はひとつ年長でよく気が合い、よく週末は幕張本郷の彼のマンションまで遊びに行ったものであった。
彼の息子と娘、隣の仲良しの子供二人を入れて、日曜日の今の時間に始めたものだった。
日曜日の午後など誰が来るのだろう、体育館では年配の夫婦が卓球をやっていて仲良く使用していたのである。
それでも彼が会社の部下を連れてきたり、近所の小学生に声をかけたりして少しずつ増えて行った。
和田さんも一部上場の証券会社の部長までなって、その後自分で会社を興した人なのだが、顔が広くていろんな人を連れてきた。
それも、詩吟というものが取り持つ縁なのである、上杉が空手教室を開く、と言ってよく動いてくれた。第一回の上杉会大会では取引先の一部上場会社をスポンサーに持ってくるなど、よく動いてもらったねぇ。
今は、年に一度か二度詩吟の会で会うくらいなのだが、それでも気の置けない仲なのである。
今回は、懇親会後にカラオケに行った後強引に我が家に連れてきた。
私の相方とも昔は詩吟教室が同じでよく知っている仲なのである。
我が家に来たのはその仲間でのんびりしたねぇ。
おかげで幕張本郷は、今では上杉会館の中でも一番の会員を誇る教室になった。
日曜日の午後なのによく集まったね、ここの井戸を掘ったのは、和田さん、あんただよ! 感謝!
319、あゝ青春
10月2日の詩吟大会の懇親会が、横浜相鉄線、天王町駅前の中華屋で行われることので、私は早めに行って、近くの洪福寺交差点へ出かけてきた。
今から40年ほど前、私が宮崎から上京して、新横浜の運輸会社を半年でやめて、横浜市西区の洪福寺交差点にあった牛乳屋に住み込んで1年ほど働いていたところである。
東京に移り住んでからは行った記憶がないほどのところである。
今は、ジーンズショップやマンションとなっている、が、確かにここに牛乳屋があってこの2階に住み込んで、国道沿いの交差点で、夜中に交通事故や、大型トラックが通るたびに2階まで振動が伝わってきていた。
ここの前には横浜でも安売りの店として有名な松原商店街がありいつも賑わっていた、この日も御覧のように人で一杯である、懐かしいねぇー、一通り歩いてみた。
この公園があったこの角に乾物屋さんがあったのだが、今は駐車場になっていたりしているがなんとなく覚えがある。
牛乳屋の裏には、映画館があってたま~に見ていた。「ライオン座」といってなかったかな、あのころは「女囚・さそり」や「御用金」であったか、東映系がよく放映されていた。
よく行っていた銭湯があったよな、「保土ヶ谷浴場」・・・あったよ、あった、今は営業していないみたいだが、入口と煙突は今も残っている。
あの頃はボクシングジムにもシャワーがあって風呂は節約していたが、シャワーは水シャワーだけだったので冬はさすがに銭湯に行っていた。
懐かしいねぇ―このあたりは西区と保土ヶ谷区の境である。ほかの商店街などがあまりにも様変わりしている、時代の流れといえばそれまでなのだが、やはりそれだけの年月を経ているのだねぇー。
私も年を取るわけだぁ、そんな中で青春にタイムスリップしたひと時でありました。
こんな時間もいいもんですねぇー。
318・第41回吟道精脩流砂子吟志会・吟道大会
10月2日(日)、横浜市保土ヶ谷区星川にある、保土ヶ谷公会堂において毎年恒例の吟道大会が行われた。
宗家信条は、
知仁勇
詩を吟ずることによりその情(こころ)を知り
詩を吟ずることによりその仁(じん)なる心にふれ
詩を吟ずることにより その勇なる身(こころ)を呼び起こす
この大会での私の仕事は、進行係、中原支部のメンバーで行うのである。
次の出番のメンバーがそろっているかどうか、いないときは呼びに行ったり探したり、舞台のそででチェックを行ったりと、それなりに忙しい係りでもある。
空手の大会では、本部席に陣取っている私でも、このような詩吟の大会では若手であり頼りにされる存在なのである。
だから空手大会でも裏方の苦労ご苦労様はよくわかっているつもりである。
詩吟というとどうしても年配者が多く、中には皆さんの中では歴史の出来事としかとらえられないであろう、先の第二次世界大戦に日本軍として、お国のために戦ったというような人もおられて、つい私どもも襟を正すのである。
そういう人が、乃木希典作の「金州城下の作」や「城山」などを吟じられると思いが伝わってくるようである。
また、堀越学園という有名な幼稚園が中野にあるがそこの園児たちが大勢で来て、「月の砂漠」を吟じて見せたりとけなげな姿に涙が出るほどであった。
空手でもそうだが幼児の一生懸命な姿を目にすると、感動を覚えるね。
大会前夜にはスタッフが集まって打ち合わせを行うなど、多くの裏方のおかげで成り立っている大会である。
私なども以前は手伝っていたのだが、今は当日の手伝いが精いっぱいである。
大会終了後は、関係者が集まって懇親会を隣駅の天王町駅前の中華店で行ったが、ここ天王町は私が、若いころ近くの牛乳屋に住み込みで働き、ボクシングに青春をかけていたところでもあり、あまりの懐かしさに早めに行って近くを一回りして昔の感慨にふけった、すっかり様変わりしているのだが、そのままのところもあって感激をしたね。
そんな思いをしながら、懇親会会場へ急いでもどり皆さんと久々に顔をあわせて懐かしい話に花が咲き、その後は近くのカラオケで何人かで寄って、我が家へ強引に誘ってその日を終えた。
忙しくも充実の1日であった。
317、クラスメート
この言葉から響いてきそうな淡いイメージから程遠いメンバーで誠に申し訳ない。
思えば40年前の高校三年生、同じクラスのメンバーなのである。
今年延岡商業高校が90周年記念だそうで11月に同窓会が開かれる連絡をいただいて、帰れそうもない返事をしていたら、今度戻ったら会おう、ということで幹事の高島君と急きょ会うことになって集まった次第である。
会えば40年前の話が中心になるのだが、今思ってもあのころは楽しい毎日であった。
その顔ぶれが今や子供や孫の話など、もういいおじいさんである・・・しかし、昔の話になると目が輝いていろいろとここでは書けない話がポンポンと出てくるのである。
マスターの工藤君は、ここ船倉という町で「かー坊」という焼き鳥屋を経営して18年にもなる、今夜も(19日)休日だというのに、カウンターから座敷まで満席である、頑張っているねぇー。
高島君は、学年の同期会のまとめ役、会長である。忙しい中、皆さんの連絡係となってよく動いている。学年の同期会は、今は5年ごとに行っていて今度は60歳になった時だそうである。
連絡がつかなくなった人もたくさんいて本当に大変だね。
今一人が私の隣り町で片田というところがあるのだがそこの住人である牧野君である。
大変活発な人で陸上部ではやり投げで頑張っていた人間である。
こんなメンバーと毎日教室でワイワイガヤガヤ・・高校三年生は本当に楽しく毎日学校に行くのが楽しみでしょうがなかった。
私の人生の中でも、忘れられない一年間だね。
こんなにして振り返って、話ができるのも今も幸せだからできる部分もあるのだろう、また、人によっては振り返りたくない人もいるのかもしれない。
そこを喜んで振りかえられる私たちは、幸せなんだね。
青春とは意気であり、熱であり、かえりみるときの微笑みである
誠にこの言葉を実感したひと時であった。
316、バーベキュー
延岡で家族がそろうと、バーベキュー大会となるのだが、台風の影響で庭ではできないので、ガレージの車を出して急きょバーベキュー会場である。手慣れたもので、鉄板もガスバーナーで火をつけるなど用意周到である。
何年か前にこの雑記でもバーベキュー大会を掲載したことがあったがあのころよりも子供たちも成長して今や立派な鍋奉行である。
おかげでゆっくりと味わうことができた。
焼酎は、霧島会社の初代社長の名前である「吉助」だそうである。
ゆっくりと飲んで食べて、みんなでワイワイガヤガヤ、これも楽しいひと時である。
一年ぶりに兄弟がそろって話し合うことは、子供のことや村のことその他もろもろ・・
今回は、私は二泊三日の短い滞在である、有意義に過ごさないともったいない、こうやってみんなと話すことがまた、新たな気持ちにつながるのである。
期待の末っ子、名前は武蔵、相変わらず名前負けしているように見えるのだが本人には期するものがるのであろう。
今後に期待したい・・・・・無理か?
そんなこんなで楽しい一晩であった。
315、敬老会
毎年一回は、田舎に帰郷するのだが今年はお盆に帰れなかったので、その旨連絡するといっぺんくらいは戻って来いという母親の言葉で、敬老の日に兄弟全員集合ということになった。
延岡の実家に、宮崎市の弟と、神戸の妹、東京の私がそろって、敬老のお祝いだね、村でも敬老会というのがあって車いすを押して行って
久々に田舎の敬老会を見たね。
思えば、私が50年以上、もう半世紀にもなるか、今大阪にいる叔母に踊りを習って公民館で披露したこともあった。
そのころ、アメなどをもらって喜んでいたのを覚えている。
閑話休題
兄が歌を披露するというので、兄弟そろって見に行ってみた。弟と私は詩吟を習っているのだが、兄はカラオケ教室に通っていた、さすがにうまいものである。
司会の男が私の幼馴染の同級生の尾崎君である。私を見つけて今歌った人の弟さんが東京から戻っていると紹介して一言挨拶をと言われて何とか挨拶をしたが、相変わらずひょうきんな男である。
宴会は歌や踊りなど盛り沢山にあり最後は、「ひょっとこ踊り」でしめていた。これは昔は隣の日向市の踊りであったと思うが今は延岡でも踊ったりしているんだね、で、兄が市役所時代に習い覚えていて指導もしたとかで、また一緒に踊りの輪の中にいたよ。
そんな中懐かしい顔に会うやらで、楽しいひと時であった。
こうやって帰る故郷があって、楽しいひと時を過ごすことによってリフレッシュになり、また改めて頑張ろうという気持ちになる。
この日のために帰ってきたのだからね、その甲斐があろうというものである。
314、称名寺デビュー
秋の気配が漂う頃かと思っていたが、まだまだ残暑厳しい9月12日(月)、相方に称名寺へ行こうといわれて出かけた、いよいよクウの称名寺デビューである。
といってもまだ、生後7か月、どのくらい行けるかと思っていたが、暑さのためアスファルトの上を長い時間歩けなくて途中抱っこしたりしながらたどり着いた。
山の段差もおぼつかなくて横道を登るのであまり長い時間は無理かな、などと思っていたが、相方が昼から用事があるので制限時間もあって、今回は、頂上の八角堂まではいかず、真ん中あたりか北条実時の墓とされているところまで行って戻ってきた。
つい、プウチャと比べるのだがプウチャは興奮してどんどんと登って行っていたが、クウは性格の違いだろう、警戒しながら歩くので、これだったら、マンション近くの旧呑川の緑地を自転車で走らせたほうが運動になると思ったね。
それでも、うちに来てから3か月半、初めて遠くへ行ったからこんなものかね、山の自然など初めてであっただろうし、クウの中にはどんな印象だっただろうね。
帰りは、称名寺から金沢文庫駅までアスファルトも暑いだろうということで、私が持ってきたリュックに入ってきたが、まさにお犬様様だね。
帰ってきて今はクーラーの効いた部屋で満足そうに寝ている、犬なりに幸せであろう・・と思っている。
今回はたまたま、古いTシャツを着て行った。
上杉会館最初に作成したTシャツである。表は上杉会館のマーク、裏には空手道上杉会館、東京ジャパン、とローマ字で描かれているのである。
このTシャツもこれ一枚のみとなった、ちょっと記念のショットである。
暑い夏から、なかなか出かける機会もなくて雑記もしばらくぶりである、これから涼しくなる秋にかけて機会も増えよう。
313,合同稽古
8月20日、六本木の会員たちが川崎教室の厳しさを学ぶために出稽古にやってきた。
川崎は初めてという人もいてなかなか新鮮であった。
稽古内容は同じなので戸惑うこともなく進んだが、基本中に、だらだらしている子は指導員に叱られるなど、ピリピリとしたムードは六本木の会員にとっては、びっくりであっただろう。
上杉会館の教室は何か所もあるが、こんな厳しい言葉をかけられる教室はほかにない。何しろ「やる気がないなら帰れ!」など、私でも言えない言葉が投げかけられるのである、いきおい生徒も真剣になろうというものである。
そんな言葉も子供を持つ親が言っているのでそこは親心というものが伝わってくるのである。
そんな雰囲気にのまれてか、六本木教室の生徒も真剣に行っている。いいね、これだけでも来た甲斐があろうというものである。
ミット蹴りでもレベルが違い、組手でも1,2回で防具を脱ぐ六本木と違い、休めというまで、続けて行う川崎教室のちびっ子たち。この積み重ねが違うのである。
帰り、駅までのバスの中では反省を兼ねた話が出ていた。
今後の稽古に影響を与えることでしょう、大変に素晴らしいひと時でした。
六本木教室の諸君、これからもがんばってまいりましょう。