432、称名寺

1月27日(月)、天気もおだやかで行楽日和、超・安近短の行楽ということで称名寺へ出かけようということで、先週に続いてのハイキング、今月二回目となる称名寺行きである。
 電車に乗るのも歩いていくのもすでに勝手知ったる行程で、散歩の延長というとらえ方だね。
クウもそれほどの興奮は見せず、散歩の延長かな。細君の休みは月曜日で、その日に出かけるとどこの観光地も休日明けでガラガラである。中には月曜日が休みで困ることもあるがたいていは助かるね。
 この日の称名寺もそう、境内に入ると幼稚園の生徒の散歩か?そのグループがいただけ、裏山のハイキングコースも一組にあっただけ、ほぼ、貸切状態での散策でこれにはクウも大喜び、私たちにとっても安心して散策できた。
 ただこの日は風もあって、立ち止まって休憩を取るとすこしは寒い、頂上の八角堂では短い時間の休憩であった。
風が強くて快晴ということは眺望がいいのである、この日は珍しく富士山が見えて感動。
写真ではわかりにくいが肉眼ではきれいに見えたのである。
 横浜のランドマークタワーや横須賀の海軍基地もよく見え、先週行った鷹取山もだいたいの見当でよく見えた。
京急駅のポスターで称名寺を知ってから何年になるのだろう、桜の季節も素晴らしいものがあり、何度も訪れている。
四季折々の顔を見せてくれ、今回も初冬の風景に春を待つ息吹が感じられる。境内ではロウバイが咲いており、ここにも感動。ロウバイとはよく言ったもの、確かに梅の花を蝋で作ったような感じである。

 相変わらず私のでかい顔とのコラボだが、ロウバイ単独のほうがピントがずれているという今回の作品、これでしばしの辛抱をお願いしたい。もちろん撮影者は私ではありませんぞ。
 鎌倉の東慶寺であったかな、あそこにもいくつか咲いていたのを記憶している、意外とないものだね。
ロウバイの群生というのがあったら見たいところだが、苗が高いのでないのだそうである(細君談)。

 そんなこんなで今週もリフレッシュ、気持ちよく週を過ごせるということはなんと幸せなことだろう。
最近では、平凡な一日に感謝をするようになったがこれも年のせいなのかねぇ。
ギラギラとした青年時代もあった。
今は、松尾芭蕉や西行法師、良寛さんなどの年代をほうふつさせられるようになった。別に憧れているわけではないが自然とそういう風になってくるのかね。
 しかし、それもまたよし、というところか・・さもあらばあれ、
のどかな冬の一日であった。

431、鷹取山、神武寺と磨崖仏

2014年1月20日(月)、奇しくも大寒、という割には日中は穏やかであった。以前より細君が鷹取山に行ってみたかったそうでこの日の決行(というほどでもないが・・)となった。
 蒲田から京浜急行線、快特で金沢八景駅より逗子線に乗り換えて二つ目神武寺駅に初めて降り立ったが、静かでいいところだねぇ、余生はこんなところで暮らしたい、なんて言っていたがどんな余生が待っているのやら・・

私も以前より名前にひかれて来てみたかったところである。クウも一緒、親子三人?でのハイキングである。
 線路沿いに戻って鷹取山登山口から入って神武寺を目指す、雨の日は足元が悪いと案内書には書いてあったが、沢登みたいな感じで確かに晴れた日でもなければ転ぶ危険性もあるだろう。神武寺へたどり着くと鐘楼があり、逗子八景のひとつ「神武寺の晩鐘」として知られているそうである。標高は83mと記されてあり、結構な距離でもっと高く感じたが、昔は山岳信仰の場所だったそうで険しい山道でなかなかの運動になったな。

 鷹取山の山頂は標高139,7m、大したことはないのだが大げさな言い方だが縦走をしてきたみたいで結構高さを感じる、また山頂からは360度のパノラマでなおさらである。
 昔は建築用の石が取れたところだそうでそのあとが今ではハッカーたちのちょうどいい練習となっているようであちこちに穴ぼこがたくさん見え、この日も何組かの連中がロープを持参して上っていたね。
 下るときに磨崖仏(まがいぶつ)があって昔の信仰で作られているのかと思ったら昭和40年ころに依頼して作られたのだという。

 山の感じが千葉県ののこぎり山に行った時と似ていたが、千葉のほうが山深いね。
帰りは追浜駅を目指して反対方向から降りて途中住宅街を通るなどして今一の趣であったがそれでも結構歩いた。
 追浜駅近くに来ると雷神社なるものがあって珍しい名前にひかれてお参り。
また、相方は途中の植木屋さんで花の咲いた鉢を買い求め、荷物であるが蒲田などでは売っていないという、ま、本人が持ち帰るのだから文句は言えないが。
 帰りは追浜駅から京浜急行線で金沢文庫で快速に乗り換えて2時半ころには蒲田に到着、時間は十分余裕があった。
それにしても半日で、このような別世界に行けてリフレッシュできるなんて便利だねぇ。
 今年も健康で参りたいものである。

430・2014年正月三が日


快晴のもと、2014年を迎えまして改めて、おめでとうございます。

2014年の元旦は、マンションの屋上より初日の出を迎え手を合わせ、わが家では甥っ子二人をよんでおせち料理を頂き、夕方には近くの蒲田八幡様に初もうでをしてきました。
 二日目は、天候もよかったので早速金沢文庫駅近くの称名寺へと向かい、ハイキングコースをクウとともに散策してきた。お参り客も多くて、正月は社務所も開いているので御朱印を頂戴してのどかな一日を過ごした。


 3日は、坪山先生の道場で新年会を開くということで毎年招待を受けるのだが、今年は日程が取れたので相方とともに参加することにした。
 ところが、有楽町駅横で火事があり、上野~品川間は運転中止となっていて大きく迂回をすることになり、予定よりなんと2時間半も遅れて到着をした。
 「豊春駅」まで、坪山先生に迎えに来ていただいたがその間坪山先生は飲まずに待っておいてくださったそうで何とも申し訳ないことをした。
 1時開始で私たちが着いたのが2時近く、会はすっかり盛り上がっており、駆けつけ・・杯とかで次から次へとお酌に来られ私もすっかり酔っぱらったねぇ。
 正面には大先生方が着座されており、まずは挨拶をして改めて乾杯となった。
色々な会の先生方も来ておられて挨拶をしてまた今後も大会協力などをいただくことになった。
 政治家の先生方には、観光大使の名刺である。使い分けながら地元延岡をも宣伝していかなければならない。
会も盛り上がってまだまだ続くのであろうが、何しろ帰りを考えると早めに出なくてはならない、ましてや、今日は二人とも留守にしているので、クウの散歩も考えなければならない、いやはや大変ですな。
家に戻ってクウと近所を一回り、いや、二回分大きく遠回りしてきて我が家の正月は終わりである。
 4日からは、稽古が始まる、今年も昨年に劣らないよう頑張っていきたいものである。

429、永遠の0


やっぱりといおうか、とうとうといおうか、見てきちゃったね、永遠のゼロ、原作で感動したものを映画化されると結構自分の意図するところとは別なものに出来上がって失望することが多く、あまり見る気はしないものであるが、気になって見ちゃいましたねぇ。
いつもなら、相方と行くと一人が1000円になるので二人で行くのだが、今回は泣いてみっともない恰好を見られるのはいやで一人でこそっと1800円出してみてきた。場所も蒲田東宝でここならば観客も少ない、案の定年配の人が12,3人なので端っこの後ろで誰に気兼ねすることもなくゆっくりと見れた。
 
この映画は岡田准一が主演なのだが、この時からイメージが違うのだはないかと思っていた。テレビの「SP]であったか、カッコ良いドラマでそのイメージもあって、カッコ良いというよりも、もう少し優しさのにじみ出た、泥臭いと言おうかね、もう少し日本人的な顔の人が演じるとより親近感が持てるのではないかと強く思っていたので、それほど映画には興味はなかったのである。
主役は二枚目がやればいいというものではない、原作を読んで、映画は私のイメージとは違っていたけどね、だけど岡田君は立派に役に溶け込んでいた。ちなみに岡田准一、来年のNHKの大河ドラマの主人公を演じるそうで今が旬なんだねぇ、勢いと言おうか、乗りを感じた。
 
 閑話休題、
 映画の冒頭、ゼロ戦が敵艦に突っこんでいくシーン、この意味がわかっているので、映画が始まるそうそう泣けた。
内容は映画的にもなっていたし、私が読んだのが2年くらい前になるのかね、細かい部分は覚えていないので新鮮にも見えた。
この映画の脇役がいい、なじみのベテラン俳優たちは知っているが、田中泯という俳優は最近見かけるようになったが味があって渋いねぇ。
 原作は138万部であったか、大変売れたみたいでいまだに戸塚の有隣堂では、ベストセラーとして並べてある。
映画を先に見た人にはぜひとも原作を勧めたい、久々の感動の本であった。
それにしても思うのは今の平和のありがたさである、この平和も幾多の歴史の上に成り立っていて、このような大勢の犠牲者の上に成り立っているのである。私たちがご先祖様をお参りするようにこのように日本の礎となった人をお参りするのは当然ことといえよう。
 私の相方の母親の兄も先の戦争では海軍特攻隊として散ったのだという、当然遺品はないのだが福島の家に行くと墓参りをする。
 当時の軍の機密上内容は話せなかったのだが雰囲気で最後のあいさつに来たのがわかりその時の兄の顔は今でも忘れていないという話を聞いたことがあった。他人事ではない、身近にそういう話があるのである。
 
若いころ靖国にお参りに行くと高校生らしき二人連れがいちゃついているのを見るとなんと不謹慎な、と思って憤りを感じたものだったが、今になって思うと、ここに眠る人たちはこんな平和な、自由な日本が来ることを願って犠牲となったのではないかと思い、泉下では喜んでくれているかなぁ、なんていう思いに変わってきたのである。
 今も世界では戦時中のところもある、この平和な日本に改めて感謝をしてお参りに行ってこなくてはいけないと思った。
いっぽう、「治にいて乱を忘れず」この平和のおかげで平和ボケした日本人、アジアにおいても緊張した関係のある国もある。二度とこの悲劇を繰り返さないよう、しっかりと足元を見つめる必要もあるであろう。
 
 堅い話になったが、今年も感謝のうちに一年が終わろうとしている、誠に、感謝の気持ちである。

428、年末の熱海


暮れも押し迫った12月16日、以前から年明けに旅行を誘われていたが、予約がいっぱいでこの日になった。
熱海の「渚館」という料理旅館で、ワンコウも一緒できるという、場所も熱海サンビーチ前で目の前が熱海の海岸である。
 快速アクティーで来ると1時間ちょっとである、クウもネットに入れて一緒に来たがそう遠くはないね。
熱海につくと観光客が以前よりか増えている、ただ駅前が工事中で寂しい感じがするが工事後にはまた賑わいが戻ってくるだろう。

 駅から散歩がてら歩いて降りて行った。
今年は5月に一族でここで写真を撮ったがその時以来かな、懐かしさもあったね。渚館についてさっそく風呂めぐりである、私はゆっくり休んでいたが仕方がない3か所は付き合ったかな。
 屋上の露天風呂、貫一の湯というところが眺めがよくて確かに予約でいっぱいになるのだろう。
熱海の花火大会、初日の出など臨めて最高のロケーションである。リピーターが多くて来年の梅祭りまで予約でいっぱいなのだそうである、無べなるかな。
 また料理が素晴らしいねぇ、ペットと泊まれるホテルというのはたいがい料理が決まってくるのだが、ここはペット用の部屋が何室かあって一般の部屋を専用にしているのだというので、人間並みの扱いで感激したねぇ。
 ペット用の風呂もついているのだが、前日にシャンプーをしてきたのでクウは入る必要はなく脱衣場でおとなしく待機である。


今夜は泊りなので、夜になって運動を兼ねて散歩をしてきた。年末とはいえ平日の夜、熱海銀座という商店街は御覧の通りの静けさ、ネオン街のお兄さんも手持無沙汰でぷらぷらしていた、まさかワンコウ連れの私に声をかけてくる人はいない。
 夜遅く屋上の露天風呂から眺めたおぼろ月が幻想的に感じられ旅行を感じたことであった。
月を見上げると、つい、詩人・李白の「静夜思」頭を挙げては山月をのぞみ・・・となるのだが、同じ眺めるといってもその時々の状況によってずいぶんと感じ方が違うものだねぇ。
 今夜の月は幸せを感じる眺めであった。
開けて17日、早くからクウの散歩に付き合わねばならない、ひんやりとした空気の中、まだ目がさめきらない熱海の朝を散歩するのも一つの風流でもある。
 海に面した部屋からは日の出がよく見えて、こういうところにも感動がある。これでは元旦なんぞ予約が取れるわけがない、今日だけでも満足としよう。


 朝10時のチェックアウトに合わせて風呂にまたはいってくるなど風呂好きには付き合えない。
旅館を後にして散歩がてら熱海駅までゆっくりと歩き、快速アクティーで昼頃には戻ってきたが
 約一日の旅行であったが十分に満喫をしてリフレッシュした年末であった。
正直年末の忙しい時期の旅行なんか落ち着かなくて気乗りしなかったのだがいいところに行って来れたので満足である。
 さて、これからねじを巻いてフル回転である。

427・戸塚教室・2013


12月8日、戸塚教室で稽古後に忘年会を行うということで、参加するために久々に2部まで残って稽古に参加してきた。
先日に全国大会が終了したばかりなので欠席者もいたが当然だね、激闘の疲れもあるだろう。
 この日は大学空手部の山田も参加して指導と共に行い、納会にも参加した。稽古は22日が最後となるが、今年は保土ヶ谷での演武会も予定されているのでこの日となった。

 2部の一般の部では人数が増えたねぇ、これでも欠席者がいるのである。以前来た時は横一列であったが今日は2列になっての稽古である。
 相変わらず86歳の藤島さんは頑張っておられる。脇で見ているとみんなと一緒に腹筋運動なども参加してやっておられるのだ、自然と頭が下がるねぇ。
 基本と移動稽古にも参加して行うなど、とてもとても私などがまねのできるものではない。
私が86歳など私の人生設計には組み込まれていないので想像つかないのだ。
ミット蹴りの時、私が持って受けたのだが結構強い蹴りを出していた、大したものである。
 健康の秘訣は毎晩の熱燗で
キュッと一杯、らしいのだそうである。
 今日は飲み会ということでみんなに合わせて焼酎のお湯割りを飲んでいたが健康そうで何よりである。

今は、この戸塚教室が一番の熱気を感じるのだが勢いのある時に行けるところまで行くのが一番で、これがずっと続くわけはないのである。
 私は次の用事のため途中退座をしたが、結構盛り上がったことだろう。
奇しくも今日は大東亜戦争開戦の日であるが、こうやって飲めるということは幸せなのである。
これも先人の貴重な犠牲の上に成り立っていることを改めて思ったところでもある。
 来年は戸塚をはじめさらなる発展が期待できそうである。
                             今年も感謝!

426、晩秋の称名寺

11月25日(月)お昼、曇り空ながら称名寺へ行こうかといつものことながら急に話が出て、行って来た。
横浜市金沢区まで行くのだが、京急快速電車に乗れば30分程度で行ける。
 昼の時間は電車もすいていてワンコウ連れでもゆっくりと乗車で来て簡単に行けるのである。
カレンダーによれば先月の7日以来ということなのであのころと紅葉の色具合が全然違う、むしろ今はすでに盛りを過ぎた感がある。風に落ち葉がさらさらと音を立てているようで、晩秋というよりか初冬という表現でもいいかと思うくらいである。
 でもまだまだ紅葉も残っている、ここは晩秋、と表現すべきだろう。
いつものハイキングコースを登って行き八角堂まで行くのだが今日はTシャツでもいいくらいの気温であった。さすがに頂上では風もあって少しは寒さを感じたが全般的には暖かかったほうである。
 はるかに横須賀湾猿島が見える、相方の叔父にあたる人が第二次大戦の折に横須賀から出航して帰らぬ人となった。
何も考えていなかったが、つい口づさんだのが「異国の丘」生きて帰って故郷の土を踏みたかったのだろうに、と思うと胸が詰まる、物思う秋・・・なのかねぇ。
 八角堂に目をやるときれいな花が咲いている、山茶花なのか、花にうとい私だがたまに心を奪われることもある。
これも秋というものがなせることなのかねぇ。
 元気なクウに我に返り、帰り道を戻って降りてきた。
本堂から見る風景にも秋を感じさせ、いいねぇこんな私でも見とれることがあるのである。
 そうしながら金沢文庫まで戻って一路蒲田へ。なんと2時半には戻りあたかも近所を散歩してきたかのような時間であった。
 しかし、中身は秋を十分に堪能してきた半日であった。
今、このパソコンのわきでクウがいびきを立てながら眠っている、幸せな午後のひと時である。

425、第一回 関東延商会

私の母校延岡商業高校の関東地区の同窓会をJR蒲田駅西口のプリンス会館において開催され、36名の出席を得てにぎやかに楽しく行われた。
 他の高校に比べると全然少ない会ではあるが、まずはスタート、これからである。
地元の高校、延高、西高、東校の代表の参加をいただいて、延岡から参加してくれた、副会長二人の一人浅田さんの乾杯で宴会となった。
 いつものように声をかけてよく集まってくれるのは、第5回卒業生の先輩方である。今回も10人が集まってくれた。
私の後輩にあたる22回卒業生は女性7人が声を掛け合って参加してくれて賑わったねぇ。
何と今回は現役の大学生が参加するなど大変なことである。他の高校の同窓会でもめったにないねぇ。
今回は学年別も増えての参加となったようである。
 宴も盛り上がったところで延岡の盆踊り「ばんば踊り」をかけてみんなで踊るのだが、私は今回は酔ったようで踊りを思い出すのに時間がかかったねぇ。
 そうやって盛り上がっているうちに校歌斉唱となり、西高代表の黒木さんの万歳三唱で幕となった。
その後は各々別れての二次会となったのだが私たちは役員5人で隣の居酒屋でお疲れさん会となり、もうそんなに飲めないのだがしばらく話し込んだ。
 延岡から二人は昨晩は新橋で違う友達が集まって飲み会となったようで今夜はこれでお開き。
翌日、二人を交えて私ともども3人で東京スカイツリーへと向かった。
 私は今年の春2回行っているのでスムーズに行けるかと思っていたが、予約も取れなかったほどで当日入場は10時の時点で2時間待ち。しかし、整理券をもらって後でその時間に集合すればいいのでその間、ぶらぶらしたり少し早い昼食をとったりして無駄はなかったねぇ。
 天気もいいしこの季節で眺望がいいかなと思っていたが、気温が急に上がって暖かくなったせいかかえって見通しが悪くなったようで富士山も見えなかった。
 とりあえず近辺は見えたので良しとするほかない。
降りて近くの浅草を歩いたのだが今日は結構歩くねぇ、三人とも仕事でもこんなに歩かないといって、まさしく浅草にふさわしい喫茶店でしばし休憩。
 水上バスに乗ろうと言ったら、天気のいい日曜日1時間待ちということでここはあきらめた。
乗り場前で昔風の格好をした青年が歌を歌っていたなぁ。
 浅草らしい、のどかな光景である。
一度我が家に戻ってお茶を飲んで羽田へと向かったが、あわただしい二泊三日であったであろう。
 しかし、第一回目の関東地区の同窓会に九州延岡から駆け付けてくれた副会長二人に感謝である。
私にとっても大きな今年の節目であった。
 反省は後日としてとりあえず無事に終わったということで良しとしたい、どっと疲れが出たがこれもまた気持ちのいいものである。

424・延岡観光

一夜明けて、延岡の観光を知っておこうという兄の計らいで少し観光をした。
鮎やなと言って延岡では昔からあるアユ漁で、全国でもやなをかけてとるところは珍しいのだそうである。大瀬大橋たもとに立派なやながかけてあり観光客も来れるようにしてある。
 もっと宣伝をして観光バスで来てもらえるようになるといいねぇ、広い駐車場もあるし、このやなでとれた鮎を出すところも用意されている。
これは一見の価値があろうというものである。
 そしてお昼は、今やチキン南蛮料理発祥の地として有名な「直ちゃん」に寄ってみた、いつもは大変並ぶところだそうだが今日は3,4人しかおらずすぐに入れて運がいいほうなのだそうである。ここも私は全然知らないのだが名前だけは聞いていた。入って名物のチキン南蛮を食べてみたのだが確かにうまい、これでは人が並ぼうというものである。
 その後、直ぐ近くの今山へ上がってみたが、これこそ何十年ぶりであろうか。高校時代はこの麓の道路を毎日三年間通ったものである。しかし、当時でも上がった記憶はない。
ここで4月に行われる「今山大師祭り」は春の九州三大祭と言われているそうである。
 私も小さいころ父に連れられてきたことがあった。当時はお祭りというと傷痍軍人が白装束でアコーデオンで軍歌をひいていたりして気味が悪かったのを覚えている。
 すぐ近くの延岡駅から今日は出発なので、駅前にもいってみた。ここも大改造されるのだそうだ。
私がいたころとはずいぶんと違う、これも時の流れかねぇ。
戻る前に入院をしている母のもとへとりあえず今回の報告をしてから帰路についたが、私の人生、なかなかクウと散歩ざんまいというわけにはいかないようである。
 与えられたことを一つ一つこなしてこれからも暮らしていこうかね。

423、のべおか観光大使

なんとこの私がこのたび「のべおか観光大使」に委嘱されその任命式に帰延することになった。
11月8日、観光大使第1号に委嘱された高山さんが東京から経営者とともに延岡へ行きレセプションがあるので、その席で3人が新たに任命されその一人が私というわけである。
 会場は9月に延商の同窓会で出席してきたところである。
早めについたので準備中の若鮎レディと写真に納まったり、兄も招待されていたので一緒に納まったりして本番を待った。
 すごいねぇ、市長をはじめ商工会議所の重鎮らが勢ぞろいした感じで延岡の経営者の皆さんが200人近くも集まりそれはそれは壮観であった。
 その中で新たな観光大使3名が紹介され、また挨拶もさせていただき、私もマイクを握って挨拶もし、委嘱状と楯をいただいた。いつもは大会などで手渡す立場なのだが今夜はありがたく頂戴した。
その後宴会に入ると次から次へとあいさつをされて余分に持って行った名刺が初めてたりなくなった。
 これには焦ったねぇ、それで急きょ関東延商会の名刺を持っていたのでそれでその場をしのいだ。さすがにこれだけの反響といおうか、忙しいとは思わなんだなぁ慣れないこととはいえ読みが浅かった。
 新しい大使3人はごく一般の人なので、空手家は私一人で、終わりに演武をやってほしいと言われた。快く引き受けたのはいいが、最後ということは食べるのはともかく飲めないということである。皆さんがお祝いで次々にビールを持ってくるのにうまくごまかすしかない。
 早めに準備をしてマイクの裏でスタンバイ、いよいよ出番が来て司会者が紹介をしてくれる。
宴台に上がって演じたのは沖縄首里手では代表的なナイファンチ初段である。この型は全世界でも通じる型である。
まさに、・・・十よりかえるもとのその一・・・である。
 力強く演じ、しばらくマイクを持って場をつくろって呼吸を整え、今回の受賞につながった詩吟の縁を話しながら、腕に付けている「毘」のワッペンの説明をしながら、上杉謙信といえば「川中島」一つ吟じさせていただきます、ということで吟じたねぇ
 鞭性粛々 夜河を渡る~今夜は声の調子も絶好調!拍手喝采、最高の気分であった。
 最後に万歳三唱で締めくくったのだが、正直演武のおかげであまり食べていないのである。
 そしたら全然知らないのだが商業高校の先輩にあたる人が、ちょっと付き合ってくれということで繰り出した。
こういう場で商業高校卒業の人が紹介されたのが大変うれしいといって喜んでくれた。私もその気持ちはわかるので喜んでお付き合いをしたのだが、延岡の飲み屋街も金曜日のせいもあってか結構にぎわっているではないか。
 二軒ほどお付き合いをして実家に戻ってきたのだが、一空手家がこういう席で壇上に上がるなど大変うれしいことである。
 さっそく翌日の地元新聞では掲載され知り合いからメールや電話をいただいた。
 これも月刊空手道「温故知新」で4年も掲載され、また詩吟の友人がこれを強く推薦してくれたおかげである。
 皆さんとの縁に結ばれて生きている、否、生かされている、まさに感謝、感謝の一言である。