ユージン・スミスは、第二次世界大戦中、従軍カメ
ラマンとして、硫黄島などの太平洋諸島を回ります。
1945年の沖縄戦では全身を負傷し、二年間の療養
生活を余儀なくされます。
1958年には、「世界の十大写真家」に選出されます。
1962年には、日立製作所の依頼で、来日します。
1971年には、水俣市に移住して、水俣病問題に取
り組みます。
翌年、チッソ五井工場(千葉県)で取材中に、工場従
業員から水俣病患者ともども暴行を受け、失明の危機
に陥ります。
それでも、チッソを告訴しませんでした。
もし私が報道人であると同時に原告であるという立
場に立ったら、報道の公正さを保つのはいっそう困難
なものになるに違いない。
『ユージン・スミスの見た日本』
東京都写真美術館 編 東京都歴史文化財団
第二次世界大戦・・・私がシャッター・ボタンを押すた
びに、これらの写真が時を超えて生き残るかもしれな
いことを願いながら、これらの写真が将来、人々の心
に響くかもしれないことを祈りながら、ーー将来の人
々に深く考えさせ、認識させ、実感させるための、写
真による私の糾弾の叫びなのだ。

日立そして日本、どこへ行っても、被写体を見つけ
ることができた。
工場で、撮影旅行で、写真は働き盛りの日本を雄弁
に語る。
常にはにかみを含んだ間接的なニュアンスが、文字
の表わすことのできないものを強調する。

1956年生まれの上村智子は、外見は健康な母親の子
宮のなかで、水銀に冒された。
彼女が外界を知覚するのかどうかは、だれもわから
ない。
智子は、かわいがられ、無視されることがない。
家族のものは、生きとし生けるものは生きつづけね
ばならないのを、知っている。

ユージン・スミス 1978年10月15日 永眠
享年 五十四
カメラは、ものを見、かつ考える人間のための道具
である。
前回の問題 解答![]()
ニュートンの自宅の庭にあったリンゴの木(品種名
・ケントの花)の実は、落下しやすい性質でした。
今日の問題
ユージン・スミスのジャーナリストに対する言葉
で、〇〇〇に入るのは何でしょう。
「客観性」は〇〇〇であるという基本的な真理を
悟らなければならない。
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