〈 菅原道真のウメ伝説とウシ伝説 〉築紫紀行その9

 太宰府天満宮の本殿右手に、「飛梅」があります。

 平安の都における政争に敗れた菅原道真は、九州の太宰府に左遷させられます。
 その際に平安京の邸宅にあったウメの木が、1124年の時を超えて、九州の地で咲き続けています。
 主の九州行きを知り、約500kmという遠距離をものともせずに、飛んで来たそうです。

 ウメ伝説に加えて、ウシ伝説もあります。
 菅原道真が生まれた年は、ウシの年です。
 菅原道真が生まれた日は、ウシの日です。
 菅原道真が生まれた時刻は、ウシの刻です。
 平安の都から九州の太宰府までの行程は、ウマや船舶の使用が制限されたため、専らウシを利用しました。
 菅原道真が亡くなったのは、ウシの日です。

 遺言に基づき亡骸を車に載せてウシに引かせて行くと、突然ウシが歩みを止めました。
 そこで、その地に埋葬することになりました。
 後日、その地は太宰府天満宮の本殿となります。

太斎府天満宮 飛梅

〈 柳川 水辺の道 〉築紫紀行その8

〈 柳川城址と藩主別邸 〉築紫紀行その7

〈 柳川・北原白秋生家 〉築紫紀行その6

〈 柳川・堀割巡り(川下り) 〉築紫紀行その5

〈 元祖・大牟田ラーメン 〉築紫紀行その4

〈 三池カルタ歴史資料館 〉築紫紀行その3

〈 西鉄大牟田駅 〉築紫紀行その2

〈 柳川さげもん 〉築紫紀行その1

〈 秩父そば 〉秩父紀行その八

〈 神戸中華街・南京町 〉西摂津紀行その8

 
 

     前回の問題 解答
  モバイル社会研究所の2024年の調査によれば、一日に一時間以上インターネットを利用して学習している中学生は、35%です。
        

 
 
     今日の問題  
 太宰府天満宮には、何体の御神牛が建立されているでしょう。
           

 

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〈 パソコンとスマートフォン 〉表現学習の作品から

 モバイル社会研究所が、2024年に、こども達が使用しているパソコンとスマートフォンを、親はどのように見ているかを調査して公表しています。
   パソコンは学習用である    82%
   スマートフォンは遊び用である 90%

 今回の表現学習は、こども達から見たパソコンとスマートフォンについて、考えをまとめてもらいました。

 Aさんは、パソコンの良さを述べています。
 スマートフォンが受動的であるのに対して、パソコンは能動的な側面がありそうです。

 Bさんは、ネット社会の影響を述べています。
 ネット社会への依存性が強まれば強まるほど、こども達が被る影響は測り知れません。

2025 06 pasokon

〈 睡眠について考える 〉
   表現学習の作品から

〈 科学月刊誌『ニュートン』を参考に 〉
   表現学習の作品から

〈 日本の人口を考える 〉
   表現学習の作品から

〈 関心のあるテーマを選んで 〉
   表現学習の作品から


〈 科学月刊誌『ニュートン』を参考に 〉
   表現学習の作品から


〈 オリンピック・パラリンピック 〉
   表現学習の作品から

〈 発明・開発物語 〉 
   表現学習の作品から

 
 

     前回の問題 解答
  「北野大茶会」は、正式には「北野大茶湯」と呼ばれています。
        

 
 
     今日の問題  
 モバイル社会研究所の2024年の調査によれば、一日に一時間以上インターネットを利用して学習している中学生は、何%でしょう。
           

 

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千利休と豊臣秀吉 その8

 大阪城に続いて伏見城さらには聚楽第と、立て続けに造営した豊臣秀吉は、聚楽第完成祝いと九州平定祝いとを兼ねて、京都の北野において大茶会を企画します。

 秀吉が開催してきた茶会は、天皇や公家・大名級の武将・大商人など、上層の極めて一部に対象が限定されていました。
 秀吉は、それまでの茶会を一新させます。
 参加者を一般民衆まで拡大した茶会を催すことで、自身の権勢を広く見せつけようとしたのでしょう。
 「北野大茶会」は、「開かれた茶会」に加え、「十日間に渡る連日茶会」とされました。

 さぞかし大勢の参加者が連日押し寄せるだろうとの目論見は、無惨にも外れます。
 秀吉は、初日の参加者数から二日目以降の参加者数がさらに減少するは必至と予測し、「一日限定茶会」へ急変させます。

 連戦戦勝と勝ち戦が続いてきた秀吉にとって、「北野大茶会」は大誤算でした。
 茶の湯人気は止まる所を知らないと楽観視してきた利休も、覚醒させられました。   
                    < つづく >

  茶室 松花堂

 千利休と豊臣秀吉 その7

 千利休と豊臣秀吉 その6

 千利休と豊臣秀吉 その5

 千利休と豊臣秀吉 その4

 千利休と豊臣秀吉 その3

 千利休と豊臣秀吉 その2

 千利休と豊臣秀吉 その1

 皐月の歴史・水無月の歴史 その七

 いつから「日本」に その八

 
 

     前回の問題 解答
 人足寄場が開設されたのは、江戸時代三大改革の内、寛政の改革です。
        

 
 
     今日の問題  
 「北野大茶会」は、正式には何と呼ばれているでしょう。
           

 

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〈 どろぼう橋 〉川越紀行その8

 喜多院の森を抜けて南側へ下ると、小規模な堀が巡っています。
 その堀を跨いでいる、5mほどのコンクリート製の橋が、「どろぼう橋」です。

 昔々、現在のコンクリート橋が、丸太が一本架かっているだけの橋だったころ、ひとりのどろぼうが丸太橋を渡って喜多院へ逃げ込みました。
 当時の喜多院は、江戸幕府から朱印状を授かり、所領は安堵されていました。
 御朱印地へは、町方としても深追いできなかったのでしょう。
 なんとか逃げおおせたどろぼうは、寺内で犯した罪を自戒するに至ります。
 さらに斡旋された奉公先で、改心の一生を送ったということです。

 江戸時代、大罪を犯した者には、二つの刑がありました。
  死刑 命を絶つ
  追放刑 戸籍を絶つ

 戸籍から除外されれば、無宿者になって働き先が無く、犯罪を繰り返さざるを得なくなります。
 そこで、刑によって懲らしめた後は善に進ませる、「人足寄場」が開設されます。
 刑の執行が済んだ無宿者に対して、職業訓練、生活支度金の貯え、身元引受人の斡旋、戸籍への復帰・・・が行われていきました。

 「どろぼう橋」は、「人足寄場」など更正施設の役割を思い起こさせてくれます。
どろぼう橋

〈 喜多院と天海 〉川越紀行その7

〈 わらべ唄 ♬通りゃんせ♬ 発祥の地 〉
    川越紀行その6

〈 川越城・本丸御殿 〉川越紀行その5

〈 川越城・中ノ門堀跡 〉川越紀行その4

〈 菓子屋横丁 〉川越紀行その3

〈 鐘撞堂・時の鐘 〉川越紀行その2

〈 土蔵造りの町並 〉川越紀行その1

〈 三池カルタ歴史資料館 〉築紫紀行その3

〈 秩父そば 〉秩父紀行その八

〈 神戸中華街・南京町 〉西摂津紀行その8

 
 

     前回の問題 解答
 赤染衛門の次の歌の◯に入る漢字は、「与謝」と「橋立」です。
   思ふことなくてぞ見まし◯◯の海の
    天の◯◯みやこなりせば
       

 
 
     今日の問題  
 人足寄場が開設されたのは、江戸時代三大改革の内、何の改革でしょう。
           

 

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『 阿蘇海・天橋立・与謝海 』 6月の開進学園だより

 東西に長大な海岸線が続く若狭湾のうち、最も西側にあるのは、宮津湾です。
 宮津湾内で、奥まった東側が阿蘇海、間に天橋立を挟み、湾口寄りの西側が与謝海です。

 『枕草子』には、趣深い地形を紹介した章段があります。
 それらの中で、海は三ヶ所しか名前が挙げられていません。
   海は水うみ。与謝の海。かはふちの海。
 日本中には海域が数限りなくあるのに、与謝海が三本の指に数えられています。

 室町幕府の将軍・足利義満は、亡くなる前年まで、合わせて六回も、天橋立へ出かけています。
 天橋立を「宇宙の玄妙」と讃えながら。

 江戸時代に発行された『日本国事跡考』では、厳島・天橋立・松島が「三処の奇観」と紹介されます。
 これが、後になって「日本三景」と呼び換えられます。

 阿蘇海と与謝海双方の沿岸流によって、北岸にあった砂嘴は、南へ南へと延長し、南北に細長い砂州を造成します。
 そうなると、与謝海からの海水の流入が激減し、阿蘇海の水質が悪化します。

 そこで、『天橋立切断の願い』が、何度も提出されます。
 与謝海からの海水の流入を回復して阿蘇海の水質を改善するのか、あくまでも天橋立の景観を保全するのか、 阿蘇海と天橋立と与謝海との新たな連携が模索されています。

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『 つれづれなるままに 』 5月の開進学園だより

『 東京湾・伊勢湾・若狭湾 』 4月の開進学園だより

『 磁極の南北逆転 』 3月の開進学園だより

『 能登はやさしや土までも 』 2月の開進学園だより

『 四肢を超えたヘビ 』 1月の開進学園だより

『 しなざかる 』 12月の開進学園だより

『 二つのヘルツ 』 11月の開進学園だより

『 太古のニホン島 』 10月の開進学園だより

『 台風の盛衰 』 9月の開進学園だより

 
 

     前回の問題 解答
 1863年に、長州藩の藩庁は萩から山口へ移転します。
      

 
 
     今日の問題  
 赤染衛門の次の歌の◯に入る漢字は、何でしょう。
   思ふことなくてぞ見まし◯◯の海の
    天の◯◯みやこなりせば
           

 

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〈 三角州に造られた城下町・萩 〉本州の海岸線一周 その100

 笠山を後にし、世界遺産に指定されている恵美須ヶ花造船所跡や萩反射炉を過ぎると、城下町・萩です。

 中国山地から北流してきた阿武川は、日本海を前にして分流します。
 東側は、松本川となって、日本海へ注ぎます。
 西側は、橋本川となって、日本海へ注ぎます。
 中国山地から運ばれてきた土砂は、松本川と橋本川の間に堆積して三角州を形成ます。
 この広大な三角州上に造られたのが、城下町・萩です。
航空写真 萩 三角州

 三角州の西北端には、指月山(標高145m)があります。
 山頂の山城と山麓の平城を組み合わせた萩城が築かれたのは、1604年から1608年にかけてです。
 
 毛利輝元は、広島城を居城として、中国地方の八ヶ国を領有する、大大名でした。
 しかし、関ヶ原の戦いで敗れたため、中国地方の二ヶ国(周防と長門)を領有するだけとなります。

 毛利輝元としては、瀬戸内海側の防府か山口に築城したかったようですが、叶いません。
 結局徳川家康の意向に沿って萩を居城とし、三角州の低湿地埋め立てなどの難工事が続きます。
 さらには、度重なる洪水に悩まされます。

 写真は、城下町・萩の東側山麓にある、陶芸の村公園から写した萩の町並です。
山口県 萩 陶芸の村公園

〈 日本一低い火山・笠山 〉本州の海岸線一周 その99

〈 阿武海岸・合併を避けた阿武町 〉
     本州の海岸線一周 その98

〈 益田海岸・三里ヶ浜 〉本州の海岸線一周 その97

〈 浜田マリン大橋 〉本州の海岸線一周 その96

〈 筆投島 〉本州の海岸線一周 その95

〈 キララビーチライン 〉本州の海岸線一周 その94

〈 追石鼻 〉本州の海岸線一周 その93

〈 日御碕 〉本州の海岸線一周 その92

〈 多古鼻 〉本州の海岸線一周 その91

〈 地蔵崎 〉本州の海岸線一周 その90

 
 

     前回の問題 解答
 オランダ商館が出島へ移設される4年前に起きた、ポルトガル船の来航が禁止されることを決定づける大事件は、島原・天草の乱です。
      

 
 
     今日の問題  
 1863年に、長州藩の藩庁は萩からどこへ移転するでしょう。
           

 

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オランダ商館が出島へ移設

 384年前の五月十七日(2025年のカレンダーでは6月12日)、それまで平戸にあったオランダ商館が長崎の出島へ移設されました。
 ポルトガル人の日本への来航が禁止されて以降、出島のポルトガル商館は空き家になっていました。
 旧ポルトガル商館が、新オランダ商館へ衣替えしたわけです。  

 出島は、ポルトガル人を隔離するために造営されました。
 本土とは橋が一本架かっているだけの、人工の孤島です。

 オランダとしては、ヨーロッパとの対日貿易からポルトガルを放逐し、ヨーロッパとの対日貿易を独占できました。
 してやったりと思いながら、出島へ向かったかもしれません。
 しかしながら、現実は厳しいものです。

 本土とを結ぶ唯一の橋には、関所が置かれています。
 オランダ人はもちろんのこと、日本人の出入りも厳しく制限されます。
 オランダ商館長が江戸へ出向くなど、特別な場合を除き、オランダ人の外出は禁止されていました。
 不自由な毎日を送らなければならないオランダ人は、「まるで監獄だ」と嘆いたそうです。

 とは言え、この監獄のような狭苦しい空間が、日本とオランダ・ヨーロッパ・世界とを繋ぐ、重要な役割を果たすことになります。
絵図 出島

『 しなざかる 』 12月の開進学園だより

 

     前回の問題 解答
 その後秀吉は、10日間に渡る「北野大茶会」を、企画しました。
      

 
 
     今日の問題  
 オランダ商館が出島へ移設される4年前に起きた、ポルトガル船の来航が禁止されることを決定づける大事件は、何でしょう。
           

 

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