保科正之と明暦の大火

 江戸時代初期の正月十八日、江戸の町
の大半を焼き尽くす大火事が発生します。
 焼死者は、37000名とも、100000名と
も言われ、江戸時代で最大の大火事にし
て、戦災や震災を除けば日本史上で最悪
の惨事です。

 翌十九日、火の手は江戸城内をも襲い、
天守閣は焼け落ちます。

 火災が収まった翌々日の二十日、江戸
の町は大雪に見舞われ、かろうじて逃げ
延びた人々に凍死者が続出します。

 時の将軍・家綱は、17歳。
 将軍に代わって難事の采配を奮ったの
は、保科正之。
 前将軍・家光から後事を託された、会
津藩主です。

 延焼中に行ったのは、幕府の米倉の開
放です。
 伝え聞いた人々は、協力して延焼を食
い止め、米倉を守ります。
 鎮火した後、米倉から米を持ち出し、
大量の炊き出しが実施されます。

 大火後の復旧に当たっては、延焼を防
ぐために、広小路を設けるなどの、都市
計画を進めます。
 一方、消失した江戸城の天守閣は、戦
さの時代は過ぎたとして、再建させませ
んでした。

 江戸時代の末期、江戸の街は戦火に見
舞われることなく、江戸城も、天守閣も、
出番はありません。

 保科正之を祖とする会津松平藩は、薩
長土肥の連合軍と、徹底抗戦。
 鶴ヶ城の天守閣は、砲弾の集中攻撃を
浴びます。

 保科正之 十二月十八日(太陰太陽暦・
     2018年のカレンダーでは2月
     3日) 永眠
      享年 六十一

     辞 世
  万代といはひ来にけり会津山 
   高天の原の住み家もとめて

 画像の出展『会津松平家の祖 保科正之』
        会津若松市観光公社・発行   

hoshina masayuki
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 日本で、精神障害者が福祉の対象とな
ったのは、1995年からです。
 
 

      今日の問題 
 保科正之が会津に伝えた「高遠そば」
とは、どのようなものでしょう。

 
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