永井荷風と市川市菅野

 京成八幡駅で下車して北へ向かうと、その小路は「荷風ロード(荷風の散歩道)」と呼ばれています。
 小路を北へ北へ進むと、菅野で最も標高が高い地点に、白幡天神社が鎮座しています。
 木々が生茂る境内の東寄りには、永井荷風の石碑が立っています。

 永井荷風は、アメリカへ渡っては『あめりか物語』を、フランスへ渡っては『ふらんす物語』を、日本へ戻っては『つゆのあとさき』などを著し続けていました。

 1945年3月9日、大空襲により東京麻布で罹災します。
 同年5月25日には、転居した東京中野でも罹災します。
 同年6月28日には、東京を脱出して向かった岡山で三度罹災します。

 そうこうしているうちに、終の棲家と定めたのが、市川市菅野です。
 永井荷風は、移り住んだ市川市菅野近辺の終戦直後の様子を、次のように描写しています。

 わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を進み、枯枝や松毬を拾ひ集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代わりにしてゐる。また野菜を買ひに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいづこも松の並木の聳えてゐる砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢ふ外、殆ど人に出会ふことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢ふことなどは決して無い。
  『葛飾土産』 現代日本文學体系 第24巻 筑摩書房

 永井荷風 1959年4月30日 逝去
      享年 八十

永井荷風 石碑

新古今和歌集と後鳥羽上皇

ぬしなき宿となりぬとも 源実朝

咲きかけし  井伊直弼
 
 
 
      前回の問題 解答
  鹿島港付近を通る北緯36度線上を西進すると、日本海側の越前岬へ到達します。

       今日の問題 
 白幡天神社境内に立つ、永井荷風の石碑に刻まれた和歌の「 」に入る語句は、何でしょう。
   松しげる生垣つヾき花かをる
    「 」はげにもうつくしき里 

 

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