伊能忠敬の二番目の妻の名前は、資料
に残されていません。
「柏木幸七の娘」とあるだけです。
最初の妻が4歳年上だったのに対して、
二番目の妻は19歳も年下でした。
その妻との間にできたのが、長男・秀
蔵です。
秀蔵は、東北と北海道を巡った第一次
測量に、14歳で参加して以降、四国を中
心とした第六次測量まで、忠敬と8年間
も行動をともにしています。
秀蔵が誕生したのは、天明の大飢饉が
起きた年です。
東北地方では、何万人もの餓死者がで
ました。
江戸では、打ち壊しが頻発しました。
佐原でも、大騒動が起きかねない情勢
でした。
村方後見として、多数の名主達を監督
する立場にいた忠敬は、「侍を雇って、
警備を強めるべきだ」という意見を退け、
私財を叩いて、日々の食べ物に事欠く村
人達へ、炊き出しを続けます。
その結果、他の村々とは違って、佐原
では、一人の餓死者も出さず、騒動も起
きませんでした。
このような英断ができたのは、忠敬自
身はもちろん、名前が伝えられない境遇
にあった若妻が、誕生して間もない長男・
秀蔵を負ぶいながら、率先して事に当た
ったからでしょう。 <つづく>
伊能忠敬と四人の妻 その4
伊能忠敬と四人の妻 その3
伊能忠敬と四人の妻 その2
伊能忠敬と四人の妻 その1
前回の問題 解答
ワカ・プクヤーナ遺跡の日干しレンガ
は、アドベと呼ばれます。
今日の問題
伊能忠敬は、二番目の妻を何歳の時に
亡くすでしょう。
夢を実現する学習塾 開 進 学 園
ホームページ