〈 博多湾 ー 水城 ー 大宰府 〉築紫紀行その15

 7世紀後半、唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍が、朝鮮半島南部の覇権を巡って争いました。
 663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍は敗れたため、唐・新羅連合軍が日本へ侵攻するのではないかと危惧されました。

 そこで、博多湾岸にあった役所を大宰府に移設します。
 664年には、大宰府の博多湾側で福岡平野が狭まる地点に、東西の山地を結びつけるように土塁を築きました。

 土塁は、長さ約1.2km、幅約80m、高さ約10mもあります。
 土塁の博多湾側には外濠を、大宰府側には内濠を設け、水を湛えます。
 それゆえ、水城(みずき)と称されています。

水城 俯瞰図

 唐・新羅連合軍は日本へ侵攻せず、水城は、軍事的な役割を失い、大宰府の門の役割を果たしていきます。
 平安時代になると、大宰府の機能が博多へ移行したため、水城は維持されなくなります。

 現代に残る水城跡地は、花々に包まれて、戦乱の最前線であったころを感じさせません。
水城 石碑 花畑

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  「瞳」の名付けには、「ひとみ」以外に「あきら」があります。
                

 
 
     今日の問題  
 日本で最初に築造された国家レベルの軍事施設は、何でしょう。

    

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