7世紀後半、唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍が、朝鮮半島南部の覇権を巡って争いました。
663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍は敗れたため、唐・新羅連合軍が日本へ侵攻するのではないかと危惧されました。
そこで、博多湾岸にあった役所を大宰府に移設します。
664年には、大宰府の博多湾側で福岡平野が狭まる地点に、東西の山地を結びつけるように土塁を築きました。
土塁は、長さ約1.2km、幅約80m、高さ約10mもあります。
土塁の博多湾側には外濠を、大宰府側には内濠を設け、水を湛えます。
それゆえ、水城(みずき)と称されています。

唐・新羅連合軍は日本へ侵攻せず、水城は、軍事的な役割を失い、大宰府の門の役割を果たしていきます。
平安時代になると、大宰府の機能が博多へ移行したため、水城は維持されなくなります。
現代に残る水城跡地は、花々に包まれて、戦乱の最前線であったころを感じさせません。

〈 柳川城址と藩主別邸 〉築紫紀行その7
〈 柳川・北原白秋生家 〉築紫紀行その6
前回の問題 解答![]()
「瞳」の名付けには、「ひとみ」以外に「あきら」があります。
今日の問題
日本で最初に築造された国家レベルの軍事施設は、何でしょう。
