1956年5月1日、チッソ水俣工場付属
病院の院長が、水俣保健所に届け出ました。
これが、「水俣病の公式確認」とされて
います。
それから、六十年の歳月が流れました。
患者さんは、病いによって言葉を発する
ことができず、病死によって体験を証言する
機会を絶たれ、差別と偏見から身を守る
ために沈黙を余儀なくさせられてきました。
しかし、患者さんは、一人また一人と、
立ち上がりました。
そして、一人また一人と、患者さんに寄り
添おうとする動きが、全国に広がりました。
その結節点の一つが、水俣フォーラムです。
『水俣病 六十年』に寄せられた患者さんの
声の中から、紹介します。
自分の症状だけでなく、水俣病で死んだ
父のことや、胎児性で生まれた妹のことを
長い間、隠してきました。
だから、その後の一人での戦いというのは、
チッソや行政に謝ってもらうためだけでなく、
父や妹に、本当の自分に、自分が正直に謝る
ためでもあったんです。
緒方 正実

前回の問題 解答![]()
「往古来今これ宙という 四方上下これ
宇という」です。
今日の問題![]()
チッソ水俣工場は、水銀の排出を、
何年に初め、何年に中止したでしょう。
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