〈 蛤御門 〉春隣の京都紀行 その九

 江戸時代末期、公武合体派と尊王攘夷派との対立は、激烈を極めました。
 尊王攘夷派の急先鋒である長州藩は、1863年5月に下関でアメリカ・オランダ・フランスの艦隊を砲撃します。
 それに対して、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスの四国艦隊は、1864年8月に下関へ報復攻撃を仕掛けます。

 この四国艦隊下関砲撃事件のちょうど1ヶ月前、長州藩の尊王攘夷強硬派陸戦部隊は、京都へ進軍します。
 1864年7月、御所を守ろうとする江戸幕府・会津藩・薩摩藩などの連合軍と、長州藩尊王攘夷強硬派陸戦部隊が、激突します。

 戦火は、京都市街を覆います。
 三日間に渡り、2万8000軒の家々が焼け、十数万人が焼け出されました。
 流れ弾は御所の内部へ飛び込み、後に明治天皇となる親王も気絶したそうです。

 戦場の中心となったのは、御所より南西部にある蛤御門の周辺でした。
 京都が大火に見舞われた際、それまで閉ざされていた禁門が初めて開かれました。
 それ以来、「焼けて口開く蛤」に喩えて「蛤御門」と呼ばれていました。

京都 蛤御門

〈 市街地にできた水力発電所 〉春隣の京都紀行 その八

〈 南禅寺三門 〉春隣の京都紀行 その七

〈 琵琶湖疎水 〉春隣の京都紀行 その六

〈 禅林寺(永観堂)の多宝塔 〉春隣の京都紀行 その五

〈疎水分水路(哲学の道) 〉春隣の京都紀行 その四

〈 東山慈照寺(銀閣寺) 〉春隣の京都紀行 その三

〈 梅苑「花の庭」 北野天満宮 〉春隣の京都紀行 その二

〈 大文字の火床は雪化粧 〉春隣の京都紀行 その一
 
 
 
      前回の問題 解答
 「眼間」は、「まなかい」と読みます。
 
 

       今日の問題 
 「蛤御門の変」は、他に何と呼ばれるでしょう。

 

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