太宰府天満宮の南西方向にある太宰府市役所や観世音寺に西側に、大宰府政庁の跡があります。
大宰府は、663年に起きた白村江の戦いを機に設けられました。
その主な役割は、次の三点です。
一 九州と対馬・壱岐・種子島を管轄
二 外交の窓口
三 軍団や防人の統率
大宰府の町並は、東西約1.8km、南北約2kmにも及びます。
大宰府の北側には、太宰府政庁がありました。
東西約120m、南北約210mの地に、建物が建ち並んでいました。
「天下之一都会」と評価された大宰府も、やがて廃れ、礎石を残すだけとなります。
そこで、大宰府の存在を長く伝えようと、石碑が建立されます。
写真右側の石碑は、1871年に建立された、「都督府古址碑」です。
「都督府」は古代中国の役所名で、菅原道真が大宰府を「都府の楼」と記したことから、「大宰府政庁の跡」は「都府楼跡」とも呼ばれています。
写真左側の石碑は、1880年に建立された、「大宰府址碑」です。

〈 柳川城址と藩主別邸 〉築紫紀行その7
〈 柳川・北原白秋生家 〉築紫紀行その6
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今日の問題
平安時代末期の1158年、大宰大弐に任命されても現地へ赴任しなかったのは誰でしょう。
