島原・天草の乱 住民が原城址へ集結

 1637年の十二月三日(太陽暦で12月19
日)、島原と天草の住民は、原城址へ集結
します。
 島原半島と天草諸島の各地で立ち上が
っていた住民達です。
 過酷な年貢の取り立てと、キリスト教
取り締まりに、叛旗を翻していたのでし
た。

 集結した住民は、およそ37000名。
 対するのは、江戸幕府の老中を筆頭と
する、九州各藩の兵士など十数万名。

 数の上でも、装備の上でも、圧倒的な
差がありながら、原城址に立て籠もった
住民は、果敢に戦い、幕藩連合軍と互角
に対峙します。

 一月一日に実施された、幕藩連合軍の
総攻撃も、失敗。
 以後、兵糧攻めに作戦を変えます。

 二月二十八日、原城址は陥落。
 立て籠もった住民は、戦闘員も、非戦
闘員も、全員虐殺されます。

 幕藩体制の構築を図る江戸幕府や、幕
藩体制の下で延命を図ろうとする各藩と、
信教の自由を求める住民との、全面対決
でした。
 

hara shiro
 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

      前回の問題 解答
 人体で最大の臓器は、皮膚です。
 
 

      今日の問題 
 島原半島の藩主・松倉勝家は、島原・
天草の乱の後、どうなったでしょう。

 
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