カテゴリー別アーカイブ: 本に囲まれて

日中間に架ける橋 武田泰淳

 漢字で表記し、四字熟語や慣用句を
多用するなど、日本の文化は中国文化
の強い影響下にあり、日本文化と中国
文化は密接な関係にあります。

 それにもかかわらず、影響を受けた
のは中国古典文化であって後世の中国
文化ではないとし、後世の中国文化を
軽んじる傾向があります。
 それは、中国への蔑視につながり、
「進んだ日本」は「遅れている中国」へ
侵略してもかまわないという見解に結
びつきます。

 武田泰淳は、『風媒花』で次のよう
に述べています。

 米英と戦うことは、強者に挑んだ日
本人の、せつない戦いの一種であった。
 米英に対して、日本は無鉄砲な挑戦
者であったが、いやらしい侵略者では
なっかた(侵略者であることすら出来な
かった)。
 だが同じ黄色の皮膚をした隣国人に
対しては、日本は徹底的な強者、侵略
者、支配者として振舞おうとした。

 武田泰淳は、中国戦線の経験を経た
後、日中友好のために働くべく、戦局
が悪化する中国本土へ、自らの意志で
渡ります。

 日本と中国との間には断崖がそびえ、
深淵が横たわっている。
 その崖と淵は、どんな器用な政治家
でも、埋められないし、飛び越せもし
ない。
 そこには新しい鉄の橋のための、必
死の架設作業が必要だった。

 武田泰淳 1976年10月5日 永眠
      享年 六十四

takeda taijun

  

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 斎藤茂吉は、こう詠んでいます。
  たくましげ箱根の山に夜もすがら
   「薄」をてらす「月」のさやけさ
 

 

        今日の問題 
 武田泰淳は、『司馬遷』の中で記録に
ついてどう述べているでしょう。
  A おそろしい
  B 価値がある
  C むずかしい
  D やりがいがある

 

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大量俳句 連続速吟 井原西鶴

 井原西鶴は、41歳で『好色一代男』を
刊行し、51歳で『世間胸算用』を刊行す
るまで、小説家として歩み続けました。

 それ以前は、俳諧に没頭します。
 とりわけ、大量の俳句を連続して速吟
する、矢数俳諧に。

 矢数俳諧とは、一日24時間内に、どれ
だけたくさん俳句を詠むかを、競います。

 井原西鶴は、次々に記録を更新します。
   36歳  1600句
   39歳  4000句
   43歳 23500句

 3秒ごとに、一句、また一句と詠んだこ
とになる、空前絶後の大記録です。

   俳諧の息の根とめん大矢数

 井原西鶴 八月十日(2017年のカレン
       ダー・新暦で9月29日) 永眠
        享年 五十二

   憂世の月見過しにけり末二年

ihara saikaku

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 崇峻天皇の母方の祖父は、蘇我稲目
です。
 

 

        今日の問題 
 井原西鶴と同じ年に亡くなった俳人は、
誰でしょう。

 

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『十七条憲法』の謎 その九

 物部守屋が戦死すると、物部連は没落。
 大臣・蘇我馬子を中心とする政治体制
が確立します。
 他の氏族は、蘇我臣にただただ従属す
るばかり。
 天皇族とて、似たような立場に。

 崇峻天皇としても、蘇我馬子の後押し
を得て皇位に就いており、心中は穏やか
でなかったでしょう。
 兄の皇子は、物部守屋が推していたた
め、蘇我馬子に殺害されています。

 法興寺(飛鳥寺)を創建し、悦に入って
いる蘇我馬子の耳に、ある噂が伝わりま
す。
 崇峻天皇が、献上されたイノシシを前
に、次の言葉を口にしたと。
 「イノシシを斬るように、憎い奴をいつ
か斬ってみたいものだ」

 この噂が耳に入るやいなや、蘇我馬子
は崇峻天皇を殺害。
 葬儀を省略し、即日埋葬します。
 大臣・蘇我馬子の権力は、天皇の権力
を凌駕している状況を、見せつけるがご
とく。         <つづく>

hinon syoki hyoushi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 月面で一番大きいクラビウス・クレー
ターの直径は、約230kmです。
 

 

        今日の問題 
 崇峻天皇の母方の祖父は、誰でしょう。

 

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農民芸術 宮沢賢治

 宮沢賢治が盛岡高等農林学校の研究科
を終業したのは、1920年。
 この年、日本中で、小作争議件数も、小
作争議参加人員も、激増しました。
 1922年には、日本農民組合が設立され
ました。

 冷害などの要因が重なり、岩手県内の
農民も悲惨な状況でした。
 そのような中、賢治は花巻農学校の教
師を勤めた後、農村改革の実践活動を始
めます。
 そして、1926年にまとめたのが、『農民芸
術概論綱要』です。

 おれたちはみな農民である
 ずゐぶん忙しく仕事もつらい

 いまやわれらは新たに正しき道を行き
われらの美を創らねばならぬ
 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
 ここにはわれら不断の潔く楽しい創造
がある
 都人よ 来ってわれらに交われ
 世界よ 他意なきわれらを容れよ

 

 宮沢賢治 1933年9月21日 永眠
        享年 三十八

miyazawa kenji
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 信長の好物 湯漬け飯
 秀吉の好物 お粥
 家康の好物 握り飯

 

        今日の問題 
 『農民芸術概論綱要』の結論で、われ
らに要るものは何と言っているでしょう。

 

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『十七条憲法』の謎 その八

 蘇我馬子は、仏像破却令が出されるな
ど辛酸をなめながらも、耐え続けます。

 572年、蘇我馬子は大臣になります。
 同時に、物部守屋は大連になります。
 ここに、馬子と守屋による、両巨頭支
配体制ができあがります。

 蘇我臣は、新しい官僚統治を模索。
 物部連は、従来からの氏姓制度を固執。
 両者は激突します。

 587年4月、用明天皇が死去。
 次期天皇の選定を巡り、悶着が広がり
ます。
 天皇族内も、各氏族内も、馬子が推す
候補と守屋が推す候補の二派に分かれ、
対立します。

 587年7月、馬子は軍を起こし、守屋を
殺害。
 馬子側の軍には、天皇族の皇子達に交
じって、厩戸皇子も参戦します。

 時に、蘇我馬子37歳、厩戸皇子13歳。
 厩戸皇子は、父方も、母方も、蘇我臣
でした。
               < つづく>
 

hinon syoki hyoushi

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 アマゾン川河口近くのベレンから、対
岸のマカパまで、ダイヤ上は24時間で
航行することになっています。

 

        今日の問題 
 蘇我馬子の妻と物部守屋とは、どのよ
うな血縁関係にあったでしょう。

 

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『海城発電』 泉鏡花

 『高野聖』や『婦系図』を発表する前、
泉鏡花が24歳の時に発表たのが、『海城
発電』です。
 中国の海城から発せられた電報文の形
をとっています。

 神崎愛三郎は、赤十字社の看護員。
 中国側の捕虜になって中国側兵士を看
護した後、日本側に戻って来たところで、
日本側の兵士達から罵声を浴びせかけ
られます。

 意気地もなくて、捕虜になって、生命
が惜さに降参して、味方のことはうっち
ゃてな、支那人の介抱をした。

 き様は国体のいかむを解さない、非義、
劣等、の怯奴である、国賊である、破廉
恥、無気力の人外である。

 神崎愛三郎は、懸命に訴えます。

 自分の職務上、病傷兵を救護するには、
敵だの、味方だの、・・・ また、清国だの、
といふ、左様な名称も、区別も無いのです。

 日清戦争が終わった翌年、戦時色がま
だ濃く、検閲が厳しい時期、戦禍の中で
人の採るべき道を問う作品です。

 泉鏡花 1939年9月7日 死去
       享年 六十七

izumi kyouka

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 タンパク質は、古代の小麦が28%以上、
現代の小麦が10%含んでいます。、
  

 

        今日の問題 
 泉鏡花は、19歳から誰の書生となった
でしょう。
 A 大江健三郎
 B 大伴家持
 C 尾崎一雄
 D 尾崎紅葉

 

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『青鞜』の創刊

 1900年代の初頭、日本社会は大きく変
化していきます。
 各家庭で電灯がともるようになり、各
都市は鉄道網で結ばれるようになります。
 生糸や鉄鋼などの生産は、急速に増加
します。
 その反面、農民や労働者の争議も広が
りを見せます。
 日露戦争や第一次世界大戦に反対する
運動も起こります。

 このようなうねりの中で、文学者達も
立ち上がります。
 武者小路実篤等は、『白樺』を創刊。
反戦と平和を訴えます。

 この時期、女性の高等教育を受けたい
という願望が一段と高まります。
 1902年から1917年の15年間で、高等
女学校の卒業生は6倍弱も急増します。

 学問や職業を通じて見聞を広げた女性
達は、新たな地平を模索し始めます。
 そして、1911年9月1日、女性の覚醒を
願って創刊したのが、雑誌・『青鞜』です。

 創刊号の冒頭で、与謝野晶子が詠いあ
げます。

 山の動く日来る。
 かくいへど人われを信ぜじ。
 山はしばらく眠りしのみ。
 その昔において
 山は皆火に燃えて動きしものを。
 されど、そは信ぜずともよし。
 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
 すべて眠りし女(おなご)
 今ぞ目覚めて動くなる。

seitou soukangou

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

      前回の問題 解答
 蘇我臣の系図です。
  満智
   韓子
   高麗
  稲目
  馬子
  「蝦夷」
  「入鹿」

 

        今日の問題 
 平塚らいてうは、『青鞜』発刊に際し
て、「 」に何と述べているでしょう。
  「  」と最後の息は叫ぶであろう。

 

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