黒田長政は、1601年から博多の街の西側に当たる荒れ地に、舞鶴城(福岡城)を築き始めます。
東側には那珂川が流れ、西側には草ヶ江の干潟(入り江)があり、北側には新設した城下町の先に博多湾が広がり、その他多数の堀とともに城を守る重要な役割を果たします。
このうち「草ヶ江の干潟(入り江)」は、「大濠」と呼ばれるようになります。
「堀」は、水を張っていれば「水堀」で、水を張っていなければ「空堀」です。
一方、「濠」は水を張っている場合だけに用いられ、「水濠」や「空濠」とは用いません。
舞鶴城(福岡城)跡が「舞鶴公園」に衣替えしたのに対して、大濠跡は「大濠公園」へ衣替えしました。
周囲約2kmの大きな池を取り囲むように、日本庭園などが整備されています。
なお、舞鶴城(福岡城)跡西側の大濠と対称的に、舞鶴城(福岡城)跡東側から、「鴻臚館」に関連する遺構が発掘されています。
飛鳥時代から平安時代にかけての、古代日本最大級の国際交流拠点の全容解明が待たれます。

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「栂尾」は、「とがのお」です。
今日の問題
平安時代に国際交流拠点である鴻臚館は、どの都市に設置されていたでしょう。
