糸魚川の市街地から西へ10kmほど進んだ一帯は、親不知海岸と呼ばれています。
その昔、源氏と平家が争いを繰り返していたころ、平頼盛(平清盛の弟)の後を追って来た奥方が、この海岸で二歳の幼児を波にさらわれてしまいました。
悲嘆にくれる奥方は、悲しみをこらえて、次の歌を詠んだそうです。
親知らず子はこの浦の波まくら
越後の磯のあわと消えゆく
この「親知らず」から、「親不知」の地名が生まれたと言われています。
なお、親不知駅近くの海岸にある、「投げ岩」と「鬼蹴り岩」より、西側は「親不知」、東側は「子不知」です。
親は子を心配するどころでなく、子も親を心配するどころでなく、我が身一人を海崖から突き落とされぬようにするのが精一杯という、北陸道で最難関の険しい海岸でした。
〈 大河津分水 〉本州の海岸線一周 その51
〈 弥彦山 〉本州の海岸線一周 その50
〈 県境を跨ぐ集落 隣家は他県 〉本州の海岸線一周 その46
〈 古代・鼠ヶ関と近世・念珠関 〉本州の海岸線一周 その45
前回の問題 解答
富里市立向台こども園の4歳児の25m走平均記録は、事業開始前は全国値を下回っていましたが、事業開始後には全国値を上回りました。
今日の問題
1883年に親不知海岸に道路が開通した際、岩肌に刻まれた「如砥如矢」は、どのような意味でしょう。
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