千利休と豊臣秀吉 その7

 豊臣秀吉は、収集した名器を披露することのみを目的にするかのような茶会を、幾度も催します。
 名だたる名器が並ぶ様に、武将達の秀吉に対する心服の度合いは、深まるばかりです。

 秀吉は、黄金の茶室まで拵えます。
 大きさは、利休の助言を受けて、広間からしぶしぶ三畳の間へ縮小しましたが。
 それにしても、茶筅(ちゃせん)と茶杓(ちゃしゃく)を除く大半が黄金製とあっては、利休ならずとも唖然とします。

 折りたたみ式で自由に移動できる黄金の茶室を携え、御所内で再び茶会を催します。
 さらには、朝鮮へ出兵するに当たっての拠点とした名護屋城(佐賀県唐津市)でも、黄金の茶室を持参して茶会を開くほどでした。 < つづく >

  茶室 松花堂

 千利休と豊臣秀吉 その6

 千利休と豊臣秀吉 その5

 千利休と豊臣秀吉 その4

 千利休と豊臣秀吉 その3

 千利休と豊臣秀吉 その2

 千利休と豊臣秀吉 その1

 皐月の歴史・水無月の歴史 その七

 いつから「日本」に その八

 

     前回の問題 解答
  天海は、徳川家康の墓所を、江戸の真北に当たる日光と定めました。
     

 
 
     今日の問題  
 その後秀吉は、10日間に渡る何を企画したでしょう。
           

 

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