豊臣秀吉が戦功を積み上げてのし上がってきたのに対して、明智光秀は目立った戦功がないにもかかわらず、常に主要な地位を占めてきました。
他の武将達には無い、足利将軍家や公家との太いパイプと室町文化への深い造詣が、背景にあったからです。
織田信長による天下取りは、近畿一円を済ませ、中国地方・四国地方・九州地方へ進んでいました。
足利将軍家や公家の力を借りるまでもない段階へ、入っていました。
また、それまでの室町文化とは異なる、茶の湯を代表とする安土文化が花開き始めていました。
光秀は、茶の湯を御政道として利用する信長のやり方や、茶の湯にすっかりはまり込んでいる秀吉を、苦々しく思っていたことでしょう。 < つづく >
前回の問題 解答
日本海沿いで、島根県側西端の益田市に隣接する、山口県側東端の市町村は、「萩市」です。
今日の問題
豊臣秀吉が、本能寺の変の翌年から大規模に築き始めたのは、何城でしょう。
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