江戸時代には、「西の富士・東の筑波」と、筑波山が富士山と並び称されていました。
両者とも、広い裾野を持つ独立峰で、秀麗な山容を示しています。
とはいうものの、標高3776mの富士山に対し、筑波山は標高が877mと二割強しかありません。
標高では圧倒される筑波山が、富士山と肩を並べるに至った背景には、江戸の街との位置が関係していました。
日本では古くから、東・西・南・北・北東・東南・南西・西北の八方位のうち、北東を鬼門と捉えていました。
北東方向は、忌むべき方位であると考えらていました。
江戸に幕府を開くにあたり、江戸城の北東方向に当たる上野に寛永寺が創建されました。
神田明神も、江戸城の北東方向に移築させられました。
これらは、「鬼門封じ」と呼ばれています。
江戸の街を離れた北東方向にも、「鬼門封じ」が講じられました。
それが、筑波山を神域とする筑波山神社です。
筑波山は、神社ともども、江戸幕府と江戸の街の守り神となりました。
江戸幕府は、それだけで十分とは考えられなかったのでしょう。
筑波山を越えたさらに北東方向に、水戸城があります。
その水戸城に、徳川御三家の一つを配置して、江戸防衛の万全を期したのでした。
前回の問題 解答
蒸気機関車による公共輸送が19世紀に始まったのに対して、電車による公共輸送が始まったのも19世紀です。
今日の問題
縄文海進のころ山麓までが海が迫り、「着く波」と呼ばれたのが基になった山の名前は、何でしょう。
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