千利休と豊臣秀吉 その15

 千利休には、高弟が七人おり、「利休七哲」と呼ばれています。
 『江岑夏書(利休の孫に当たる千宗旦 著)』によれば、次の七人です。
  一番 蒲生氏郷
  二番 高山右近
  三番 細川忠興
  四番 芝山監物
  五番 瀬田掃部
  六番 牧村大輔
  七番 古田織部

 いずれも、名だたる武将です。
 上記七人以外の武将の多くからも深く慕われて利休であれば、利休自身は武将でなくとも、利休を師と仰ぐ一大勢力が築かれる可能性もあります。

 豊臣秀吉は、利休の存在が疎ましくなり、利休と師弟の関係で結ばれている武将達を注意深く見張っていたでしょう。
 徳川家康一人を客人に迎えた茶会を最後に、利休は謹慎処分となります。

 秀吉に対して正面から進言してきた弟の豊臣秀長が病死した後、煙たい存在として唯一残る利休は、秀吉によって消される運命にありました。
 ただただわび茶を追究するだけに過ぎないとしても、政治的な情勢は、利休の存命を許しませんでした。

  茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて
   飲むばかりなり本を知るべし 利休 < 完 >

茶室 松花堂

 千利休と豊臣秀吉 その14

 千利休と豊臣秀吉 その13

 千利休と豊臣秀吉 その12

 千利休と豊臣秀吉 その11

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 千利休と豊臣秀吉 その5

 千利休と豊臣秀吉 その4

 千利休と豊臣秀吉 その3

 千利休と豊臣秀吉 その2

 千利休と豊臣秀吉 その1

 

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 戒壇院が創建された1260年前ごろは、奈良時代でした。
                    

 
 
     今日の問題  
 利休が自害した直後、秀吉は、何国と何国へ入貢を要求し、何国への侵略を命じたでしょう。

    

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