月別アーカイブ: 2025年10月

茶室は戦国の世を その1

 天正十年水無月二日(1582年6月21日)、新月の翌日で、月明かりの無い闇夜の中を、大軍が京都の市街地へ押し寄せます。
 本能寺は、大半の寺院と違って堀や土塀で囲んで戦に備えていたとはいえ、防戦むなしく炎上します。
 時わずかにして、戦は収束するかと思われました。

 しかし、明智光秀に率いられた大軍は、大誤算を強いられます。
 狙っていたものを、手に入れられなかったからです。

 一つは、織田信長です。

 織田信長を警護する数十から百数十名に対して、明智光秀は一万五千名もの大軍で挑んだのです。
 犬一匹、逃げ出せるはずがありません。

 それにもかかわらず、本能寺の内外を隈無く探索しても、織田信長の姿(死体ないし首)が、見つかりません。
 そのため、「織田信長は、薩摩へ逃げ延びた」などなど、様々な噂が立ちました。     < つづく >

茶室 松花堂

 千利休と豊臣秀吉 その15

 千利休と豊臣秀吉 その14

 千利休と豊臣秀吉 その13

 千利休と豊臣秀吉 その12

 千利休と豊臣秀吉 その11

 千利休と豊臣秀吉 その10

 千利休と豊臣秀吉 その9

 千利休と豊臣秀吉 その8

 千利休と豊臣秀吉 その7

 千利休と豊臣秀吉 その6

 千利休と豊臣秀吉 その5

 千利休と豊臣秀吉 その4

 千利休と豊臣秀吉 その3

 千利休と豊臣秀吉 その2

 千利休と豊臣秀吉 その1

 

     前回の問題 解答
 関門国道トンネルの調査用のトンネルが着工した1937年、日中戦争の始まりとなる盧溝橋事件が起きました。
                     

 
 
     今日の問題  
 本能寺の変が起きる前日、本能寺にて何が催されたでしょう。 

    

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〈 関門国道トンネル・前編 〉門司紀行その9

 門司側の和布刈と、下関側の壇ノ浦の間を流れているのは、早鞆瀬戸(はやとものせと)です。
 最も狭い幅630mを、最速で時速約20kmの潮が流れています。
 その海底を通っているのが、関門国道トンネルです。

関門トンネル 人道入口

  1937年 調査用のトンネルが着工
  1957年 トンネル本体が完成
  1958年 関門国道トンネルが開通
 戦中戦後の休工期間を挟み、足掛け21年間にも及ぶ、大工事でした。

関門トンネル 人道 標識 門司・下関

 厚さ約1mのコンクリートが、トンネルを地圧と水圧から守り抜いています。
 換気のために、トンネル内と地上部を繋ぐ4本の垂直トンネル(立坑)が、建設されています。
 設置されているポンプは、一日あたり約4800トン、25mプール16面分もの水を、排水し続けています。

関門トンネル 県境

〈 関門橋 〉門司紀行その8

〈 和布刈公園 〉門司紀行その7

〈 九州最北端 太刀浦埠頭 〉門司紀行その6

 〈 新門司港 〉門司紀行その5

〈 海上大浴場 〉門司紀行その4

〈 寄港地・徳島 〉門司紀行その3 

〈 東京港から潮岬沖へ 〉門司紀行その2

〈 東京/有明港フェリーターミナル 〉門司紀行その1

 

     前回の問題 解答
 次の言葉を残して発明に没頭したのは、エジソンです。
 「みんな寝過ぎだ。わたしは、死んだ後にたっぷり眠るつもりだ。」
                     

 
 
     今日の問題  
 関門国道トンネルの調査用のトンネルが着工した1937年、日中戦争の始まりとなる何事件が起きたでしょう。 

    

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〈 発明物語 〉表現学習の作品から

 発明王とも呼ばれるエジソンは、生涯で1300件もの発明を成し遂げたそうです。
 それらの中で最たるものは、電球でしょう。
 電球は、暗闇をなくし、夜を明るくしてくれました。
 その反面、夜通しの勤務など、過労を強いられる事態も招きました。
 人の幸福を願ったはずの発明にもかかわらず、思い通りに行くとは限らないようです。
 今回の表現学習のテーマは、「発明物語」です。

 Aさんは、「テストで100点取れるシャーペン」を考えました。
 ただし、中学生向けのシャーペンだったようです。

 Bさんは、「友達を増やせるマイク」を考えました。
 口数が少なく友達ができない風太君のためのマイクでしたが。

2025 10 hatsumei

〈 「いただきます」と「ごちそうさま」 〉
   表現学習の作品から

〈 花粉症・自立 〉
   表現学習の作品から

〈 自分の部屋・家族の部屋 〉
   表現学習の作品から

〈 科学月刊誌『ニュートン』を参考に 〉
   表現学習の作品から

〈 日本の人口を考える 〉
   表現学習の作品から

〈 関心のあるテーマを選んで 〉
   表現学習の作品から

 

     前回の問題 解答
 瀬戸内海国立公園で最西端に当たるのは、火の山です。
                     

 
 
     今日の問題  
 次の言葉を残して発明に没頭したのは、誰でしょう。
 「みんな寝過ぎだ。わたしは、死んだ後にたっぷり眠るつもりだ。」

    

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〈 火の山 〉本州の海岸線一周 その108

 唐戸市場を後にして、関門海峡沿いに下関の市街地を北西方向に進むと、左手に火の山が聳えてきます。
 標高は、268mです。

 昔々、山頂付近に敵軍の動向を知らせるための狼煙台が設けられました。
 この「狼煙」が「火」に転化して、「火の山」と呼ばれるようになったようです。
 火の山は、名称の由来以降も、戦いと深く繋がります。

 火の山の南側眼下は、壇之浦です。
 平安時代末期の1185年、平家と源氏の雌雄を決する最後の戦いが、繰り広げられました。

 火の山の東側眼下には、長州藩下関前田台場跡があります。
 江戸時代末期の1863年と1864年、長州藩とアメリカ・イギリス・オランダ・フランスが、武力衝突を繰り返しました。

 明治時代に入ると、火の山は下関要塞に繰り込まれ、山頂には砲台が設置されました。
 要塞から解除されたのは、第二次世界大戦の後です。

 800余年に渡る戦乱の世を経て、風光明媚な火の山は、市民に開放されます。
 1956年には、火の山公園が開設されています。

山口県 火の山公園

〈 唐戸市場とフクマネキン 〉
     本州の海岸線一周 その107

〈 関彦橋 〉
     本州の海岸線一周 その106

〈 世界一小さい下関漁港閘門 〉
     本州の海岸線一周 その105

〈 本州最西端・毘沙ノ鼻 〉
     本州の海岸線一周 その104


〈 角島大橋 〉
     本州の海岸線一周 その103

〈 本州最西北端・川尻岬 〉
     本州の海岸線一周 その102

〈 本州最西北部・向津具半島 〉
     本州の海岸線一周 その101

〈 三角州に造られた城下町・萩 〉
     本州の海岸線一周 その100

〈 日本一低い火山・笠山 〉
     本州の海岸線一周 その99

〈 阿武海岸・合併を避けた阿武町 〉
     本州の海岸線一周 その98

 

     前回の問題 解答
 一年ごとに拡大するサバクの面積は、地球全体で約60000㎢にもなります。
                     

 
 
     今日の問題  
 瀬戸内海国立公園で最西端に当たるのは、何山でしょう。

    

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『 サハラ・サバク 』 10月の開進学園だより

 サハラ・サバクを訪れると、それまでの「自動車は通れず、ラクダに頼るしかないのが砂漠」という思い込みとは、明らかに違っていました。
 四輪駆動車(4WD)に乗り換えなくとも、自由気ままに走行できる、地盤が堅い平原が続いていたからです。
 ラクダに跨って進む砂地や砂丘もありましたが、ごく一部でした。

 「砂漠」という表記は、「砂漠=砂サバク=砂地形」を連想しがちです。
 そこで、「沙漠」という表記が出てきました。
 童謡『月の沙漠』も、日本沙漠学会も、「砂漠」ではなく「沙漠」を採用しています。
 ただし、「砂」も「沙」も「漠」も、意味の上では「すな」で繋がっています。

 サバクは、乾燥の度合いが著しい気候を表しており、砂とは関係ありません。
 年間降水量が、年平均気温から算出された乾燥限界の半分を下回れば、サバク気候と判定されます。

 サハラ・サバクにあるホテルは、室内のベットで休むか、屋外のテントで休むか、選択制になっています。
 屋外のテントを選択すると、風よけがあるだけで、屋根はありません。
 大地に直に置かれたマットに横たわると、眼の先には空を覆い尽くすほどの星々が煌めき、その間を流れ星が幾つも降り注いでいました。

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『7月26日から9月7日までの間に 』
    9月の開進学園だより

『 余部鉄橋から新余部橋梁へ 』 8月の開進学園だより

『 大の里・照ノ富士・澤勇 』 7月の開進学園だより

『 阿蘇海・天橋立・与謝海 』 6月の開進学園だより

『 つれづれなるままに 』 5月の開進学園だより

『 東京湾・伊勢湾・若狭湾 』 4月の開進学園だより

『 磁極の南北逆転 』 3月の開進学園だより

『 能登はやさしや土までも 』 2月の開進学園だより

『 四肢を超えたヘビ 』 1月の開進学園だより

 

     前回の問題 解答
 関門橋が開通した1973年前後、日本も世界も石油ショックに大騒ぎでした。
                     

 
 
     今日の問題  
 一年ごとに拡大するサバクの面積は、地球全体で何㎢でしょう。
   A 約6㎢
   B 約60㎢ 
   C 約600㎢ 
   D 約6000㎢
   E 約60000㎢
   F 約600000㎢

    

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〈 関門橋 〉門司紀行その8

 和布刈公園の真下に、和布刈トンネルが通っています。
 北九州市門司区側から下関市方面に和布刈トンネルを抜けると、関門橋が出迎えてくれます。

 関門海峡を跨ぐ関門橋は、全長が1068mもあり、開通当時は国内最長で世界第十位の吊り橋でした。
 幅は26m、桁下から海面までは61mもあります。

 関門を南北に挟む門司区と下関市を結ぶ交通路は、航路を除いて三本ありました。
  関門鉄道トンネル(山陽本線)
  関門国道トンネル(国道2号線)
  新関門トンネル(山陽新幹線)
 いずれも関門海峡の下を抜ける、海底トンネルです。

 古来からの海上交通路に、近年の海底交通路が加わり、さら橋上交通路も加わりました。
 関門海峡は、三層の交通路がひしめく、日本屈指の交通の要衝です。

関門橋

〈 和布刈公園 〉門司紀行その7

〈 九州最北端 太刀浦埠頭 〉門司紀行その6

 〈 新門司港 〉門司紀行その5

〈 海上大浴場 〉門司紀行その4

〈 寄港地・徳島 〉門司紀行その3 

〈 東京港から潮岬沖へ 〉門司紀行その2

〈 東京/有明港フェリーターミナル 〉門司紀行その1

 

     前回の問題 解答
 利休が自害した直後、秀吉は、インドとフィリピンへ入貢を要求し、朝鮮への侵略を命じました。
                     

 
 
     今日の問題  
 関門橋が開通した1973年前後、日本も世界も何に大騒ぎしていたでしょう。

    

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千利休と豊臣秀吉 その15

 千利休には、高弟が七人おり、「利休七哲」と呼ばれています。
 『江岑夏書(利休の孫に当たる千宗旦 著)』によれば、次の七人です。
  一番 蒲生氏郷
  二番 高山右近
  三番 細川忠興
  四番 芝山監物
  五番 瀬田掃部
  六番 牧村大輔
  七番 古田織部

 いずれも、名だたる武将です。
 上記七人以外の武将の多くからも深く慕われて利休であれば、利休自身は武将でなくとも、利休を師と仰ぐ一大勢力が築かれる可能性もあります。

 豊臣秀吉は、利休の存在が疎ましくなり、利休と師弟の関係で結ばれている武将達を注意深く見張っていたでしょう。
 徳川家康一人を客人に迎えた茶会を最後に、利休は謹慎処分となります。

 秀吉に対して正面から進言してきた弟の豊臣秀長が病死した後、煙たい存在として唯一残る利休は、秀吉によって消される運命にありました。
 ただただわび茶を追究するだけに過ぎないとしても、政治的な情勢は、利休の存命を許しませんでした。

  茶の湯とはただ湯をわかし茶を点てて
   飲むばかりなり本を知るべし 利休 < 完 >

茶室 松花堂

 千利休と豊臣秀吉 その14

 千利休と豊臣秀吉 その13

 千利休と豊臣秀吉 その12

 千利休と豊臣秀吉 その11

 千利休と豊臣秀吉 その10

 千利休と豊臣秀吉 その9

 千利休と豊臣秀吉 その8

 千利休と豊臣秀吉 その7

 千利休と豊臣秀吉 その6

 千利休と豊臣秀吉 その5

 千利休と豊臣秀吉 その4

 千利休と豊臣秀吉 その3

 千利休と豊臣秀吉 その2

 千利休と豊臣秀吉 その1

 

     前回の問題 解答
 戒壇院が創建された1260年前ごろは、奈良時代でした。
                    

 
 
     今日の問題  
 利休が自害した直後、秀吉は、何国と何国へ入貢を要求し、何国への侵略を命じたでしょう。

    

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